沈香

 夕暮れ時、現場から帰社すると、まだ一人社員が残っていた。

 太宰卯羅。

 俺の仕事の相棒、とでも云おうか──出来れば云いたく無いが───その男の妻だ。藍の髪は夜空を思わせ、群青の眼は海底を思わせる。十人の男が見れば、全員がその容姿を褒め称え、下世話な考えを口にするだろう。

「まだ居たのか」

「あら国木田さん。お帰りなさいませ。まだ仕事が残ってますの」

「太宰のか」柔らかな口調は育ちの佳さを窺わせる。「ええ。事務仕事はてんでしませんから」

 何故この女性が、唐変木と籍を入れたのか。駆け落ちだと云うが俄に信じ難い。

「お茶でも淹れましょうか。報告書、お作りになりますでしょう?」

「頼む」

 卒無く気を配る。いや、染み付いているのだ。箱入り娘だと聞いたが、それにしては俗っぽさを感じる。茶屋の給仕かと思うような気遣い。

「あら、何か?」置かれた湯飲みを目で追ったら、首を傾げて訊かれた。

「俺の個人的な興味だが、嫌だったら答えなくて善い。お前は何故太宰と一緒になった?」

「国木田さんがその様な事にご興味があるだなんて」彼女は自分の席へ戻りながら、微笑んだ。それから隣にある亭主の事務机から、必要な資料を抜き出し、少し目を通してから、また戻した。

「単純に愛しているからです」

 その表情は、俺も以前に見たものだった。

『青の使徒事件』

 太宰の入社試験として選んだ事件。気持ちの善い幕引きとは遠い事件。

 その主犯と同じ表情だった。もう終わりにしたいと、彼の仇を話した表情だった。

「私は産まれた頃より、彼を、太宰を支える為に育てられました。だから、彼が家を出ると云った時、私は総てを捨てました。太宰の傍に居る為に」

 気付いているのだろうか、自身の恍惚とした表情に。指輪を弄る手に。

「だから、私は彼を守り共に居る為なら、夜叉に喜んでなりますわ。そうでなければ、力無い女の手からは、総て溢れ行きますもの」

 俺を捉えた眼に背筋が凍った。

 恍惚とした表情は消え去り、艶かしい雪女の様な視線。真逆、太宰を手玉に取って、駄目男に仕上げたのでは無いか。

「国木田くん」急に肩へ置かれた物と、掛けられた声に俺は思わず椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、それを掴んだ。そしてほぼ同時に、白山千鳥が俺の腕を覆う。

「嫌だなぁ。あ、そういえば国木田くん、お化け嫌いだったねぇ。脅かしてごめんね?」

 太宰が何時もの調子で詫びる。「卯羅」妻へ顔を向けると、彼女は異能を解いた。俺の腕は流血していた。

「失礼致しました、手当を。治さん、三件分出来ているから、内容確認なさって」

「佳いよ、そのまま出して。どうしてもと云うのならやるけど」

 狡い人。そう云って夫の鼻を突ついた。

 医務室で、二人きり。彼女は手際佳く手当をしてくれた。本当に手慣れている。

「御免なさい。つい、癖で」

「太宰は敵が多かったのか?」

 保護剤を貼る手が止まった。「それはもう」

 終わりました、と云い、端材の片付けを始めた。すると何故だか太宰が入ってき、その雰囲気に俺は逃げるようにその場から離れた。

 心臓が早鐘を打つ。やましい事をした訳ではない。だが、あれ以上、二人きりで居たら、俺はどうなっていたのか判らない。

 白山千鳥の向こうに見えた彼女の眼は、とても美しかった。それは丁度、水平線の向こうに沈む夕日のように。

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