六月によせて

「卯羅、この指輪を君に」

 横濱の夜景。汽車道。煌めく街灯。跪く夫。

「改めて君に伝えさせて欲しい。私の、唯一の女性として、何時も隣で笑って華を咲かせてくれ」

「はい」

 改めて云われると、嬉しいけれど、少し恥ずかしい。照れながら答える。左手を差し出すと、スッと銀の輪が薬指に。彼の異能力の様な澄んだ水色の藍柱石が中央にあしらわれ、私達の経歴を表すような、二重の輪。地下で贈られた婚約指輪と重ねると、彼が護ってくれることを示しているよう。

 そのまま、手の甲に口付けを。浮かび上がる影はきっと、御伽草子の王子様。


 それから数年後。或る宿泊亭。

 純白のドレスは、小さい頃に読んだ童話のお姫様。ふんわりと膨らんだ裾が可愛い。

「卯羅や」

「母様!」

 いつもよりも豪華な着物に身を包んだ母様。

「最後の化粧をさせておくれ」

 鏡台の前。母様が化粧道具を広げる。

「とびきり美しい姿にしてやるぞ」

 鏡の前には私と母様。髪が鋤かれ、一つに纏められる。

「いつまで経っても綺麗な色じゃ。お前は肌が白いからより美しい」

 母様は化粧下地の容器を手に取る。手際よく化粧が施されていく。

「お前はよく、化粧をしてくれ、とせがんできたのう。その度に紅を引いてやったのが昨日の事のようじゃ」

「だって母様綺麗なんだもん。お化粧すれば、母様みたいになれるかなって」

 憧れだった。

 柳のようにしなやかで、優雅な母様。私の思い描く、大人の女性、そのものだった。

「私ね、母様の娘で居れることが嬉しいの。姓はもう彼の物だけど、私が母様の娘であった事実は触らない。尾崎紅葉の二番目の娘」

「私にとって、一番も二番もない。私の可愛い娘、それだけじゃ。却説、差し色は何にしてやろうかのう」

 何色ものアイシャドウ。礼服の色と合わせて色を絞り込んでいく。弾かれてしまった一つに手を伸ばした。

「この紅色が善い」

 母様がいつもしている色。私にとって、母様の色は、これ。私には大人っぽすぎるかもしれないし、礼服にも合わないかもしれない。でも、この色を纏いたかった。

「なら、少しばかり淡く付けてやろう」

 目尻に筆が走る。指でぼかされ、ふんわりと薄紅に色付く。

「これぐらいの色合いなら、お前の愛らしい雰囲気に合うであろう。さあ、出来上がりじゃ」

 鏡に写る私と母様。耳に揺れる母娘の徴。

「ねえ、ベールを下げるのは母様にして欲しい」

 魔除けのベール。私を守り続けてくれた、母様の最後の加護。

「善いぞ、善い。私がしてやろう」


「どう思う、これ」

 白の燕尾服。少し薄い青のアスコットスカーフ。国木田くんが角度がどうの、結び目がどうのと自動的に直してくれる。

「結婚詐欺師だな」

「随分と褒めてくれるじゃないか」

 髪を少し整える。とはいえ、横髪を耳に掛ける位だが。

「お前、本気なのか?」

「何が?」

「今回の結婚は本気なのか、と訊いている」

「本気だよ」

 私の答えに驚いたのか、国木田くんが表情を堅くした。

「私が本気で愛しているのは卯羅だけだよ。彼女が居る前で、女に声を掛ける私を見てきた君からしたら、信じ難い事だとは思うが、事実だ。女を口説くのは遊戯でしかない」

「質が悪いなお前」

「注いでくれた愛情を、同じ様に返したいと思ったのは卯羅だけなんだ」

 傍に居てくれた。何も訊かないで、ただ傍に居てくれた。私に愛せとも云わず、ただ、風に揺られる花のように。

「国木田くんも、卯羅みたいな女性を早く見つけた方が善いよ」

「お前に指図される謂れは無いわ!」

 控室の扉を叩く音がした。「太宰さん」

 黒い燕尾服に着替えた敦くんが鏡花ちゃんと並んでいた。鏡花ちゃんの手には、青と薄紅、二色のリボンが付けられた小さな枕が乗っていた。

