第4話

 三回目でチラシのデザインも決まり、「嘘と秘密」の話で長編を書くと決定した。当初あった案の連載にはせずに書き切って載せる。短編を書き溜めつつ長編を書いて、アキラに読んで貰って直しをして、ときに複数回の直しを必要とする作品もありつつ徐々に完成原稿は溜まって来た。長編がなかなか終わらない、でもアキラは焦れた素振りを一切させずに、もっと下さいと涎を垂らし続ける。「私は世界一幸せです」と何度か言うから、俺は人を幸せにしているのか、小説を書く意味が一つ足された、ますます書くことに熱中する。

 六回目の打ち合わせ、アキラと出会ってから三ヶ月が経った、短編のストックが十一個になったことを受けてそれまで半々だった重心を長編にシフトした。書きながら短編が浮かんだらそれも文章にして、八回目の打ち合わせ、俺もアキラも長編があと少しで終わることを予期していて、それはもうすぐ次の段階に入ると言うこと、いつもよりわくわくしながら別れた。

 通りを歩いていたらスマホが震えている。電話?

 見れば、自分で設定したアラームだった。そこには「春子」と記されている。そう言えばここ最近はアキラとの打ち合わせの後に春子のことを思い出さなくなっていた。俺は小説に速やかに向かうか、他のインプットをするか、いずれにせよそこに春子の影は消えていた。もしアラームが鳴らなかったら永遠に彼女のことを思い出すことはなかったのかも知れない。

 でもアラームは鳴った。

 俺はそこに春子の名前を見た。

 四ヶ月経ったらこちらから連絡すると、確かに俺は言った。言ったけど、画面の文字に溜め息が出る。面倒臭い。まるで一度埋葬した棺桶をもう一度掘り返すみたいだ。でも、春子は約束を守って、一度も俺のところには来なかった。今この瞬間は彼女が生きているのか死んでいるのかすら分からない。それくらいちゃんと「距離」を取ってくれた。お陰で俺はclub Flamingoに集中出来て、もうすぐ次の段階に入れる。

 これが感謝になるのは釣り合いが取れないときだ。俺も約束を守るならお互いに感謝はいらない。

 足早に家に戻り、春子のブロックを全部解除する。言うべきことは決まっている。電話を鳴らす。

 だけど春子は出なかった。バイトでも始めたのだろうか。今はまだ二時半。夕方にもう一度掛けよう。

 俺はアキラに指摘されたところを直すためにパソコンを開くのだけど、自分の文章が滑って、全然頭に入らない。眼を閉じて呼吸を整えてみても、同じ。部屋をうろうろしてから椅子に戻っても変わらない。俺の意識はスマホが鳴らないか、春子によって鳴らされないか、だけに向いている。だからもう一度電話を鳴らす。

「出ろよ」

 出ない。留守電にもならない。

 もう一度。結果は同じ。

 春子が意図的に無視しているか、出られない状況にあるかのどちらかしかない。

「これは、囚われている時間が無駄だ。小説は書けない」

 ベッドの縁に座って、上半身を後ろに倒す。

「お前は何がしたいんだ」

 そのお前が自分なのか春子なのか分からない。

 体を横に捩る。絞っても何も出て来ない。春子のために俺が開けているこころのスペースはもう極小になっている。その小さな点がだけどブラックホールみたいに重くて、俺が健全に書くには必ず排出しないといけない。四ヶ月越しで春子に会って、距離を置いた結果として正式に別れることを告げる筈だった。なのに春子に連絡が付かない。

「そうだ、今日一日連絡が付かなかったら、自然消滅と言うことにしよう」

 言ってみてそれはないとすぐに思い返す。ちゃんと別れるのは俺のためだ。彼女が次の恋に進むためじゃない。俺が春子の虜囚であることにピリオドを打つためだ。春子はそれが分かっていて、俺を苦しめようとして電話に出ないんじゃないのか。この電話の一つだけでも、俺を支配する道具にしているんだ。四ヶ月大人しくしていたのも、その布石だ。

