第5話

 金曜日の外来、一番最後に村野さん。診察を終えて帰り際、彼女がじっと俺の顔を覗く。

「先生、いいことありましたね?」

 仕事に小説のことは持ち込んでいないつもりだった、だが漏れていた。長編の直しが終わり、印刷も済んで、明日はアキラとclub Flamingoとして最初の営業に行く。

「分かりますか?」

「何かは訊いても答えてくれないでしょうから訊きませんけど、先生がハッピーそうでよかったです。では、失礼します」

 診察室を出る彼女の後ろ姿もうきうきしていて、それは俺を映したもの、閉じられるドアを眼で追いながら漏れた溜め息すら輝く粉を纏っている。俺は残務を終わらせて、呼び出される可能性のあるものを全て潰すように丁寧な申し送りを書き、病院を後にする。今日までと来週からは、俺にとっての職場が別のものになる気がして、振り返って軽く頭を下げた。さよならではないよ、でも俺は変わるんだ。いや、アキラと出会った日、それより前の間白金の本を読んだときから変わり続けている。それでも節目はあって、それは明日来る。未来から見たら小さなコブでしかないものかも知れない、だけど、目の前にあるそれは、大きい。

 夕食を摂って、ジュアに入る。明日は今日とは違う顔をしてバリスタに会う。元々はコーヒーを飲まなかったのに、彼の淹れる一杯の透明な世界のせいで毎日通うようになった。だから彼に明日甘い判断をして欲しいと望むのは筋違いだけど、ほんの少しでもいい結果を、このえにしが呼び込んでくれれば。神様にじゃなくて、目の前の湯気立つブレンドに想う。

 啜る、今日もここに来てよかった。

 チラシと冊子にどれを載せるかはアキラに選んで貰った。読む人が読みたいものが分かるのは彼女だ。

 隣の席に別の常連が座る。彼は店に将棋盤を預けていて、一人静かに棋譜を並べる。斜め向こうにいるおじさんも同じく常連で、彼は文庫をひたすら読む。いつもの顔ぶれはみんなそれぞれが好きなことを、好きなように、好きなだけやる。平日の夜の言葉も交わしたことのない仲間にどこか、心強さがあって、俺は嬉しくて、今日も小説を書く。

 でも、構想が纏まらない。次の長編を考えるか、短編を書くか、それすらも決まらない。

 明日は初めての営業。合計二十三軒の喫茶店とバーを二日かけて回る。きっと断られることも多いけど、上手くいくこともある筈だ。失敗の予感よりも、成功の期待の方がずっと上回って、最初にチラシと冊子が置かれるヴィジョンを何度も描く。そしてそれはこの店だ。バリスタに話をして、「最高の企画です」と笑ってあの入り口付近のカウンターに置いてくれる。その日の内にかなりのチラシが捌けて、冊子まで読まれるのだ。

「早く明日にならないかな」

 ふわふわの脳味噌に酔うと大勝利しか見えない。電話のアキラは「半分行けば上手く行き過ぎくらいと思って下さい」と冷静な声だった。彼女の戦略で、カケヨメに営業日と、その二週間前ごとに計三回短編をアップした。『油紙/フィリア・フォビア』『腕の中の』『タッパー』を彼女が選んだ基準は、「発掘して、私しかこの感動を知らないかも、と最も思える作品」らしい。

 コーヒーをもう一口。煙草に火を点ける。

 こうやって待つことを短編にしようか。それとも、少し長くして待つ経緯や関係性を描いて、その「待つ」に重みを持たせようか。例えば、バイキングが出港した後の、村の女の話とか。服役中とか? でもそれってありふれているし、過去作品で有名なのがあった。……待つ。俺は明日を待っている。ホームページも明日から公開する。URLを今日入れても出ない。ホームページの公開を待つってのは特殊なシチュエーションだ。でも、実際に今起きていることを小説にするのは好かない。リアルがフィクションを食べてしまう。それは俺が下手だからかも知れない。もっと捻じ伏せることが出来るなら、リアルのことをフィクションで覆えるのかな。分からない。分からないなら実験をすればいい。書いてみればいい。

