八年目

 太宰は家の壁掛暦カレンダーを見て、自分しか知らないような記念日、いや、記念の年であることに気が付いた。

 太宰が妻である卯羅と初めて出会ってから八年の歳月。

 つまり、森鴎外の診療所に担ぎ込まれて八年が経過していた。森の診療所で太宰が見たのは、異能力の操作が巧く行かず、歩きながらその轍に、文字通り花道を作っている卯羅の姿だった。その時に一言二言、言葉を交わしたものの、一年後、ポートマフィアの本部楼閣で出会った彼女は、当時の事を全く記憶していないらしかった。

「卯羅ぁ」太宰は、彼女を呼ぶときにだけ出す、獣が番を呼ぶために発するような甘ったるい声で、妻を呼んだ。「今年、出逢って八年目だよ、末広がりだ」

「いやよ、もう痴呆けたの?まだ七年よ」

 卯羅は手元の小説から一寸も眼を離さず、夫の言葉を訂正した。太宰は湯呑みに茶を入れながら、事実確認が案外長引きそうだと思い始めた。

「熱い!」

「お盆を使えば佳いのに」

 太宰が卓袱台に湯呑みを置き、座すると、卯羅も小説を読む手を止め、隣から楽しそうに質問を重ねようとしている尋問官に付き合うことにした。 

「森さんの診療所に私が運ばれて八年目だ。その頃、君も入院していたろ?」

「まあ、そうね。居たわね」

「森さんが白衣を真っ赤にして帰った夜、覚えてる?」

「確か、男の子と出掛けて、帰って来て……顔は見えなかったから貴方かは解らないわ」

「その男の子と、何か話さなかった?」

「厭よ、会ったかも憶えていない男の子に嫉妬なんてしないで頂戴」

「その男の子に何か訊かれて、此処の患者さん、って答えなかった?」

「答えたわ。でも、そのやりとりを知っているからって、治さんだって証拠は無いわよ。貴方、何でも調べ上げるし」

「そりゃあね。愛しい妻に就いて、知らない事があるなんて、最大の汚点だよ」

 本当に憶えていない。

 太宰の眼が一抹の澱みを湛えた。あの夜の短い会話とも云えないような出逢いを、妻は自分と行ったと認識していなかった。

「あの日は、起きた瞬間から異能が全く云うこと聞かなくて───今思えば、不安とか恐怖の頂点だったのでしょうけど、だから、ずっと部屋で先生からの宿題をやって、ぬいぐるみと遊んでた。そして夜になって、昼と変わらないぐらい騒がしくなって、一人の男の子が運ばれてきた。全身包帯まみれの、痩せ細った男の子」

 記憶を口にして、卯羅は笑った。嗚呼そうだ、包帯まみれ。顔が見えなかったのは、夜だったから、包帯があったから。そして自分に何をしているのか尋ねた少年も、顔半分が包帯で被われていた。

「治さんの勝ちね」

「数奇な運命だね。君はあの日を境に姐さんと本部楼閣で過ごすようになった。入れ替わりに私が森さんの診療所に“入院”した」

「そして一年後に本部楼閣で出逢った」

 揃った声に二人で笑った。

「あの猫ちゃんは傑作だよ」

「だって、声を掛けても無視するのに、診察台へ登ってみた瞬間、膝に寝転がってくるのよ?」

 七年前、荒覇吐に関しての調査中、爆風に依って負傷した太宰は、マフィア本部の医務室で卯羅と再び邂逅した。そして彼女の瞳に、深海へと入水した自分を見た。それからその瞳に捕らわれ、今へと至る。

「今だから解るけれど、私も直感していたのかもしれない。卯羅とこうなるのを」

「こうなる?」

「こういうこと」

 卯羅の腕を引き、抱き寄せながら畳へ寝転がる。卯羅も卯羅で、太宰の襯衣を胸元を掴み、悪戯な顔を引き寄せる。

「偶発の女神様は何を供物と定め給う?」

「さあ、何かしらね」

「君の愛を勝ち取るのには苦労したよ」

「嘘を仰いな」

 苦労したのは何方か。

 自分の内にするすると入り込んできた太宰。卯羅はそれを追い出す隙が無かった、というよりも、追い出そうとしなかった。彼が居るから生きている理由がある。そう信じて疑わなかった。「なら、貴方はどの時点で私を気にかけてくれていたの?」

「それ訊くの?浪漫が無いなぁ」

「浪漫よ。だって、ミミックの件がある前に、随分重苦しい告白をされたのよ、私。何れだけ積み重ねて複雑に絡ませたの?」

「解らない」太宰は眼下の妻に口吻けながら答えた。「私も初めから君に囚われていたのかもしれない」

 何故彼女は「太宰の為に」と身を削りながら自分の隣に立ち続けるのか。それを

 思案し始めたのは、マフィアに加入してから一ヶ月が経つ頃だった。自分を身を挺して護り、顔面に傷を負った世話人を見、怒りの感情を覚えたこともあった。

「案外、仲良し鴛鴦夫婦だね、私達」

「そんなこと云ったら、国木田さんが泡吹いて卒倒するわよ」

「仕方ない、彼の理想はなかなかに難題だから。あれに関しては、私から助言が出来ると思うのだけど。我が身を案じてくれる女性こそが理想也けり」

「調子が佳いんだから」

 八年前に起きた偶然の出会いが大きな実を結んだ。森が仕組んだのか、神の御技かは解らない。事実としてあるのは、二人がこの先も共に生きていく、という平凡な答えだけ。

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