第3話
犬らしい犬ってどうなんだろう。Doggy-dogだ。それは医者らしい医者とか、男らしい男と似ていて、犬とはどのような特徴を持つのか、を抽出した上でそれに即した振る舞いをする犬をそう呼ぶだろう。すなわち、犬らしさと言うのはその犬が決めるのではなくて、その犬を把握する誰かが決めるものだ。
牛丼を頬張りながらそこまで纏まった。
「ごちそうさま」
「ポイントカードはありますか?」
店を出れば人波には酔客がもう混じっていて、避けつつ進むとサラリーマンが転がっていた。助けるかどうか。酔っ払いなら無視だし、病人だったら何かをしないと。別に医者だからそうしたいのではなくて、以前に病人を放置して進んだ後にドス黒い後悔に暫く苛まれたのが嫌なだけだ。だから、意識がありそうなのか、呼吸をしているのかを、さっと横目で確認する。
最初から無視を決め込むでもなく、必ず助けるでもないのは、俺らしい俺だ。
「俺らしいって何だ? 俺が決めることなのか?」
じゃあ誰が決める? 春子か? 春子からして俺の俺らしさって何だ?
それは春子の押し付けじゃないのか。春子の言う俺らしさは、彼女が期待する俺なんじゃないのか。
結婚する俺で、書かない俺。仕事をして、書かない俺。
それから外れたら俺らしくないと言うんじゃないのか。
まさに犬らしい犬だ。従順でよく言いつけを守り自分のするべきことをする。犬。俺らしい俺、犬らしい俺。
春子のために犬。
犬。
それは俺じゃない。春子の犬だ。
玄関のドアを潜ったら、懸命に鍵を掛ける。でも、犬の俺を締め出すことは出来なかった。まるで俺と言う生命が春子の犬と言う概念に侵されて、乗っ取られるような、全身に虫が這う感覚。
俺は春子の犬になりたくない。これまでそのように振る舞っていたとしても、仮の姿だ。そう、セミの幼虫のようにその表面をいくら蝕まれても、脱皮すれば本当の俺になる、その状態をキープしていたから耐えられた。
アキラと出会って、俺はもう幼体ではいられない。だから、今侵食されれば骨の髄に及ぶ。
「小説を書いている場合じゃない」
土曜日は春子の日で五年間固定だったけど、明日からはそこから脱却しないといけない。まず俺を守らないと、書けない。よしんば書いたとしても、深刻な他者の影を作品に潜ませることになる。
付いてきた侵略が取り返しのつかない範囲に及ぶ前に、すぐに電話をかけなきゃ、震える指でスマホを操作する。明日は会えない。まずはそれだけを担保しないと。
「何で会えないの?」
当然の権利を毀損されたことを責める声。その既得権益がシュードだったことを分からせないといけない。
「俺は俺の時間を俺のために使いたい」
「会わないと二人の未来への時間が積み上がらないじゃない」
声色の棘は鋭い。どこまでこの電話で言うべきか。時間が欲しい、邪魔しないでくれ、お前との未来なんてない、それとも、別れてくれ。流石に別れ話は会ってするべきだろう。いくら春子のことが嫌だと言っても何年も恋人のフリをしていた訳だし、彼女が結婚を目論んで俺の隣にいることは分かっていたことだし、捨てる相手であっても最低限の礼儀は尽くしたい。
「それはもう積み上げなくていいよ」
「どう言うこと!?」
「俺は俺のために時間を積み上げたいんだよ。分かってくれよ」
「何をするのよ。……大体予想は付くけどね。小説書いているんでしょ」
「そうだよ。俺は書きたい」
「信じられない。あれだけ書くなって言ったのに」
「俺は書くと言った。書く俺と付き合い続けるか考えてくれとも言った」
春子は黙る。彼女は彼女の力を持ってすれば俺に書かせないことが可能だと思い込んでいた。それは分かる。三年間俺が書かなかったのが自分との約束だと誤認しているのだから。春子と関係のないところで俺は小説に挫折し、預かり知らぬところで復活しようとしている。そう、まだ再生は終わってない。そのためには春子を退けなくてはならない。
「どれだけ考えればいいのよ?」
バーナーで足先を炙るような声。
「納得がいくまで」
「私は晴一が書くことに納得することは永遠にない」
それはそうだろう。春子の中では書かない、と、結婚は一本の線で結ばれている。戦略を変えるしかない。春子が納得して放置してくれることを期待したのが誤りだった。