 だったら、明日営業に行くことこそがリアルだ。

 俺は営業をしたことがない。アキラが来いと言うから行く。でもそれは用心棒とか相棒とかではなく営業の道具としてだ。

「付随の情報がごちそうなんて、俺は真逆だと思っていたのに」

 呟きながら笑みが零れる。概念がひっくり返るのは爽快だ、たとえそれをされる側でも。

 作品そのものではなくて、それにまつわる情報、書いた人のこととか、作品のバックストーリーとか、人気とか、そう言うものを読者は好むと言う。作品を手に取るかをそう言うことで決める。だからそれを作るために著者が出ろ、すなわち、作品を読ませるための道具になれ。アキラがそう言うなら俺は道具になる。他の誰かが同じことを言ったら激怒しそうだけど、アキラなら。

 誇らしくなったら急に小説に集中出来て、書く。

 家に帰ると、また希望の明日がてらてらと光って、若いハムスターみたいに部屋の中をうろうろして、笑ってみては「いや落ち着け」と言い聞かせてみたり、今頃アキラも同じ感じなのかな、それとも彼女は営業が日常だからリラックスしているのかな、明日はどんな服で行こう、特に歯磨きは入念にしないと、考えがくるくる回って、寝られるのかな。

 パジャマを着て布団に入れば、頭の中は遊園地で、それでも眠気は行進のようにきっちりやって来て、メリーゴーランドの乗り心地で寝た。


 冠婚葬祭以外では吊られっ放しのスーツに身を包み、鏡の前でネクタイを調整していたら、仕掛けておいた目覚ましが鳴る。

「今日は俺の方が早起きだ」

 朝の報せのベルが、これから始まるパーティーのファンファーレに聞こえる。パーティーは街を飲み込み、人を踊らせて、俺達の仕組んだ輝きで参加した誰もを満たしてゆく。貴賎も老若男女も関係ない、チケットを手にする条件はただ一つ、俺達の小説を読むこと。準備は整った。

 白い息、快晴。

 アキラの家に自転車で向かう。彼女の家は俺の部屋から自転車で十分の距離、頬を切る風が冷たい。昨夜と地続きの胸の跳ね。

「おはよう」

 声もポップになる。

「おはようございます」

 アキラの顔には緊張が浮いていて、営業の達人でもそうなるのだ、俺はもっと気楽にしよう。

 彼女の部屋はこざっぱりとして、隅に置かれた印刷物の小山が主張強く、印象を倉庫に決めている。

 机にチラシと冊子が一部ずつ。

「ライオンさん。完成品です」

 誉れある二つ。

 最初に手渡されたチラシを見る。アキラが選んだ、一発目に出す短編、俺達の名刺。

「『俺らしい犬』だね」

「はい。キャッチーにして、純文学としてのアートの色が強く、ライオンさんらしい作品です」

 俺ははにかむ。

「らしい」

「私達の最初の一撃に相応しい作品です」

 俺が頷くとアキラは冊子をくれる。イメージ通りの色味、「Flamingo」のタイトルが堂々と映える。そのまま表紙にある目次に眼を通す。

「『剥離』『砂釣りの島』『文化食の女』『報月』『杖』『野歌の凪』、こうやって並んでいると壮観だ。そしてその後に『フェルマータ』、もう、何て言うか、気持ちいい」

「私も完成品を見たとき、すごく気持ちよかったです」

 しかし、じんとしてばかりもいられない。俺達は営業の準備に取り掛かる。印刷物の山を切り崩して紙袋に入れて持ち、部屋を出る。

「アキラさん、ついに営業だね。上手く行くかな」

「営業のコツはですね、上手く行くと信じることです。そう信じられるだけの下準備をして、信じるからこその自信を持って、臨む。結果は上手く行ったり行かなかったりします。それでいいんです。反省は後でまたします。……治療もそうなんじゃないですか?」

