第5話 戦場ヶ原の戦い

5回裏のことだった。

こちらの攻撃が3人で終わってしまったため、なるべく守備の時間を短くしたいと考えていた。

守備が長いと集中力が切れ、攻撃にも悪影響を及ぼしてしまう。緊張と弛緩を繰り返すことで、精神的にも疲労してしまうからだ。

そのためには、三好のような打たせて取るピッチングが望ましいのだが、それを伝えたところで聞いてくれるかどうか。

少し悩んで、言葉ではなくサインで伝えることにした。すなわち、変化球の割合を増やすことだった。

彼の変化球は鋭く落ちる高速シンカーだが、急速がある分変化が小さいため、バットには。引っ掛けてくれれば、少ない球数で殺すことが出来る。

そう思ったのだが、案の定、出したサインには首を振られた。

仕方なく、ストレートのサインを出し、ミットが流されないように気をつけていたが、次の瞬間にはミットの中にボールが収まっているか確認してしまった。左手が受けた衝撃が驚く程小さかったからだ。

確かに、ランナーを出す前の方が、後に比べて球威が劣っていた。だが、今受けたそれは、とても同じ人物が投げているものとは思えなかった。

あれだけ全力で投げ続けていれば球威も落ちてくるだろうが、原因はそれだけではないように思える。

とはいえ、確信があったわけではない。そこで、違和感に蓋をして、一球様子を見ることにした。そして、次の一球でハッキリした。やはり普通ではないと。

カァァン、と景気の良い金属音が鳴り響いた。ジャストミートした音だ。

鋭い打球はレフト戦の長打コースへ飛んでいった。この試合、初めてのツーベースヒットを許してしまう。

ストレートにヤマを張っていた様なスイングだったが、真芯で捉えるとなると、出会い頭で済ませられはしない。さっきの回までならバットの下を振っていたからだ。

この地球上には重力が存在している。当たり前の話であり、あらゆる物体に対して平等に働く。それは、投げたボールも例外ではない。投げれば、当然そのボールは投げた方向に落下する。その落下の仕方やその度合いは、スピンの量と掛け方によって異なる。

すなわち、フォークやチェンジアップのように回転を抑えれば下に沈み、スライダーやカーブのように回転の掛け方を横や斜めにすれば曲がっていくのだ。

そして、このストレートという球種である。

実はこれ、真っ直ぐストレートとは名ばかりの変化球なのである。ボールにバックスピンを掛けることで揚力を生み出し、落下の度合いを小さくするのだ。つまり、この回転数が多ければ多い程、ボールは落ちにくくなる。

バッターは通常向かってくるボールを見続けているわけではない。リリースした直後のボールを見て、どのコースに飛んでくるかを予測する。

そのため、強いバックスピンの効いたストレートは予想の軌道に落ちてこず、結果として浮いていると錯覚してしまう。これを、伸びのある球と表現するわけであるが、彼の投げる球が正にそれだったのだ。

だからバッターはことごとく下を振っていたのだが、バットの上でも下でもなく、真ん中に当たってしまった。

原因は、スピンが弱くなったこと。問題は、何故弱くなったのかということである。

どうやら本人にも原因は分かっていないようで、その表情から、単なる疲労というわけではないことが窺える。青ざめている。

すかさずタイムを取ってマウンドに向かう。

すると、ベンチから織田先生が走ってきた。側から見て、放っておける状況ではないようだ。僕が到着する前に僅かに言葉を交わした後、交代のピッチャーとして三好が呼ばれた。織田君は、静かにベンチに戻って行った。

突然の交代劇に、何が起きているか分からず、味方は戸惑い、敵はざわつく。

先生は、どうやら事情を知っているらしかった。試合が終わったら、少なくとも僕は話を聞きに行かなければならないと思った。頼むと言われておきながら、何も出来なかった、役立たずの僕だが、それくらいの責任は感じている。