「何て女だ!」

 俺は壁に声を投げ付けて、でも何も返って来ない。春子は電話に出ない。無視の力に捩じ伏せられる。

「こうしていても始まらない。ただ待っているだけで一日を消費するのは愚昧のすることだ。それは春子の支配に屈することだ」

 俺は体を起こすとパソコンを閉じて、部屋の外に出る。秋の終わりの肌寒さが、帰って来たときより数段増している。この寒さは春子だ。春子が俺を凍らせようとしている。

 御徒町の街に戻る。ジュアは小説の書けない今はけがしたくない。歌いたくはないし、パチンコは学生時代に懲りているし、買いたいものはないし、眼鏡は快調だし。街に埋もれに来てもすることがない。古本屋に行ったところで文章は今読めない。必要以上に早足で歩く自分が不審で、歩みを意識して遅くする。後ろから追い抜き様に舌打ちをされる。

 ああ、喧嘩しようかな。熱中出来そう。理由は向こうがくれたんだし、いいよね。

 さっき俺を追い抜いた男に向かってスピードを上げる。

「あの」

 割って入るように若い女の子が声を掛けて来る。俺はつんのめって止まる。

「はい?」

「アンケート、いいですか?」

 羊みたいな雰囲気。

「すいません、急いでいるので」

「分かりました。失礼しました」

 彼女が退いたときには舌打ち男はどこかに消えてしまっていた。もう一度彼女の方を見ると、ニコリ、と笑い掛けて来る。止められたのかも知れない。頭に上っていた血が降りて行く。俺は何をしようとしていたんだ。大した筋肉もないのに、傷害事件を起こして、返り討ちにあうところだった。

 彼女のところに行く。

「ありがとうございます」

「私は仕事をしただけですよ」

 それ以上は、お互いのために、なし、そう言われている気がして、俺は一礼して彼女の前を去る。もし喧嘩していたらそれも春子の思惑通りだ。俺を不利に不利にしていって、手足を捥いで逃げ場をなくして、手中に収める。拘置所に迎えに来るときの春子の笑みを隠した顔が目に浮かぶ。でも、その企みは市井の人の篤意によって阻まれた。彼女がどうして俺を助けたのかは分からない。いつか明らかになる日が来るのだろうか。分からない。でも俺は確かに窮地を、自ら招こうとしていた窮地を脱した。

 歩く速度は平時のそれに戻り、改めて街を物色する。ときに調子に乗った輩が跋扈していても、殆どの人は平和な顔をしている。その誰もが俺のように支配から脱するための戦いをしてはいないだろうし、対決の連絡が来なくて落ち着かない状態ではないだろう。スマホを見ても着信はない。メールもない。

 街に呑まれて空を見る。喧騒が体を通過する。

 どうあったって連絡待ちなのだ。やったことのないことをやろう。

 少し歩いたところにゲームセンターがあって、クレーンゲームのコーナーに入り込む。お遊びでちょっとだけやったことはあっても、真剣に取り組んだことはない。まずは何を取ろうとするかを決めるために店内を見て回る。ぬいぐるみ系、箱系、その他、と分けられるようだ。箱系の中に懐かしいキャラクターのフィギュアがあって、これなら部屋に飾りたいかも、俺は千円札を崩して筐体の前に立つ。

 取れない。

 アームの力が弱いのか、全然持ち上げない。ちょうどバランスのいい位置な筈なのに、スコン、と抜ける。十枚目の百円玉を入れたとき、操作をミスしてアンバランスな場所にアームが降りた。がっかりしながらも注視していたら、箱が斜めにズレた。

「もしかして、こうやってズラして取るのか?」

 そう言う見方で隣の台の人のプレイを見たら、やっぱりズラしている。なるほど、俺はルールを間違えていた。

 二千円目である程度ズラせたが、後どれくらいで落ちるのか見当も付かない。三千円、四千円、少しずつ動くのだけど、果たしてこれは取れるものなのだろうか?