 説明するアキラの顔色の方が俺よりも硬いのは明白だ。

「確かに。だとしたら、これも同じなのかな? 『俺達はプロだから失敗を次に生かす権利と義務がある』。プロってのは必ず次があるんだ」

「同じですね。でもやっている最中は次のことは考えない、そうですよね?」

 俺は頷く。同人誌のプロではないけど、気概は同じだ。アキラがおさらいをする。

「ライオンさんは著者が来たぞと言う感じを中心に、色々話して下さい。ライオンさんと会ったことを誰かに話したくなるような、そう言う時間を作って下さい」

 注文が難しくなっているけど、初診で関係性をグリッと通すのと似ているかな、やってみよう。

「努力する」

 アキラが頷くのに、期待を感じる。

「さあ出発です。最初は、おなじみ、ジュアから行きましょう」

「だよね」


 自転車から見る景色は同じ筈なのに、もっと迫ってヒリヒリする。俺達は喫茶店に営業に行くのだけど、やろうとしていることは街を変化させること、もう伸ばしている手に、そう簡単に変わらないぞと弾力が返って来る。

 アキラの背中。俺が安心しているのは、手放しにわくわく出来るのは、その背中のせい。それは、アキラが営業のプロだからじゃなくて、彼女が俺の作品を底の底まで愛してくれているから。絶対の味方だから。一緒に自転車を漕いで、小説を撒き散らしに行く、この瞬間こそがその証明だ。

 俺に笑みが溢れる。きっと彼女も同じだ。


 ジュアに乗り付けて、自転車を降りたら、アキラが俺の眼をじっと見る。

「がんばりましょう」

「おう」

 営業の邪魔にならないように、紙袋は俺が持つ。

 入り口を潜ると、いつものバリスタ。

「いらっしゃいませ」

 アキラは彼の前にピシッと立つ。

「こんにちは。いつも美味しいコーヒーを頂いています。ですが、今日は客としてではなく、フリーペーパーと冊子をこのお店に置かせて貰えないかと言う、お願いに参りました。店長さんはいらっしゃいますか?」

 バリスタはニコリと微笑む。

「私が店長です」

 まさかそうだとは思っていなかった。見たところ四十前くらいなのに、こんな高級感のある店の店長。

 俺の驚きを他所に、アキラが名刺を出す。

「私、同人誌グループ、club Flamingoの、スーパーリーダーの平沼アキラと申します」

「そっちに行きますから、ちょっと待って下さい」

 バリスタはカウンターから出て、俺達を空いている席に誘導する。彼を正面に、アキラ、その隣の俺が座る。

「ここで話しましょう。ときどき平沼さんは見掛けるし、男性のかたは殆ど毎日いらっしゃるので、初めましてと言う気がしませんね。私は店長の岩水いわみずです。……それで、フリーペーパーと冊子を置きたいとのことですけど、どんな内容なんですか?」

 アキラが答える。

「純文学です」

 ほう、と店長の顔が開く。毒を喰らった顔には見えない。でも彼はその表情の説明をせずに黙っている。アキラが言葉を継ぐ。

「アートとして文学をする作品のみが、正確には、『水玉ライオン』作の作品だけをフリーペーパーと冊子に載せています」

 店長の眉間に皺が寄る。

「スーパーリーダーとか水玉ライオンとか、ギャグでやっているんですか? ギャグならお引き取り下さい」

 アキラの顔が凍り付き、見開いた眼を瞬いて、一生懸命に首を振る。

「私達は真剣です。水玉ライオンは、そう言う名義でずっとやって来たので受け入れて頂くしかありません。スーパーリーダーは問題があれば、変えます」

「変えた方がいいでしょう。営業はここが初めてですか?」

「はい」

「奇を衒うよりも、信頼感を演出する方が大事な場面ですよ」

「ありがとうございます。すぐにスーパーリーダーは変えます。『営業』にします」

 アキラが名刺をもう一枚出して、ペンで肩書きを直して、店長に渡す。演出っぽいけど誠意を見せるってのは演出なのかも知れない。店長はその演出に満足したような顔をしているし。店長に新しい名刺が渡ったところで、アキラが続ける。

