第6話 サターン崇拝

 サターン崇拝。


 長く長く、サターンを知らず知らず崇拝させられてきたのかもしれません。


 リングを持つサターンは、ロード・オブ・ザ・リング。

 土星のその姿から、リングの王であります。


 リングは指輪であり、結婚式の儀式のそれは、土星それであり、リングを模した後光を授けるのであるかもしれません。


 そして、クリスマスは、キリストの誕生日ではありません。

 かの聖人の出生は8月です。

 いったい、何を祝っているのでしょうか?


 古代ローマではサトゥルヌス(Saturnus)という土星を象徴する神が崇拝されてきました。

 ギリシアからイタリアに現れ、農業その他の技芸を教え、法を発布して太古の黄金時代を築いたといいます。

 サトゥルヌスの祝賀では、人々はろうそくや小さな人形を贈物として交換し、その祭儀をサトゥルナリアSaturnaliaと称し,キリスト教化の後、クリスマスの風習に引き継がれました。


 また、サターンとは、古代エジプトでは土曜日が週の始めとなる日で、これはメソポタミア以来の慣習だったと言われますが、ユダヤ人はこの習慣を反転させ土曜日を週の終わり、安息日(サバスSabbath)としました。

 土曜日とはサタデイです。


 これらからわかることは、サバスとはサターンでありサタン。サンタクロースはサトゥルヌスで、サタンであるということです。


 古代人によれば、サターンは、活発に活動しており、人類の最高神であり、創造主であったといいます。

 土星は「黒い太陽」とも言われ、セム族の主神エル(EL)の象徴として長らく崇拝されてきました。

 セム族とは、西アジア・アラビア半島・アフリカ北東部に住み、セム語系の言語を用いる民族の総称とされ、 黒色波状毛、黄褐色の皮膚、直状狭鼻をもつ。 アラビア人、エチオピア人、ユダヤ人や歴史上活躍したアッシリア、バビロニア、フェニキア人などを含むといわれます。


 また、天文学では、サターンが最も大きな影響を太陽系にもたらしていたというのです。

 かつて、土星は、凄まじいい光を放ち、太陽をしのぐ輝きを持っていたといいます。

 そのことから、古代人はそれを最初の太陽と崇めたといいます。

 古代では、現在の太陽とは違う太陽を見ていたということになるのです。古代の天文学もまた、最初の太陽はサターンであったと伝えているのです。

 太陽の記号と文様、その多くには、それを象徴するように外側にリングがついるのが分かります。

 土星、その天文学的性質は遅滞者・老人・重鎮といったイメージに結びつき易くなっており、また肉眼で見ることの出来る太陽系天体の中では最も公転周期の長い天体であり、至高者、或いは最古・原初といった概念を象徴としても崇められてきていました。

 多くの文明において、サターンを表すイメージのいずれもが老人であり、その儀式と奥義は、限界、死、腐敗と関係を持っています。

 老人の姿は、長い髭を持ち、鎌と、砂時計を持って表されこれらが反映されていることがわかります。

 砂時計は時間であり、時間とは、死へと向かう大きな要素です。そして、鎌はいわずもがなです。

 サターンは、死神と同一であることが明らかにわかるのです。


 


 古代メソポタミア文明ではニヌルタ(Ninurta; エヌルタ、ニニブとも)と呼ばれる神格の存在が崇められており、その名は「大地の主」を意味しています。


 ニヌルタの配偶神として知られるのがババ(バウ)であり、ギルガメシュは二神の母方の孫に当たります。


 ババはアナトリアの地母神キュベレー(プリュギア語での呼び名はクババ (Kubaba) )と同一視される事もあり、キュベレーはギリシャ神話に取り込まれると、クロノスの配偶神レア(土星の衛星の一つにその名が付く)と同一視されることになったのです。


