第2話

 が沈んだ窓の外。暗くなった俺の部屋に、青白い街灯の光が薄くれる。

 彼は俺の下で俺の顔を見つめると、何も言わずに抜け出ようとした。

 俺は彼の華奢きゃしゃな両手を、彼の頭上で押さえる。

 彼は恐怖にも似たような表情を浮かばせた。

 

 俺が彼を組み敷いたのは、単なるもののはずみだった。

 彼は俺の部屋に入ってから、いつものようにベッドのふちに腰を下ろした。いつものように隣り合って座った俺たちは、いつものように他愛たあいもない話をした。

 不意に肩が触れ合うくらいの距離にいた俺は、気付いた時には彼へと手を伸ばしていた。


 暗がりの中、暖房の音と時折近所の犬の鳴き声が聞こえる。

 俺は今、どんな顔をしているのだろうか。彼には見えるだろうけれど、幸い、部屋の明かりは点いていないから、彼も分からないかもしれない。

 俺の視界に再び、彼の左耳のピアスが飛び込んでくる。嫌味なほどに外光がいこうを当て返すから、俺は一点に見つめた。

 艶のある朱色の小さな石が付いた銀色のピアス。確か去年のクリスマスの後から付け出したもの。

 俺の大事な彼の体をつらぬいたピアスに、強烈なまでの愛憎あいぞうき上がる。俺は奥歯をみしめると、彼の手首を拘束こうそくしている自分の手に自然と力が入った。

「彼は私のものよ」と言われたような気がして、胸の辺りが焼けつき、俺は激しく嫉妬しっとする。


 次の瞬間、俺は無意識で彼の左耳を甘噛みしていた。

 彼は俺に組み敷かれている理由をさとったかのように、冷静な声で言う。

「冗談ならやめろ」

 俺は彼に向かって静かに言い返した。

「こんなこと、冗談でする訳ないだろ」

 途端とたんに彼の瞳は潤み始める。

 涙が一筋ひとすじ、シーツへと流れ落ちた。

 薄暗いベッドの上、彼の泣き顔はあの放課後の夕日の中の彼と同じように、儚く美しい。

 けれど今日の彼の涙の理由が俺だと思うと、悔しさと怒りと悲しみ、そしてどうしようもないほどの嬉しさが込み上げてくる。

 俺は、後悔はしていない。

 この劣情れつじょうが彼には相応ふさわしくないとは分かっている。

 彼は『女』が好きで、『男』である俺がどう足掻あがいても彼の対象にはならない。

 俺が彼以外に心をうばわれることはないだろう。

 彼は俺の初恋。「初恋は叶わない」と聞くけれど、まさに俺のためにある言葉。

 俺は今、俺の部屋で、彼を組み敷いている。境界を越えるために。いや、壊すためだったのかもしれない。

 理由なんて、後付け。

 一つ挙げるとすれば、彼にとって俺は今、親友の皮をかぶるただの『けもの』だということ。


 中性的で美しく整った彼の顔が、俺への恐怖に涙でゆがむ度に、俺の劣情は加速していく。

 俺は細身の彼の体の身動きを奪って、再び左耳を甘噛みした。彼は言葉で抵抗しているけれど、声が震えている。

 一方、俺は彼の息遣いきづかいや心音しんおんを初めてじかに感じて、あらがえないほど熱が増していく。

 体を起こした俺は、またがったまま再び彼を見下ろした。

 青白い外光に浮かび上がる彼の顔には、未だ両目に厚く涙を溜めている。

 

 彼が再び、俺を見つめて呟く。

「俺のこと、好きなの?」

 綺麗な彼の顔の眉は下がり、瞳は涙で潤む。唇はわずかに開いて、震えていた。

 彼の全てがたばとなって俺の心臓をえぐりとるようにわしづかんでは、大きく振り回し続ける。

 俺は動悸どうきのような速い脈に、一人、もだえていた。

 幼い頃から見慣れていたはずの顔にも関わらず、俺の知らない彼の表情に俺は無性に興奮こうふんしている。

 俺は今の自分の顔を見られたくなくて、彼におおい被さった。

 彼の耳元で、答えを返す。

「好きだよ、愛してる」


 彼を組み敷いた時から、順序を間違えたことは充分に理解している。

 偶発的ぐうはつてきとはいえ、俺はすでに引き返せないところにまで辿たどり着いている。いっそのこと、このまま彼を腕の中にとどめておきたい。許されようが許されまいが、彼を俺の部屋の中に閉じ込めておきたい。

 彼は初めから俺の手の中にはいない。それがえらない。これまでの『親友』としてではなく、『一人の男』として、彼に『俺』を見て欲しかった。

 もう戻ることはできない。退路をったのは俺自身。勇気を出したなどというそんな綺麗な話ではない。今日まで懸命けんめいに抑え込んでいたおのれの欲が、呆気あっけなく暴走しただけ。


 彼が俺の首元へと両手を回した。

 俺は彼に抱きしめられる。

 予想もしていなかった彼の行動に驚いていると、不意に彼がかろうじて聞き取れるほどの声でつぶやいた。

「本当に叶うなんて、信じられない」

 俺の思考は停止した。彼はしがみつくように、両手で俺に抱きついている。

 まるで可愛い生き物が、俺になついているみたいに。

 俺が何の反応も示せないでいると、彼は回した両腕に力を込める。再びしがみつき直して、涙混じりに小さく笑った。

「お前はかっこいいからな、背も高いし」

 俺よりも少し高い彼の体温。心地よい温かさが、俺の体に入り込む。

 俺は少し冷静になろうと、彼の腕を一旦ほどこうとした。けれど彼は嫌がって、息を吐き切るようにして泣きながら腕の力を強める。

「離れない!」


 彼の一連の行動に、俺はきばを抜かれたようにおだやかな気持ちが込み上げた。

 俺は彼の背中に触れて、何度もさすった。「『いとしい』とはこういう気持ちなのか」と、俺の心は温かさに包まれる。

 不意に彼の香りが鼻元にただよう。思わず顔をうずめたくなるような心地よさ。彼が俺の胸におさまりがよいことにも、驚きと嬉しさを感じる。

 独り言のように、彼が呟き始めた。

「俺の方が……。俺は、幼稚園の時からなんだぞ」

 彼は途端に声を上げて泣きじゃくる。

 俺は小さな子どもをあやすように、彼の頭を優しくでた。


 次第に彼は泣きやんで、再び口を開く。

「俺の初恋なんだ」

 時が止まったかのように、俺の頭の中で彼の一言が繰り返される。

 彼は涙混じりで俺の耳元に向かって、俺にトドメを刺した。

「俺も愛してる。大好き」

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