「私達は純文学のフリーペーパーと冊子を発行しています。フリーペーパーは二週間に一回、冊子は半年に一回の頻度で新しいものを出します」

「フリーペーパーの頻度高過ぎませんか?」

「いえ。余裕のあるペースです。フリーペーパーには短編が一本、冊子には短編六本と長編一本を掲載します」

 店長が右手を扇ぐように振る。

「いや、余裕の有無じゃなくて、読む側に行き渡る前に次になってしまいません?」

「それはそうかも知れません。ですが、過去のフリーペーパーに載せた作品はネットで見られるようにしますので、読み逃しても大丈夫です」

 一回の効果をじっくり待つのではなく波状攻撃を仕掛ける戦略であることが伝わったのか、店長が深く頷く。彼は置くつもりで話を聞いているのだろうか、それとも、最終的には断る予定で聞いているのだろうか。もしくは本当に聞いてから判断するのだろうか。でも、どうせ断るのなら詳しくは聞かないだろう。期待しよう。

「冊子の方も無料なんですか?」

「読み放題で二冊置いて頂いて、欲しいと言う方がいれば六百円で販売して頂き、売れた場合には仕入れ値として一冊二百円を私達に頂ければと考えています」

 店長は首を傾げる。

「無料で読めるのに、買う人いますかね」

「それは分かりません。でも備えておきたいんです」

「あなたはどうして水玉ライオンさんの作品だけを、広めようとしているのです?」

 アキラの瞳が頬がキラリと輝く。

「一番の文学は何かと問われれば、私は即座に水玉ライオンの作品と答えます。ねてないストレートな文学で、それはアートと言える領域まで踏み込んでいます。彼の作品を読んで、何度頬を打たれたことか。私、昔死のうとしたことがあるんです」

 店長がギョッとする。こんなに健康的な子がそんなことを思うものだろうか、彼の表情からそう伝わって来る。

「自殺、ですか」

「そうです。そのときに彼の作品を読んで、生きることにしたんです。それは『勝手に幸せ』と言う作品で、私の自殺の理由の人達だって勝手に幸せにも不幸にもなっているって思ったら、私もそうなんだって、生きようと思ったんです」

 店長は胸に手を当てて、鎮痛な、彼が死のうとしたかのような、顔をする。

「大変でしたね」

「はい。しんどかったです」

 アキラがにっこりと笑って見せると、店長もつられるように笑う。アキラが続ける。

「でもそれはエピソードの一つに過ぎません。人の人生に影響する作品、それと同レベルの作品を水玉ライオンは作っています」

「隣の彼が、そうなんですね」

「はい」

 俺の方を伺う店長に目礼する。店長はまたすぐアキラの方を向く。アキラが俺に、持って来たものを出すように指示する。

「これがそのフリーペーパーと冊子です。どうぞ手に取ってご覧下さい」

「まずフリーペーパーの方の短編を、読ませて貰います」

「よろしくお願いします」

 俺達は黙って、店長が読むのを見る。店員さんが水を人数分持って来てくれる。目の前でアキラ以外の人に読まれる、息が詰まる。文字を追う眼を凝視して、ときどき紙の方をチラリと見て、不躾かも知れないけど、他のことなんて出来ない。

 ここはジュアであってジュアでない場所だ。彼の黙読に引っ張られるように時空が歪んで、俺に流れる時間は無限へ向かってゆっくりになってゆく。口の中が渇いて、目玉が飛び出しそうになる。だけど、水に手を付ける気になれない。でも俺がミイラになるより彼が読む方が早かった。

「読みました」

「ありがとうございます」

「水玉ライオンさん?」

 彼が俺の方に向く。

「私が水玉ライオンです」

「これ、公募に送るとか考えないんですか?」

 え? 公募?

「いえ、以前には応募していたこともあるんですけど、それよりも平沼と計画した、街に撒く方が今は魅力的に感じるので、出しません」

「『俺らしい犬』、いいタイトルですね。内容もよかったです。『らしさ』が螺旋を描いて行く感じが、私の知らない感覚を呼び覚まして、でも、どこか傍観していると言う状態は保たれていました。話に入って行く感覚と、傍観の感覚が同居すると言うのも、なかなか感じ得ないものだと思います」

「ありがとうございます」

 嬉しい。めっちゃ読んで、その内容を話してくれている。

「昨今の、過度に崩した文体や、逆にラノベのような軽い作品が多い中で、この作品は、トラディッショナルな文学の息を感じさせつつ、現代のものでもあり、私はこう言う作品こそが王道になればいいと、常々思っていました」