「君達が指輪を運んでくれるのかい?」

「鏡花ちゃんは卯羅さんの介添をして、僕が指輪を預かります」

「宜しく頼むよ」

 左の指に煌めく指輪を一度外す。あまり気にした事は無かったが、彼女との思い出が此処に刻まれている。擦れ違った時でもこの指輪は輝いていた。そして結び直してくれた。忌まわしい指輪、と彼女の前で云ってしまう事があるが、忌んで居るわけではない。この指輪でしか示せない関係が、もどかしかった。公然と夫婦だと、云える世界が欲しい。

 ただ、それだけ。

「愛してる」

 私達を繋ぐ指輪に口付けて、青いリボンに括る。


 開け放たれた荘厳な扉。赤い絨毯の先にある祭壇。そこで、白の燕尾服に身を包んだ治さんが待っている。私の姿を見た途端、ふわり、微笑んでくれた。リングボーイを担ってくれた敦くんは緊張した面持ちで私を見ている。

 バージンロードの前で、母様がそっとベール下ろしてくれた。

「母様?」

「私は幸せじゃ。お前の女としての晴れ姿を見れたのだからのう」

 初めてだった。母様が泣いているところを、娘になってから一度も見たことなかった。いつも強くて、気高い母様。笑顔で、なのに涙を流して、私を抱き締める。

「卯羅、可愛い卯羅や」

「なあに母様」

「幸せになるのだぞ」

 その言葉に大きく頷いた。


 一歩、また一歩。

 養母、いや、母親と共に歩いてくる花嫁。本当は泣きそうなのだろう。必死に堪えている。その隣で姐さんは静かに、嬉しそうに泣いていた。

 あと数米。早る気持ちを抑えて、花嫁を待つ。どれだけ待ったのだろう。どれだけの時間、その姿の君を待ったことか。いいや、待たせてしまった。

 手を差し出すと、純潔と無垢を示す白手袋に包まれた手がそっと添えられる。その手を取る。

「太宰、卯羅を頼む」

 義母の言葉に頷いた。

 姐さんが席に戻るのを見届けて、私は花嫁にいつも通り目で合図して、共に歩を進める。

 祭壇の前に二人、並ぶ。司式者の言葉に、はい、と答える。

『健やかなる時も、病める時も、貧しい時も、愛し合うと誓いますか?』

 以前、同じように私達に訊いた男が居た。その時、私は神に誓うことを拒絶した。

 だが今は。その切なる祈りを指輪に込める。本当は新しいのを買うべきだろうが、これが善いと笑う彼女に無理を云う必要もない。

 互いの指に、一緒に居たいと、小さな願いを込めた指輪が光る。


 病に伏しても、貴方を愛したい。

 最期に繋いだ手が貴方で在りたい。

 その誓いの証としての、キス。

 母様からの最後の贈り物、ベールが取り払われる。髪を撫でるかのように、優しく、ゆっくりと退ける治さんは、どこか感極まった様だった。

 両肩に手を置かれ、顔が近づく。

 触れるだけのキス。それでも私達には大きな意味があった。十五の頃から共に過ごし、事在る毎に口付けはした。けれどこんなにも幸せで、公然と、彼は私の物、と示すキスは有ったかしら。愛してると泣きながら口付けた十七の夜。そこから何度夜が巡ったのだろう。幸せな夜も、不幸な夜も在った。けれどそれは、凡てこのキスの為に。

 晴れて新郎となった治さんが差し出した腕に、手を回す。顔を合わせて笑って。見据える先には、目もあやな路。柔らかい光が輝らしている。

 一歩、また一歩。

 確りと幸せを、彼の存在を噛み締めながら。

 太宰治の隣、という私の居場所。それは普遍的な物となった。此処までの長い長い道程。私達には、どうしても必要だった。遠回りして、見失って。

 これから二人、どうやって歩いて行こうか。ゆっくり考えれば善い。二人で相談して、二人で築く。それが出来るのが夫婦だから。


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