「ちょっとハマっちゃっていますね、直しますね」

 急に差し込んで来た店員の声に俺は飛び上がって驚いて、は、はい、と応える姿に彼はニコニコと笑う。

「この辺りを、こうやって、狙ってみて下さい」

「ありがとうございます」

 指定された場所は右の奥。だけど狙った通りに動かせなくて不恰好に動いた箱は、多分さっきと同じような状態。でも自分から店員を呼ぶのは気が引けて、追加のお金を入れては全く動かない箱を見る。さっきの店員がまた来て、直してくれた。

「上手くいかなかったら呼んでくださいね」

 そう言って俺のプレイを見守っている。失敗したらまた直してくれるのだろうけど、そんな視線の中じゃ固くなっちゃうよ。

 アームが掛かり、箱は落下した。

「おめでとうございます!」

 店員が駆け寄って来て、手提げのビニール袋をバッと開いて構える。俺は取れたてのフィギュアをそこに入れる。これは面白い。獲物が手に入る狩猟の感覚なのか、パズル的な知恵比べなのか、どっちもか、もうちょっとやろう。

 次も箱にする。今覚えた技を使うのだ。

 また大量にお金を吸い上げられ、店員の補助によりゲットした。次。

 三箱目にしてついに自力で落とすことに成功。手提げ袋も大きいものにグレードアップする。

 箱に満足したので次はぬいぐるみを狙う。でもやる前に他の人のプレイをよく観察する。どうもぬいぐるみには二種類あって、上に上げて落とすだけのタイプと、戦術的な仕掛けがあるタイプ、俺は戦術的な方がやりたい。

 これは手数は掛かったけど自力で取れた。見たこともないキャラクターだ。ゲーム機の中にあるものをイメージするときと、手に触ったときで重みとか硬さが全然違う。これは大事なポイントだ。

 ぬいぐるみも三個取って、財布への打撃は凄まじかったけど、十分な気持ちで店を出る。

 外はすっかり暗くなっていた。

 あ。

 スマホを出して画面を見ると、着信が十八件。無論、全て春子だ。メールも来ているけど見る気になれない。

「やっちまった」

 言ったそばから電話が鳴る。見上げた空から闇が注ぐ。観念しよう。

「もしもし」

「晴一! 何でずっと電話に出ないの!?」

「ちょっと忙しくて」

「自分で先に電話掛けたんでしょ、出られるようにしなさいよ」

 最初はそう言う構えだった、でもそうしろと人に強要するのは違うだろ。

「出られないときは出られない。春子こそ最初に出なかっただろ」

「私だって色々あるのよ。まあいいわ。今どこ?」

「何で」

「会いましょうよ。距離を置いた成果を見せなさいよ」

 ゲームセンターの袋を、それも二つ、持って会えない。でも真剣な話をするために会うのは賛成だ。

「春子はどこにいるんだ?」

「御茶ノ水」

「三十分以内に行くから待っていて」

 一方的に電話を切って、自分の部屋に急ぐ。景品の袋を投げ入れたら踵を返して御茶ノ水へ向かう。春子が御茶ノ水と言ったらスタバだ。大学病院の脇を抜けて、御茶ノ水橋を渡り、交番を右折する。掻きたくもない汗が頬を伝う。スタバ。店内を見回す。いた。最後に会ったときと変わらない姿でスマホを弄っている。

「お待たせ」

「四ヶ月と二時間半待ったわ」

「取り敢えず出よう」

「どこに行くのよ」

 春子の眉根の皺が閉じたままなのはいつからだろうか。不躾な視線を俺に投げかけて、さも自分は被害者と言わんばかり。

「ゆっくり話せるところだよ」

 溜め息を一ついて、その吐息は紫色だ、鷹揚に支度をするのを、立ったまま待たされる。周囲の客が直接は見なくとも、顛末を逃すまいと耳をそばだてているのが分かる。そう言う針の筵に俺を放り込むために彼女が時間を使っている。込み上げようとする苛立ちに、後数時間でこれは終わるのだと餌を与えて飼い慣らそうとするのだけど、むずかって飛び散った部分が俺の胸郭の内側を腐食する。飛沫の一つが口から出る。