「常々ですか?」

「ええ、常々です。どう言う仕組みになっているのか、どれだけ新人賞を追っても、他の文学賞を追っても、また文芸誌を読んでみても、ないんですよ。王道が」

「そうなんですね」

 店長が、おや、と言う顔。

「あなたはそう言う現在の文学事情を知った上でスタイルを選んだんじゃないんですか?」

「いえ。ある程度は読みますけど、寄せたりは出来ないんです。私は私がいいと思うことしか出来ません。でも、それはむしろいいことだと思っています」

「まさにその通りです。その人のその人によるその人のための文学です。それが出来るかどうか、もしくは見付けられるかどうかが、文学し続けるべき人かを分けます」

「店長さんは、文学、大好きなんですね」

 店長はクワっと眼を瞠って、口角をゆるりと上げる。さあ、私の言葉を喰らえ、そう見えるからグッと構える。

「私も文学していたんですよ。万年一次選考止まりで、脱サラしてコーヒー店を営むと決めたときにスッパリ諦めたんです」

 これはピンチなのか? チャンスなのか? アキラに頼りたい気持ちがムクっともたげるけど店長から視線を切る訳にはいかない。俺はボリュームを半分にして。

「……古傷をまさぐってしまいましたか?」

 彼はプクク、と笑う。

「痛くないですよ。大丈夫です。でも、私にも彼女のような、強力に支持してくれる人がいたら、もしかしたら違う人生だったかも知れない。……いや、私は今の『ジュア』をすることに満足と誇りがあります。もし私がまだ文学を引き摺っていたら、きっと二人の話には乗れません。ですが、決別して、今は読み手です。だから、この話は詰まるところ、私が水玉さんの作品を応援するか否かと言う問いなんです」

 店に置くかを決めるのだ、その通りだ。アキラが入って来る。

「どうでしたか、私と同じ気持ちになりましたか?」

 店長は手でアキラを制する。

「水玉さん。他の作品も同じかそれ以上の練度なんですか?」

「はい。平沼が検閲をして一定のレベルに達しないと無限に直しをさせられます」

「平沼さんは厳しいですか」

「鬼ではないです。愛の厳しさです。でも厳しいです。一人でやるよりずっと、いいものが出来るようになりました。彼女には本当に感謝しています」

 店長がちょっと体を引いて、俺とアキラを順々に眺める。目尻を下げて、穏やかに笑う。

「いいコンビなんですね」

 俺達は顔を見合わせる。アキラはほんのり頬に紅が差している。俺が応じる。

「最高のパートナーです」

 店長が膝を打つ。

「決めました。私も水玉さんを応援します。決め手は小説がよかったことと、二人のパートナーシップの気配がいい匂いがすること」

 アキラと俺で頭を思いっ切り下げながら、店中に響く声で。

「ありがとうございます!」

「フリーペーパーは三十枚、冊子は読む用二冊、売る用二冊、そして私が買う用を一冊」

 アキラの眼が輝く。その中にあっても彼女は忘れない。

「フリーペーパーも冊子も不足したらご連絡を頂けば、即日は難しくてもなるべく早く補充します」

「了解しました。で、買う奴には、サインお願いしてもいいですか?」

 アキラが肘で俺を小突く。俺はサインなんて初めてだから何を書けばいいのか。でも。

「もちろん、書かせて頂きます」

「後、ときどき文学談義をしましょう」

「よろしくお願いします」

「では、それらを置く場所を決めましょう」

 席から立って、入り口すぐのカウンターのいい場所に置いてくれた。

 もう、顔が緩む、アキラも飛び跳ねそう、俺達をじっと見た店長が思い切り笑顔になるから、俺も止められない、アキラも、それでもちゃんと挨拶をして、店を出たら店内から見えない場所に小走りに行く。