「じゃあさ、しばらく距離を置かないか? 永遠に交わらない談義を無限にすることになるのはお互いにとってロス以外の何者でもないだろ?」
「距離って」
どれくらい開ければいいんだ? 物理的にはどうしようもないから、時間的な距離だ。恋愛の定石は知ったこっちゃない、俺が最初の冊子を出すのに十分な時間にしてやれ。
「四ヶ月、連絡を絶とう。そしたら俺からまたちゃんと連絡するから」
「嫌だ」
「どうしてだよ」
「私に何のメリットもない。私は晴一を繋ぎ止めないといけないの。あなたはすぐに自分勝手に動くから、私が目を付けてないと、心配」
心配。これを理由に人を束縛する人間がかなり多いことを俺は知っている。あなたのためと言いながら、完全に自分のための行動だ。俺はこの言葉に従って自分を殺した、何度も殺した。もうたくさんだ。昨日までの俺とは違うんだ。
「心配はいらない。全くいらない。お前の目の中で生きるなんてまっぴらだ。お前のメリットのために俺の人生をフイにしてたまるか。バカじゃねーの!? 何でも思い通りになる訳ないだろ」
「はぁ!?」
「じゃあ、また四ヶ月後にな」
「何よ! 私が心配してやっているの」
心配にやっているが付いているのを確認した時点でもう十分だから、俺は電話を切って、モバイルの春子の全てをブロックする。住所は知られているし職場も割れているから、強引に会おうと思えば会える訳だし、でも春子はそこまではしない、自分の支配は完全と信じて、玉座から動かずに相手を動かすのが常套だから、自分で行動力を発揮することはまずない。もし、会いに来たなら別れ話をすればいいだけだ。
春子をどうにかしないと俺には未来がない。
確信を強固に、ジュアだけは教えてなくて本当によかった。
大きく息を吸って、吐いて、パソコンの前に就く。
まずはアイデアをバンバン書く。犬らしい犬と、痴話喧嘩が同じ話になるかは現時点では分からないけど、パソコンのワードに新規作成して、書いてゆく。
明日は久し振りの一人の土曜日だ。有意義に使うために日中は都立美術館に行って、夜は映画を一本見よう。前に書いていたときの教訓、インプットの時期とアウトプットの時期を分けるのではなくて、並行してやる。そうすると書くことの空白が生まれ辛い。二週間書いている間に、当時の勘だけでなく、工夫も徐々に思い出されて来た。
少しだけ、春子が気になる。
書き始めるよりも前、大学四年生のときに付き合い始めた頃は今みたいな支配の権化ではなかった。一緒に遊んで、学んで、笑っていた。もしあの頃のままの春子だったら、俺は捨てようと思わなかったのだろうか。それとも、書くことに折れた時代を共にしたためにそれが彼女に付着してしまって、一緒に捨てざるを得ないのだろうか。多分違う。春子は、俺が書くことから逃げている状態に適合してしまったんだ。三年の間に、そのように成長した。
「いや待て。もし俺が逃げていても、それに乗じて結婚をしようとするのは、やっぱり状況のせいじゃない。春子そのものの意志がそこにはある」
原因を探っても意味はないのだ。それが何であったとしてもこれからの行動に影響しないから。だから、現症として春子は玉座の女だし、俺は書きたい男だし、俺が俺と春子のどちらの人生を優先するかを決めればいいだけの話だ。俺には新しい夢がある。アキラと叶える夢だ。俺はそれをしたい。書きたい。春子との両立は不可能だ。その最大の理由は。
「春子がいると書きづらい」
言ってしまえばそれだけのことだ。書けない訳ではない。そしてそれは死んでも譲れない場所に刺さっている。
「ちゃんと、俺の人生から春子を除去しないと」
距離を置く期間が彼女の眼を醒させてくれればいい。俺といても結婚は出来ないと言う事実を直視して欲しい。納得して別れてくれた方が、後腐れがなくていい。
急に、階段をもう一段上ろうとしたらその段がなく、空想の段を踏み抜いたときのように、体に不快な浮遊感が広がる。
ベランダを開けて、入り来る風を嗅いだら、理由の分からない懐かしさが含まれていた。
どうして考えたら明白な選択をしているのに、気持ちが手の砂みたいにザラザラになるんだ?