 クロノスは、ギリシャの神の中の神です。そして、その象徴とするものは、土星であり、大地と農耕の神です。

 クロノスは、子供たちを食べてしまうという悪癖をもち、まさに子を食べるサトゥルヌスと同じです。


 サターン(ニヌルタ)の子がギルガメッシュであるように、王族は、サターンによって支配されるまたは、王族を生み、後の支配者や、王族の始祖になったと言われるのです。


 土星。

 その北極を見てみます。そうすると、黒い六角形が存在しています。

 六角形は、その見方、その形は、立方体のシルエットであります。

 まさに、それは黒いキューブです。


 南極を見ます。

 そこには、円、そして円、南極から土星全体を見れば、それは、眼球です。

 空から見下ろすそれは、まさにすべてを見るかのようで、すべてを見通す目。

 プロビデンスの目ともいえるものであるのです。


 黒いキューブは、つまり、土星の象徴であり、エル(EL)、クロノスそして、クババを象徴するものであると言えます。

 そして、土星のその姿は、大地を見下ろす眼球です。


 かつての土星は燃え盛る黒い太陽でした。

 古代の太陽の姿、遺物、文様を見てみれば、その多くが円の中に太陽が描かれているのが解ると思います。

 その姿はまるで輪を光を放つ天体です。

 星の光の放射と外輪は、空に浮かぶエゼキエルの車輪さえも連想できるのです。


 土星はサタンと同じく黒に関連づけられ、闇であると捉えられます。

 古代人たちは土星が善の原理との関連され、太陽から最も遠い惑星であるとみなし、結果として、太陽の神聖なる光により少なく曝されている天体であり、それゆえ、邪悪の象徴ともされました。


 神の一つであるパンは、古代の異教でサターンを表し、 この半人半山羊の動物の山羊の頭部は、まさに悪魔であるバフォメットであり、サタンの描写の祖先であると考えられています。


 今日、黒いキューブは世界中のいたるところで見られます。


 サンタ・アナの黒い立方体。

 アップル、ニューヨーク。

 マンハッタン。https://en.wikipedia.org/wiki/Alamo_(sculpture)

 デンマーク、Svendborg black cube

 カーバ神殿

 ドイツ「キューブハンブルク2007」

 カラカス、Cubo Negro

 そして、911ミュージアム


 沢山あります。


 この崇拝は今もなお続いているのかもしれません。


 土星とは、黒い太陽であり、神である。

 そして、サタンであり悪魔。


 ひふみ神示の中における。悪魔と思しきことが書かれた、数多くある中の一部の章を抜き出してみます。


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 ひふみ神示 第十七巻 二日んの巻(ジシンの巻)

 第六帖 (三八三)

 霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。中心は、歓喜の中の歓喜である。それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。各々が独立していて、他からの障害をうけない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。交叉混交はしても、同一方向には向っていない。そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。

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 「霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、(中略)彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。」


 つまり、我々の知る太陽とは、違う太陽を見ているということであり、我々にとっての太陰であるともいえます。

 サターンが黒き太陽であったなら、サターンこそが、我々の知る太陽とは対を成すといえるのであります。


 だがしかし、代用的な鍵十字や、イエズス会のマーク、多くの黒い太陽が象られた紋のように、そういった黒い太陽は、太陽の裏返しであるコロナであるはずです。

 だが、今に伝えられる古来からの太陽の紋には、円環が存在し、我々の一般に知る太陽と違います。コロナは円環であるゆえに、それを表すものであるという解釈が出来ますが、それでは二重の光が存在することになります。


 太陽信仰が、もし、我々の知る太陽ではなかったなら。

 もし、太陽信仰が円環を持つ、光を放つ土星のことであったならどうだろうか?

 また違ったものが見えて来ます。


 悪魔でありサタンであるルシファーが「光与える者」であり、そしてイルミナティとは、光をもたらす者という意味です。

 サターン崇拝が光を得るために必要なものであると考え、悪魔が光を与えるという解釈は、まさに、光と感じる物の違いからくるのかもしれません。

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