「早くしろよ」

 ピタ、と動きを止めて、春子はゆっくりと俺を見据える。

「散々待たせておいて何様のつもり?」

「話の続きをしたいんだ。ここじゃ出来ない、な」

 もう一度溜め息を大仰に漏らして、はいはい、と春子は準備を終わらせる。行こうとする俺を呼び止めて、トレイくらい下げてよ、と言うから、その声が店中に響くから、俺はどうしてこんな女とカップルだったのだろう、俺が認識出来てない範囲まで含めたら、俺が俺を殺して来た回数は酷い値になっている、終わらせる。絶対に終わらせてやる。これまでの俺はこんな辱めに耐えて来たのか、春子が春子であることのどこがそんなに偉いのか。

 立つ気配のない春子。俺はこれが最後だともう一度自分に言い聞かせて、トレイを下げる。目の端の春子に優越の笑みが、確かに映った。

 店の外に出て、今すぐここで別れ話をしたい気持ちを、計画性で抑える。

「どこに行くのよ」

「東京タワーに行こう」

「はぁ? 何の必要があって」

「最初にデートに行った場所だろ」

 黙った春子が期待したのか落胆したのかもう表情からは読み取れない。そこにあるのは吊り下げられた能面であり、面の奏者なら表現をすることでその面を七色に変化させるけど、彼女は体まで全部が面のように何も言わない。だから交通路がただ一つ声だけだから、沈黙は遮断。それは闇に感じるのと同じ不気味さを醸す。

 静かになった春子の傍でタクシーを止める。

 春子は大人しく乗車し、俺が運転手に行き先を告げると車は滑らかに発進した。

 車窓を流れる景色は頭に入らずに、ひたすらに春子が喋らずに、スマホも弄らずに、揺られている姿をだけ捉え続ける。俺もこれからの全霊の言葉を前に、余計なことは言いたくない。だから、倦怠期のカップルらしい重苦しい時空間がタクシーの屋根の下に発生して、運転手すら言葉を発しない。

 俺の汗は乾いて、呼吸も落ち着いている。自分がしようとしていることが重大で、人生において重要な意味を持つことの認識があるのに、それに対して身構えていない。小説を目の前で読まれ意見を貰うことを繰り返す内に、俺の中に胆力が育ったのだろうか。違う。これこそが四ヶ月の成果なのだ。俺は春子が俺にとって必要のない人物であることを十二分に理解して、それを現実にするための断行への迷いが全て払拭されているのだ。東京タワーで行うと言う小さな演出を除いては、その過程がどれだけ汚くても、求める結末を得ることだけに拘る、醜くも潔い、フラミンゴの青さに比してずっと深く、冷たい青のこころに俺はある。

 タワーに着くと、俺達は何も言わないままに展望台に登った。

 正確には最初のデートではない、カップルになった場所だ。

 あの日の告白の場所に、歩んで行く。夜景を見下ろす、一枚のガラスの前は、俺達以外の誰にとってもただの場所でしかなくて、だけど二人にとっては決して忘れてはいけない地点。

 間違いなく同じ位置に二人で立ち、二人の未来がそれぞれではなく二人のものだと最初に信じたまさに同じ姿勢に、なる。

 春子は何も言わない。

 俺はちょっとだけ外の景色を見て、春子を見て、また戻る。

 俺たちが恋人になった日、俺は春子を呼んで、あのさ、と小さく前置きをしてから彼女に向き直り、付き合わないか、と言った。春子は最初何を言っているのか分からない顔をして、でも、それが恋の意味であることにすぐに思い至って、うん、と頷いた。あのとき春子には表情があって、柔らかく光って、俺はそれが嬉しくて、でも照れ隠しで窓の外を見て、何も頭に入らないから、春子の手を取って歩き始めた。