春子はウザい。春子は迷惑だ。春子は嫌いだ。でも、どこかで情が移っているのかも知れない。長い時間を一緒にいたから。でもその情こそがつけ込まれている場所だとも分かる。彼女の支配は恋慕を利用していない。
壁にぶつかったみたいに、思考がそこで止まる。立ち竦んで遥か高いその壁を見上げる。それは考えの辿り着いた先にある事実が催す感情を受け止めるための準備だ。
こればかりはそこで待っていたら降って来る。
そして避けられない。
胸の裏を破るそれに、名前を付けないといけない。
「……哀しい」
唯一の繋がりが、支配の道具になっているなんて。
「本当に、もう、春子とはダメなんだ、……そうなんだ」
恋の終わりはもう始まっていて、愛の始末も号砲を聞いている。だけどまだ現実がそれに追い付いていない。俺は一人で哀切を味わうのだけど、それですらただの別れの儀式に酔って擬似的に感じているものかも知れない。
捉えたらすぐに、感傷が溶けて消える。
刹那に深く突き刺さった筈の悲哀なのに。
残っているのは春子への判断のみ。彼女は不要。少なくとも四ヶ月は排除出来た。
俺はパソコンに向かう。俺らしい俺を俺が決めてもいい。
約束の一時間前にジュアでお気に入りの席を確保する。携えたものを早く見せたくて、家にいても何も手に付かないから、仕事のある日の方が気が紛れるしやっぱり当日と言うのは特別で、パソコンを開いて小説を書いても全然集中なんて出来ない、開き直って動画を見る。色々サーフィンしていたら、マジックの種明かし動画、これなら俺でも出来そうだ。手許の煙草の二本を使って練習する。
動画ではいかにも簡単そうにしているのに全然出来ない。交差した棒がすり抜ける、本当に単純な種なのにそれを自然に遂行するにはものすごい反復練習が必要なよう。でも、百回くらいでも不恰好なレベルで一応形になった。推測するに滑らかになるには一万回は掛かりそうだ。剣士が美しく面を打つそのひと動作のために何億回の素振りをするように、一つの動きを極めるための積み上げは何に於いても必要なのだ。よく仕事は一万時間やっていっぱしになる、とか、小説は一万枚書いて一皮剥けるとか、一万と言う数字には十分さのニュアンスがある。千はまあまあ多いけど青い感じ。百は日常のレベル。
一万日は二十七年と数ヶ月。一日十時間携われば三年あれば一万時間は超える。
俺は小説を書くことは一万時間は優に超えている。では、一万枚はどうか。字数なら四百万字だけど、改行とかを含めたら一割以上は減るだろう。だけど絶対に超えているかどうかで考えるなら四百万字で考えた方がいい。……これは超えてない。百万字は余裕だけど、三百万字には届いていない。
「まだまだ研鑽の足りない小説とマジック、この待ち時間にどちらを磨こうか」
呟いてみても、今は小説が書ける心理状態にないのは自分でよく分かっている。そう言うときはインプットをする。マジックの練習だって小説から見たらインプットだ。でも、だからじゃない。単に面白そうだから、アキラが来る前にマスター出来たら驚かせられるから、手の技を選ぶ。
ところが、手持ちの煙草が全部すり抜けの失敗でぶつかって、ふにゃふにゃになってしまった。腰がないシガレットでは種が上手く作動しないから、それらを纏めて箱に戻す。そこから一本出して、火を点ける。吐き出した煙越しに階下に入店するアキラを見付けた。ここは喫煙席、だけどアキラに会うには煙を収めたい、理由はわからないけどそう閃いたから揉み消す。
