書簡

 或る日、福沢社長に社長室へ呼び出された。

 渡したい物があると。

「依頼、では無さそうですわね」

「或る人物より、書簡を預かった」

 すっと厳かに執務机に置かれた一通の手紙。一筆箋に走り書きされたようだった。

「夏目先生からこれを預かったものの、誰が誰に宛てた物か見当も付かなかった。だが、森医師が貴君ならば解るだろうと云っていた。心当たりはあるか?」

『厚かましい話だが、聞いてほしい。私の大切な友人のことだ』

 最低な書き出しから始まる手紙を読んでいると、頭がぼうっと霞み、それなのに心臓は拍動を加速させる。

『あの、地下にある酒場に二人を連れて行ってくれないだろうか』

『気の置けない友人同士で酒を酌み交わして欲しいんだ』

『きっと君なら私の不躾な手紙にも気を悪くしないと信じて、これを残す』

 応接用のソファに腰掛けて、呼吸を整えようとするも、叶うはずもなく。

 あの日、友人を看取った太宰は、マフィアを捨てることを決意した。善い人間になるために。

 私はただそれに付き従った。世話人として。

「……酷い手紙です。誰から、誰に宛てた手紙かも、何を、どうして、何故そうなってしまったかも全て知っています」

「つまりは太宰に関するということか」

「主人の友人からの手紙です。私よりも親しかった友人だったんです。何時も飲み歩いて、帰るのが遅くて、何度迎えに行ったことか」

「その友の最期の望みだ。叶えてやれそうか?」

 問いに答えられなかった。

 太宰は坂口さんとの関係修復を望んでいるのだろうか。

 いくらかの恩義があるとはいえ、一番の友を死に追いやった原因である人物を、あの男が赦せるのだろうか。

 そして、私が二人の関係に言及する事を、嫌がらないだろうか。

「……友というのは掛け替えの無いものだ。探偵社の設立を一番に喜んでくれたのも、私の友だった。共に剣を学び、共に将来を語った友人だ」

「太宰は……この差出人を、マフィアに誘った事を、後悔している節があるように感じるのです。彼は剰りに実直で、優しくて、穏やかな男でした。拳銃の腕は格別なのに、それを使おうとしない人でした。太宰が本当に気を許したのは、彼だけです」

 脳裏に浮かぶ織田作と初めて会った日の事。あの時、彼に向けて異能を放ったのは、太宰治を取られると思ったから。太宰が自分に害を成す人間を、懐の奥にまで入れない事ぐらい理解していた。私から一寸でも関心が離れることが嫌だった。子供の我が儘。

 そして彼は太宰に大きな傷を遺して死んだ。

「一応、その人物の名を聞いておこう。夏目先生に報告せねばならぬ故」

「織田作之助。未来予知の異能力者」

 社長の表情が変わった。きっと知っているのだろう。それもその筈。織田作も昔は暗殺を請け負っていたと聞いている。政府の用心棒であった福沢社長が知らぬ筈もない。

「……そうか。最期には善い友に巡り会えたか」

「この手紙は……主人に機を見て、伝えます」

「了解した」

 失礼します、と挨拶をして社長室を出た。「済まぬな」戸を閉める直前に思いもしない言葉。それに笑いながら答えた。

「此処で夫の事を一番理解している心算なのは、私ですから」


 外回りの途中、彼の眠る墓地へと向かった。花を手向け、太宰がしていたように墓石の裏へ回り、傍に生える大樹に寄り掛かるように腰掛けた。そして渡された手紙を再度読む。

『いくら安吾でも、卯羅をはいどうぞ、とは出来ないなぁ。皆そうなんだ。織田作くらいだよ、そう成らなかったの。皆、卯羅の甘い蜜に誘われるんだ』

『私が気付かないとでも?君はあの時から、彼女を慕っている。だが、君に卯羅の何が解ると云うのだい?』

『僕は貴女だけでも救いたい』

 坂口さんから寄せられる想いは知っている。だから私が口を挟むと拗れる。

 けれど、あの時の太宰はとても愉しそうで、帰ってくるとずっと酒場であったことを話してくれた。二人に私との関係を煽られた時は殊更に。

「どうしろって云うのよ……あの時はもう戻らないの。貴方を探しに太宰はあの酒場に行くのよ 」

 誰も答えない。答える筈がない。死人に口無し。

 この手紙は太宰からすれば唯一の遺品。私が持ち続けるのも奇怪しな話。それに友からの願いなら、太宰も聞き入れてくれるかもしれない。一抹の本当に僅かな望み。

 ───そうしてくれ

 差出人が応えたかのように木葉が風に揺れた。

「お嬢さん。間もなく日暮れですよ。此処は風が冷たい。どうです、私と喫茶処でお茶でも如何?」

 気障ったらしい言葉を投げたのは無論、太宰治。私の持っている紙片に一度は視線を落としたものの、気付いていない素振りを見せた。

「治さん。織田作の、もし彼の望みを叶えられるとしたら、どうする?」

「それは叶うと織田作が戻る魔法かい?」

「いいえ。彼の最期の一番の望みよ」

 解りやすい程に顔色が変わった。目は見開かれ、頬は硬直し、何の感情も載せていなかった。

「或る人からこの手紙を渡されたの。坂口さんでは無いから余計な心配はなさらないで。織田作が最期に記した手紙よ」

 私の手から引ったくるように手紙を取り、何度も何度も読んでいた。たった数行の手紙を繰り返し。それから墓標に凭れるように座り込み、空を仰いだ。

「どうするかは貴方に任せるわ」

「卯羅……私、嗚呼、卯羅……」罪人が懺悔をするかのように。私の前に膝を付き、頭を垂れて、細く長い指を胸の前で組んだ。「私の女神……偶発を操る私の女神よ……私はどうすれば佳い?」

「成り行きに任せれば好いと思うわ。無理に和解しようたってどうにもならない、寧ろ拗れるだけよ」

 お互いに意固地になって、またすれ違うのでしょう。それは織田作の本意ではない。何かを切欠にして、また集えれば佳い。大切な思い出を壊すような真似はしないで欲しいから。

「ほら、陽が沈むわ。帰りましょう、我が家へ」

「嗚呼、そうだね」

 力なく立ち上がった夫を抱きしめれば、堪えていた物が、溢れ始めた。

 友を死へ導いてしまったと、後悔を抱え続けている只の二十二歳の青年の背を、優しく、優しく撫でる事しか出来なかった。



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短編(22歳~) ちくわ書房 @dz_pastecake

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