「あのさ」

 春子は何も言わない。あの日をなぞっているのか、それともこれから始まることに身構えているのか、黙ったままの彼女からは何も分からない。

 俺は春子の方を向く。漆喰のような女がそこに立っている。まるで春子ではなく、春子だったもののよう。

 怖気を散らそうと体に力を入れて、息を吸う。

「別れよう」

「嫌」

 呪詛のような声。

「どうしてだよ」

「私は結婚したい」

「俺達のこころはもう、バラバラだろ!? そんな相手と結婚してどうするんだよ!」

「結婚出来れば晴一がどう思っていようと関係ない」

 それだけなのか。結婚が優先ならそう言う価値観の相手を選ぶべきだ。俺はこころのないカップルに意味は感じない。

「俺は俺の人生を歩む。お前はお前の人生を歩け。今なら次の相手だってすぐに見付かるだろ」

「二十代を殆どあなたに費やしたのよ。その責任はどうなるのよ」

「恋愛に責任はないだろ。結婚だけが目的なら他の男のところに行ってくれ」

「今から? 無理よ」

「それはお前の問題だ。結婚は勝手に誰かとしろ。なあ」

 俺は春子の眼をグッと覗き込む。噛んで含めるようにはっきりと言う。

「俺は、お前が、嫌いだ。だから、別れろ」

 死角から左の頬を強かに打たれる。視界が揺らぐ。いつからこんなに叩く女になった?

「私は晴一が考えていることが全然分からない。私のどこがいけないのよ!」

 揚げ足取り、そこからのコントロール。それが察知出来る。痛みで逆上を狙っても俺は冷静なままだ、目的が強くはっきりしていれば、意志はブレない。だから「どこ」に答えてはいけない。そこを直すと言う達成されない努力目標に縛られることになる。

「存在自体だ。俺の人生から一刻も早く排除したいんだよ」

「あんなに愛し合ったじゃない」

「過去は今と断絶している。お前のことを愛した男はもういない」

「私を一人にしないで」

「一人になってくれ。俺から離れれば、未来が来る」

「私一生懸命やったよ? それを見ていたでしょ?」

「お前が一生懸命を傾けたのは結婚に対してだけで、あるところから先のお前は俺のことなんて見ていない」

 春子の両手が俺の頬を掴む。至近距離で春子が叫ぶ。

「私と一緒に生きるって言ったくせに、嘘き!」

「俺はその言葉は絶対に言わない。嘘を吐いているのはお前だろ」

 額に衝撃。大して痛くないけど頭突きまでしたことに僅かに驚いた。でもだからと言って俺が止まると思うな。俺が手を上げることを狙っているのも把握出来る。言葉でどんなことを言っても、物理的に春子を被害者にしたら俺の負けだ。

「こんなに叩かれて黙っているなんて、チキン男が。そんなんで私を振り切れるものか」

 殺していいならすぐにそうするよ。でもここは法治国家だ。単純な二者関係だけで完結してない。

 春子の膝蹴りが鳩尾に入る。行為は派手でも、下手糞だからあまり痛くない。

「何か言いなさいよ? 別れるのをやめる気になった?」

 人を殴打しながら言うことじゃないだろ。また膝蹴り。次いで頭突き。これで別れないでくれと俺が懇願すると思っているのか? だとしたら、春子の精神は既に壊れている。

「別れろ」

「まだ言うか」

 頭突きが徐々に上手くなって、痛い。睨み返せば春子はタワーに乗り付けたときよりずっと生気を孕んで、表情がある。憎悪じゃない、愉悦の顔。やっぱり春子は支配していることにこそ悦びを見出す女なんだ。別れる決断は正しい、自分の人生を供物にしてはいけない、何があっても別れを完遂させる。

「こんなことして、別れないなんて言うと思っているのか?」

 春子は手を離して、俺の顔をじっと見る。

 と、そのまなじりから大粒の涙が流れる。それは汚い。

 ポロポロと溢れる滴を流れるままにしながら、春子は俺の、さっきまで攻撃を与えていた頭を腕でくるむ。

「痛かったね。でも、これで晴一の罪は晴れたよ」

 彼女の体温が気持ち悪い。偽りの赦しの茶番感に吐き気がする。それでコントロール出来ると信じている春子に殺意が沸く。振り解きたい、でも待て、ペースを崩してはいけない。春子の思惑通りに動いたら泥沼になる。春子に見えないことを利用して、深呼吸をする。俺の人生の主役を決して譲ってはいけない。