階段を上るアキラの横顔が見える。待ちに待った相手だ、鼓動が早鐘に、顔が強張る感覚。
俺を認めたアキラは宝物を見付けたみたいにぱあ、っと明るく微笑んで、俺の向いに座る。
「早いですね」
「一秒でも早く見せたくて。ガチガチなんだ」
「そんなに緊張しないで下さいよ。いつもカケヨメで発表しているじゃないですか」
「いや、そうなんだけど、リアルだからなのかな。って、アキラさん、敬語」
話題を逸らしたのはそっちの方が重要だからじゃないことが、ディレイで自分に届く。
「それなんですけど」
ちょっとだけアキラが畏まる。その唇はだけど柔らかに動く。
「やっぱり、私は敬語のままでいきます。だって、私はライオンさんの大ファンなんですよ」
「大ファンだと敬語じゃないとダメなの?」
「ライオンさんは自分が大ファンの相手に対して、タメ口きけますか?」
zarameのコダマさんにタメ……いや、無理。神様にタメで喋るようなものだ。畏れ多いを通り越して土下座したくなる。
「すごいよく分かった。俺って君にとってそんなに大事な人物なんだね」
「そうじゃなきゃ、ここまでしませんよ」
アキラがキラリと微笑む。
「分かった。俺はタメ語でいい? 別に君を尊ばないとかじゃなくて、話し易さを優先したいんだ」
「もちろんです。十分に敬意を感じていますから、お気になさらず」
俺が頷いたら、バリスタが彼女の注文を取りに来て、アキラはブレンドを頼む。
「早速だけど、この二週間で短編四本と、冊子のネーミングの案を考えた」
「四本! 印刷されていますか?」
「手に取って見て欲しい」
俺は鞄から紙束を出す。アキラの眼がギラギラと輝く。
「世界で最初にライオンさんの小説を読めるなんて」
アキラのうっとりは、これまで見たどの乙女よりも恋の中。俺の作品は彼女を満足させられるのかな。過去作の方がいいとか言われないかな。でも、ここで引き下げるのはみっともない。
束をじっと見てから、アキラが顔を上げる。もう、我慢出来ないです、と聴こえる。
「拝読させて頂きます」
今回の短編は書いた順に「俺らしい犬」「砂釣りの島」「
俺はマジックの練習もネットサーフィンも執筆もしないで、じーっとアキラが読む姿を見る。
他の何かなんて出来る筈がない。宇宙のどこまで行っても俺がアキラが読むこと以上に関心を持っているものは探し出せない。想像していたよりずっと彼女はゆっくり読む。眼は集中しているけど、微笑んだり、唇を噛んだり、表情豊かだ。きっと泣く話だったら、彼女は読みながら涙を流し、笑う話だったら声を出して笑うだろう。ちょっと安心した。サイボーグみたいに内容をインストールするような読み方をして、的確な酷評をするような人だとは思ってなかったけど、もし万が一そうだったら冷たくて嫌だ。感情のある人間の彼女が、ここに座っているのが嬉しい。読んでいるのが嬉しい。一枚、一枚、ページが捲られていく。俺は彼女の内面に起きていることをちっとも予測出来ないから、そこは考えない。ただ、彼女が一生懸命読んでくれているかどうかだけを見ている。最後の一枚まで、彼女の集中が途切れることはなかった。
長い潜水から浮上するように、アキラが俺の眼を射抜く。
「最高です」
嬉しいよりも安堵が生まれた。
「前の作品と比べて劣化してない?」
アキラは首を振る。イヤリングが一緒に揺れる。
「ブランクの前よりもよくなっています。概ね」
概ね?