「おい」

そんな空っぽの頭の僕を、同級生の三好がグラブで軽く叩いてきた。

「お前まで動揺してどうすんの。グラウンドの指揮官はキャッチャーだろ?指揮官がグラグラしてたら、みんな不安になる」

そうだった。この空気は少し良くない。僕が締めないと

「そうそう、シャキッとしてくれ。そうじゃないと俺が頑張らなきゃならなくなる」

いやそこは頑張ってくれ。

三好正則。僕と同級生の控えピッチャーだ。なにかと面倒くさがりの彼だが、試合では安定感があり、それなりに高い評価を得ている。

それなのに何故、こちら側についたのか聞いてみたところ、先輩が少ないからという、よく分からない理由だった。

「先輩が多いと色々めんどくさいじゃん?挨拶がどーだこーだとか」

まぁ分かる気はする。試合に出られるから良いというわけではなく、何を求めるかは人それぞれということだな。

ともあれ、三好の言う通り、ここで隙を見せてしまっては敵に付け入る隙を与えてしまう。

このイニングが終わればグラウンド整備があるため、試合は一時中断にはなるが、もしも流れを持っていかれてしまえば、後半戦に影響が出る。

まずは、次のバッターを確実に仕留めたい。

幸い、ランナーが2塁にいるわけだから盗塁やヒットエンドランの心配は少ない。集中して抑えていこう。

「あ、俺まだ肩出来上がってないから。そこんとこよろしく」

そうだ。突然のアクシデントだったわけだから、準備をする時間があるはずもない。おまけに、先発のピッチャーがあれ程見事に抑えていたのだから、こうなるのは当たり前か。

肩を作る、というのは、ピッチャーにとってはただのウォーミングアップ以上の意味を持つ。

野手は取ってから送球をするが、その時、縫い目に指がどう掛かるかまでは気にしない、というかしている暇はない。投げる体勢になっているかと、ちゃんと握れているかどうかが問題である。

しかしピッチャーの場合、まず、明確にストライクが存在する。すなわち、コントロールが重要になってくる。

もちろん、野手も相手の胸に投げるものである。その方が、捕った後の送球に繋げやすかったり、そもそも捕りやすいわけだからミスが少なくなる。だが、そもそもその後のプレイが無かったり、ワンバウンドしようがしっかり捕球出来てしまえば問題はない。

この点に関して、野手とピッチャーとでは大きな差がある。他にも、投げる場所や投げるまでの動作等、細かなところを見ればそこかしこに違いがある。

ピッチャーはそれだけ多くのことを考えなければならない。すなわち、ピッチャーが肩を作るとは、自分の状態やマウンドの状況を確かめ、まともなピッチングが出来るように調整するということなのである。

それが出来ていないということは、試合の中で修正していかなければならない。投球練習があるといっても、それはブルペンとマウンドの誤差を調整する程度のものだ。

おまけに、このピッチャーは頭で考えるというより体を動かして、その感覚を頼りにするタイプだから、その機会が少ないと、コントロールや変化球の曲がり具合という部分で不安が残る。

そうなると、実戦の中で合わせていかなければならないと言うことか。

果たしてどの程度で調整が済むのだろうか。

どうやら、無失点で切り抜けるのは難しそうだな。

嘆いていてもしょうがないので、腹を括ることにした。

まずはストレートから。一般的に、この球が1番コントロールしやすいとされている。これで指先の感覚を確かめてくれ。

アウトコースの際どいところに構えていたが、少し外れてボールゾーンに投げ込まれた。幸い、そのズレは僅かなものだった。もう何球か試しておこう。

その後、2球、3球と同じボールを続けたが、3球目を痛打された。

センター前への当たりだったが、2塁ランナーは3塁でストップ。無理はしないつもりらしい。

コントロールは大丈夫そうだ。単純に肩が温まっていないから球速が普段より出ていないけど、変化球を上手く組み合わせていけば打ち取ることは出来る。

とは言っても、ストレートにある程度力は必要なので、牽制を入れた。これで、少しは肩慣らしが出来るはず。

3球程牽制球を投げ、次は本塁へ。ここからは変化球を試していく。

最初にスライダー、次にカーブを投げていったが、抜けたり、引っ掛けたりと制球が定まらない。結局、6番バッターにフォアボールを与え、無死満塁のピンチとなる。

多少の失点は覚悟していたとはいえ、このままだとビッグイニングになりかねない。もう少し調整するか、あるいはストレートを中心に抑えにいくか。決めあぐねていると

「打たせろ!」

と、ショートから声が聞こえてきた。呼応するかのように、全体が声をあげ始める。いや、これまでも声は出し続けていた。違っていたのは声の出し方だ。

このチームが編成されて2週間ほどの練習期間があった。その間に行ったことは、大半が意識改革とその定着だった。

「野球は一球ごとに止まるスポーツだ。じゃあ、止まっている時間は何のためにある?」

「ピッチャーが投げるため?」

「ルールだからってこと?」

「バッターが構える時間が必要だからとか」

「構えてないのに投げると注意されるしな」

「疲れるからじゃね?」

「分かる。だから俺バスケとかやりたくねぇもん」

「ランナーで出たらやたら走らされることあるよな」

「それな。エンドランのサイン出てんのにファールばっかの時は文句言いたくなる」

「ほんとそれ」

途中からふざけムードも入ってきたところで、答えが出された。それは、準備をするためということだった。

「ピッチャーはもちろん、守ってる側、バッターにさえ準備の必要がある。それは一体なんだ」

「相手がどんな球をどのコースに投げてくるかを考える、ですか」

答えたのは武田先輩だった。自分のバッティングを究めんとするその姿勢から、侍が渾名になっているほどだ。その人の迷いのない答えは、まさに先生の欲していた答えだったようだ。