「晴一、言いたいことがあるでしょ? 私は許すから、言ってごらん?」

 俺は務めてゆっくりと、彼女の包囲から抜けて、正面に立ち、眼を見る。

「別れてくれ」

「違うでしょ?」

「違わない。春子、お前に用意された未来は一つしかないんだ。俺が別れる意志を変えないなら、未来は変わらない。分かるだろ?」

「晴一、違うでしょ? これからもよろしくお願いします、でしょ?」

 閃光のように理解した。春子の支配のプロトコールはいつも同じだ。これまでずっとその道中で膝を折って、俺は自分を殺していた。じゃあ、そのプロトコールの向こう側まで行けば、春子の正体とやり取りが出来るかも知れない。強制、衆目、暴力、泣く、優しくなる、の次はまだ知らない。

「春子、無駄だよ。別れよう」

 春子の顔に血が上る、人間の顔に近付いて来た。もう一つ分かったから先回りをする。

「もし、ここから話をそのままにいなくなったら、俺は別れたと見做すから。もし近付いて来たら、ストーカー被害届を出して、接近禁止命令を貰うから。円満に別れよう」

 チッ、と汚い舌打ち、やはり話を続けさせないと言う揺さぶりが次の一手だったのだ。恋人が別れるって、こんな詰将棋みたいなものなのか。

「ねえ、お腹空かない?」

「別に。ここで決着を付けよう」

「続きはまた今度にしない? 今日は待ちくたびれたわ」

「絶対に今日結論を出す」

 仮面の下で思案しているのが伝わって来る。その仮面も半分ズレ落ちている。

 春子の弁が止まった。手持ちの方法論が底を突いて、アイデアも全部摘み取られて、さあ、どう来る。

 彼女の視線があっちこっちに行く。でも彼女は他人の視線を利用しても直接は巻き込まないし、自分を本当に傷付けるような行為はしないし、法律を犯すことも、殴っているけど、しない。春子は小さな女王であって、それを逸脱しない。これまでの経験からそれは分かり、つまりそう言う選択肢を選ばない以上は真に危険な相手ではない。仮にも何年にも渡って付き合って来たのだ、それくらいには春子を解る。

 だから本当に手詰まりな筈だ。

 そうなったら三方向の道がある。

 一つは、逃げる。でもこのときにはストーカー、接近禁止命令のルートに乗ると宣言した。

 一つは、ついに逸脱をする。こうなったら警察を呼ぶ。やはり接近禁止命令ルートになるだろう。

 もう一つは、春子の本音が出る。こうなって欲しい。彼女の本当のところと、やり取りをして別れたい。

 春子はまだ沈黙の中、眼をキョロキョロさせている。

 何も言わずに待つ。呼吸を整えて、冷静さを増させてゆく。

 春子の眼が俺の眼にバチンと合う。

 来る。

「晴一は、私より大事な人が出来たんだね」

 アキラの顔が過るが、恋愛関係ではない。でも、春子よりは大事だ。嘘ではない、辛うじて。

「そうだ」

「それでも私と結婚して欲しい」

 どうしてそうなる? でもさっきまでの春子と様子が違う、本音の春子かも知れない。

「それは出来ない」

「この世で一人で生きるのは、さみしいの」

「友達だって職場の仲間だって、いるだろ?」

「それとパートナーは別だって、分かるでしょ? 一人じゃ嫌なの。だから晴一が必要なの」

 俺は首を振る、ゆっくりと見せつけるように。

「その場所に俺はいれない。俺はお前と別れたい」

「さみしくて、死んじゃうかも知れない」

 これが逸脱の入り口でないと言う自分の見立てを信じる。

「ごめん。勝手に死んでくれ。俺は俺の人生を生きる」

 仮面の外れた春子の人間の顔は、弱々しくて、でも決して美しいとは言えないくすみに溢れている。これまで積み重ねて来た支配のための手練手管の反作用が顔に蓄積しているのだ。きっとそれは死ぬまで取れない、彼女が自分で塗り重ねた醜さ。それでも素顔であることに変わりはなく、だから初めて、俺の声が彼女のこころの底にまで届いた、その実感がある。