「やった!」

「やりましたね!」

「素晴らしい営業!」

「いえ、ライオンさんと、ライオンさんの小説の力です! 実力で勝ち取ったんです!」

 認められた感覚、次に進む手応え、讃えあう。

 ひとしきりの後、アキラが、さて、と仕切る。

「次の場所に行く前に、名刺を直しに戻りましょう」

 自転車から見る街並みがまた変化した。俺達と街の間に、確かな道が通った。俺は息を大きく吸い込んで、ペダルを漕ぐ。


 表面の滲み出し具合と側面の気配が、肉をひっくり返すタイミングを教えてくれる。俺には自信がある。

「美味しいです」

 アキラが頬張りながら嬉しそうな顔をするのを見て、俺は頷く。

「次はハラミ行くよ」

「焼き方でこんなに味が変わるんですね」

「不思議だよね。一番大事な焼くところを客にさせるって」

「確かにそうですね。でもだからこそライオンさんの妙技が光るんですね」

 店内は他人同士でいられる程度にガヤガヤして、個室に仕切られた席は二人だけの会話をするのに適している。

「二日間でよく回ったよね。何軒行ったんだっけ」

「店の数は二十三軒で、その内五軒は二日連続で行きました」

「都合二十八軒か。その中で成約となったのが九軒。これは収穫としてどう捉えたらいいのかな」

 彼女の眼に問う。アキラはその眼から顔に、全身に広がったものを抱えきれないくらいに広げた両手に渡らせる。

「大成功です!」

 波動になって伝わって来たものを受けて、俺から、おお、と声が漏れた。

「置いて貰えて嬉しいのはあっても、数の感覚がピンと来なくて」

 ハラミの焼けたものを二人の皿に取り分ける。

「多いに越したことはないんですけど、オール飛び込みでこの成約率はズバ抜けていますよ」

「いやいやいや、違うでしょ。アキラさん、全部の店の人と面識あったよ。予め行っていたんでしょ?」

 アキラが、えへ、と笑う。

「営業の下準備ですよ」

「そう言う努力が成果に繋がったんだ。営業をするって、イメージ湧かなかったけど、なるほどって何回も唸った」

「でも、成約になった店はほぼ全店、ライオンさんの小説をその場で読んでくれましたよね」

 俺は頷いて頭の中に昨日今日で出会った店長達を浮かべる。

「それぞれピックアップする作品が違って面白かった。『豆子まめこ』の店長は『杖』に喰い付いていた。あれ、差別がテーマの奴で、話題に出たときハラハラした」

「『最終的にあなたは優しい人なんですね』って言ったとき、あ、これは置いてくれるな、ってのと同時にちょっと嫉妬しちゃいました」

「嫉妬? 女の人だから?」

「違いますよ。もっとシンプルな作品への愛の話です」

 豆子の店長は俺について評していたのだけど、追求されたくなさそうだし、アキラの愛は知っているから次の店へ進む。

「『ヴィト』は判断早かったよね。チラシを一読して即決」

「面白かったんですよ」

「『ヌーヴォー』は事前にアキラさんが言っていた、付加情報が効いた印象だった」

「その通りです。逆に置いてくれなかったところは、小説を読むところまで行かなかったのが多かったですね」

「読んでからダメをくれた喫茶店の『アンタレス』、バーの『たちつてと』『由田甲よしだこう』、これはダメージが大きかった。ちゃんと吟味して不可だもん」

 俺は肩を落として見せる。

「作品ですから、ハズレることはあります。特にライオンさんの作品は大ヒットか大スカですから」

「俺としてもそう書いているから、そうなんだけど、なんだけど、ね?」

「ゆっくり落ち込んで下さい。そして次の作品を書いて下さい」

 思わず笑って、ああ確かに、作品を作ることと評価は別だ。最高に打てる相手もいればハズレる人もいる、それは人ごとにこころの形が違うのだから当然だ。十分に理解していた筈なのに、いざ現実でバツを突き付けられるとすっかり忘れてしゅんとする。笑ったらその事実がじわりと思い出されて、胸の中の平衡が取り戻された。

「今後は営業はどうするの?」

「コツコツ一人でやります。場合によってはまた同行をお願いするかも知れません」

「もちろん協力するよ。でも頻度が多過ぎると、書くペースが落ちちゃう」

「そこはちゃんと考えます。任せて下さい」

「この二日間で、アキラさんがさらに頼もしいよ」

 アキラはドン、と胸を叩く。

「書くこと以外は、club Flamingo、しっかり私がやります」

「俺は書く。あと、肉を焼く」

「私は肉を食べます」

 カルビが焼けた、彼女の皿に置く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る