「咄嗟の状況で正確に判断し、行動することはそう簡単に出来ることじゃない。それに、考え過ぎれば体は動かなくなるものだ。だから、バッターもピッチャーも内野も外野も、あるいはベンチでも、その止まっている時間を上手く使わないといけない。次に何が想定され得るのか、予めそれを確認しておけばプレーに迷いはなくなり、敵の奇襲にも落ち着いて対処出来るはずだ」

そこで、まずは守っている時の声掛けから変えていった。考えられることを整理し、伝達するためのものにする。何番バッターなのか、ランナーはいるのか、いるなら何塁にいるのか、アウトカウントは、等々。

確認事項を挙げていって初めて分かった。どれだけ多くの可能性が転がっていくのか、そして、僕達がいかに何も考えずに野球をしていたのかということに。

この声出しが当たり前になるにはまだもう少し時間がかかりそうだと思ったが、それでも着実に習慣になりつつあった。

そんな中飛んできた、より馴染み深い一言が聞こえてきたおかげではっとした。

変化球はコントロールが効かず、ストレートも力不足。これではピッチャー1人で抑えるのは難しいが、こういう時のためにバックがついているのだ。

そのことを漸く思い出し、守備に任せることにした僕は、ストレートのサインを出した。

ガキィン

鈍い音がした。どうやらバットの先の方に当たったらしい。力の無い打球がピッチャーの横を抜けショートへ転がる。

満塁のため、転がった瞬間にランナーが走ってきた。この弱い打球では併殺は無理か、と思っていたが、上杉先輩は素手で捕球し、走り込んできた勢いそのままにホームへ送球してきた。

それを捕って素早くファーストへ転送し、ギリギリではあったが二重殺ダブルプレーが完成した。

握り変えが無かった分、捕球から送球までがよりスムーズに行われた結果である。流石としか言いようがない。

相手からは、嘆息混じりの声が聞こえてきた。無死満塁というチャンスで得点が入らず、2死2,3塁になってしまったのだから無理もない。

飛んだところがショートで良かった。上杉先輩の守備力はずば抜けており、打球に対する一歩目や判断の正確性、肩の強さ、捕ってからの速さなど、守備の面で先輩に匹敵するものはウチにはいない。

だが、ややセオリーから外れているためか、コーチや同じ3年生に注意されることが度々あった。

だから、アウトにすることが何より大事という織田先生の考えに強く賛同し、以前より伸び伸びやっているように思えた。

さて、2つアウトが取れたといっても、まだ得点圏にランナーは残っている。生還させないためには、このバッターを確実に殺さないといけない。

とにかく、投球の基本であるアウトロー、ここにボールを集めていこう。バッターから最も遠い位置にあるため、遠くに飛ばすことはもちろん、バットコントロールそのものも難しくなる。

このコースに正確に投げ込めるかどうかで、ピッチングの幅に天と地ほどの広がりが出てくる。

織田君と三好のピッチングは両極端だ。性格も正反対だろうから、足して2で割るとちょうど良くなるのかな。

結局、ストレートを低めに集めて見逃し3振を奪い、なんとか無失点で切り抜けた。

5回が終わるとグラウンド整備をすることになっている。でこぼこがあるとイレギュラーバウンドが起き、それだけ怪我の危険性が高まってしまうからだ。

整備が行われている間に、僕らはブルペンに入って調整を行った。

「縦スラとチェンジアップはいい感じ」

三好は左の軟投派ピッチャーだ。いくつもの変化球を投げられる器用なやつだが、調整にはいくらか時間がかかる。持ち球が多いが故の悩みである。

おまけに、頭で考えるのではなく、身体の感覚に委ねているので、基本的に試合前の投げ込みを覚えていない。だから、試合の最中に再調整を行うのだが、それが遅れるとボールを操れなくなってしまう。

今の整備の時間で、ストレートと縦のスライダー、そしてチェンジアップの3球種がいい具合ということが分かった。これだけあれば充分戦える。

トンボバックの声がかかり、グラウンド整備が終わりとなった。

敵は守備につき、こちらは半円になって攻め方を確認する。その中に、織田君の姿は見当たらなかった。

「痛みはないそうだ」

そう告げられた。

「まだ俺も事情が把握出来ていないから、結果が出たら改めて話をする」

それだけ言って、この話は終わりになった。

入部が遅かったことといい、今回の件といい、抱えているものはなんだか複雑そうだ。

ともあれ、試合はもう中盤。1度流れが切れるため、6回は動きやすいとされている。再び流れを引き寄せられるか、はたまたその逆か、ここが勝負どころだろう。

そう考えた時、変わったな、と思った。

より正確に言うならば、変わりつつある中で、その入口に立っているような気がした。

確証はない。だが、何かが終わりを告げようとしている予感だけは、この試合中、いや試合をすることが決まった時から、僕の内側に木霊していた。

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