「本当に、ダメなんだ?」

「そうだ」

「本当に、本当に、……終わり」

「終わり。別れよう、今ここで」

「終わり、かぁ」

 春子から零れた涙はさっきよりもずっと粒が小さくて、さらさらと流れる。その涙の通ったところだけ、顔の醜悪さが浄化されるようで、だけど全体の醜さは変わらない。俺は揺らがない。こころの内を申し述べて、やり取りの中で俺がこころ変わりする可能性まで考えて選択したのかは分からないけど、これで彼女の持つ手段は全て潰された。いや、正体を出すことを選んだんじゃなくて、もうそれしかなかったんだ。

「別れを受け入れてくれるか?」

「嫌」

「でも、もう他に道はない」

「嫌。……だけど、分かった。私一人が求めていても、カップルにはなれない」

 カップルじゃなくて結婚を求めていたのだけど、春子が納得のいくストーリーがあるならそれでいい。

「なれない」

「また片思いには戻れない、終わり、……終わり」

 春子はまださめざめと泣いている。

「戻れない。春子」

 彼女の視線が俺に向く。俺はしっかりとその眼を見て、伝える。

「別れよう」

 春子は最後の一絞りを全身にわななかせてから、吐息と共に魂と力が抜ける、一瞬唇を噛む。

 そして、頷く。

 その顎が間違いなく下がっていることを見届けて、俺は最後の言葉を押し付ける。

「さよなら」

「……さよなら」

 春子が視線を切って、エレベーターの方に向かったから、俺はしばらくそこで待つ。

 視界から春子が消えると、強烈な疲労がこころに体に溢れ返って、立っていることが出来なくて、そのまま床にへたり込んだ。

 別れられた。

 ちゃんと別れられた。

 スマホを取り出し、春子の全てをブロックする。もう二度と会うこともない。

「今日は休もう」

 春子との別れのプロセスを何度か反芻している間に時間は経ち、彼女がここを発ってから三十分程度経過した時点でエレベーターに向かった。春子とはどこでも会わずに御徒町に戻り、牛丼の特盛を食べてから部屋に帰った。


 九回目の打ち合わせまでに俺は嘘と秘密をテーマにした長編「フェルマータ」を書き上げた。

 春子と別れた日は小説を書く気力が湧かず、長めに風呂に入って早々と寝た。次の日が日曜日だったことを幸いに昼まで寝て、肉が食べたい激しい欲求、ステーキを立ち食いした。食べながら春子が、別れたのだから消えればいいのに頭とこころ、それぞれの中心に何度押し出しても入り込んで来る。殴られたところはまだ痛いし、春子は不幸になったのだろうか。俺が小説を書いて結婚をしないのを不幸と彼女は言い、じゃあ、そんな俺と別れることは別の不幸になっただけなのか。いや、でもこっちの不幸は可能性がある。他の誰かと結婚をする可能性が。それとも今更だけど、春子は俺と結婚がしたかったのだろうか。でもだったらそう言えばいい。彼女はいつも、結婚のおまけとして俺を扱い続けていた。

 もし俺が小説を再開しなかったら、春子を不幸にはしなかったのだろうか。

 俺が小説を書くことは人を不幸にすることなんじゃないのか。

 違う。絶対に違う。春子の不幸は俺が小説だろうと何だろうと結婚から遠ざかったから生じているだけで、小説でなくてはならないことはない。俺が結婚をしないことが彼女の不幸だ。それは俺が不幸になるか彼女がなるかの二択でもある。でも別れたら、それが解消される。どちらも不幸にならないで済む選択肢が発生する。……これ以上の方策はない。最善の手を打った。

 納得するために思考をなぞる、それを反復する毎に春子の亡霊が擦り減る。小説を書く、春子が剥落する、書いた文字の分だけ春子を忘れる。

 一週間それを続けた。

 俺は書いて、仕事をして、書いた。

 クレーンゲームのぬいぐるみと眼が合って連鎖的に彼女を思い出して、ああ、久しぶりだな、春子は遠い。

 それから一週間で長編を書き上げた。出来上がった作品をアキラに見せることだけが俺を占めていた。

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