「概ねじゃないところってどこ?」
「それは、私個人の感じ方の問題で、客観性に乏しい意見でしかないです」
なるほど。しっかり何かを感じていると言うことだ。それは否定的な内容で、彼女の弁は俺を傷付けたり怒らせたりすることに予防線を張っている。
「アキラさん、どんな些細なことでも、漠然としたものでも、意見は欲しい。それはいい方も、悪い方も」
アキラは静かに虚空を見据える。躊躇いが流れている。
でもすぐに、ふ、と焦点を俺に合わせる。
「私が創作に踏み込んでいいんでしょうか?」
俺は小さく顔全体を緩める。
「いい。読者の意見であって、どう反映するかは俺が決めることだから、全然問題ない」
「分かりました」
言ってみたが、体は反射的に全身を盾にするようにきゅうっと力を入れて、それは哀しい気持ちを受け止める準備だ。
アキラは紙束をトントンと整えて、二人の間に置く。
息を吸い込んで、俺をもう一度見る。その眼は「本当にいいんですね?」と訴えかけていて、俺は「ドンと来い」とやはり視線で返す。
一回大きな瞬きをしてから、アキラは始める。
「『俺らしい犬』は『らしさ』を規定する概念がその本体の外側にある、と言うところがミソで、それのズレを見事に昇華していると思います。だから伝わって来るものと言うか、沸き立たせられるものが不思議さとか哀愁なんですよね。内容としては完成していると思います。でも、敢えて言うならば、文章の調子と言うか、濃淡と言うかが、のっぺりとし過ぎているように感じます。わざとかも知れません。だとしても、私としては濃淡を付けた方がより最後に向かっての心地よい混乱に熱中出来ると思います」
濃淡。そう言う風に捉えているのか。細部ではなく全体像、文字ではなく文字群。雰囲気を読んでいる。確かに、一辺倒な濃度で書いている。彼女の言うようにわざとだ。それは概念の飛び回る話だからこそ土台を安定させるという意図があってで、だけど、濃淡を付けた方がいい作品になるのならやってみる、試すのはいいだろう。
思考は滑らかに判断するけど、同時にハートに打撃が入っている。俺の存在を脅かす攻撃に被弾した。改善の箇所はすなわち存在を否定された場所。アキラに、作品を否定されることはそのまま俺が否定されることだ。今はアキラこそが神様だ。彼女が言ったことで俺の生死は決まるのだ。そして確実に部分的に作品と俺が否定された。俺は部分的に死んだ。アキラの愛と、いい部位の指摘がなかったら、それこそ自分が全否定されたと取り乱して指摘を受け入れられなかったかも知れない。理性で踏み止まっている、痛みを堪えている。これがあと三つ、生き残れるだろうか。
「分かった。濃淡ね。その眼で見てみるよ」
アキラはゆっくり頷く、まるで小説の話の切れ目のように。
「次に『砂釣りの島』ですけど、世界観の独特さが美味しい味になっています。砂だけで出来た島に、砂の中の生き物『ゴク』を釣りに来て、でもその砂島自体が巨大な蟻地獄の巣と言う設定を、苦痛なく納得させてくれるのがその世界観です。主人公『リキ』の豪快さと同時にある繊細な観察眼が気持ちいいです。蟻地獄の口に向かって落ちそうになるシーンは圧巻です」
「そのシーンが書きたかったんだ」
「そのせいなのか、他のところと比べて浮いているんです。ツギハギみたいな感じです。それはそれでいいのかも知れないですけど、ジョイント部分を滑らかにするともっと入って行けると思います」
そう見えるんだ。書きたいシーンでテンションが上がったのが見えるってことだよね。俺が思っている以上に小説には書き手の状態が反映されるのかも知れない。でも、浮いているって、下手糞だってことだ。別の作品を貼ったかのようだと言うことだ。俺の自尊心が電動の鉛筆削りで一気にカスになってゆく。これを復活させるためには、一段一段修行を積む以外にない。暗澹を転げ回る。俺の小説家としての尊厳を捧げないと、意見を貰えないのかも知れない。もう捧げるべき尊厳は破壊されてしまったけど。
「分かった。繋ぎ目を確認するよ」
俺の顔は汗だらけで、心臓はやかましいし、頭がくらくらして来た。
アキラは穏やかに、自分の発見に責任を乗せて言葉にすることに熱中している。仕事の美しさの顔。
「はい。次の『手跡』ですけど、これは改善の指摘が出来ません」
ドクンと心臓が跳ねる、そこに杭を打ち込まれたみたいに。
「そんなに悪いの?」
「逆です、いいんです。足跡ではなく手の跡を人生一個、辿る。彼の無骨な手が愛されて育って、道を踏み外して、人を殺めて、罪を償う。こんな人生の切り取り方がこれまであったでしょうか。最後に繋いだ手に私は涙が溢れそうでした。ここで読ませて頂くのは嬉しいのですけど、この作品に限って言えば自由に泣ける環境で読みたかったです。これから私は自分の手がどのような跡を残して行くのかをずっと意識すると思います」
彼女の言葉が光となって降り注ぐ、俺は安堵の中、浄化される。
部分的に死んだハートと粉々の自尊心の両方にその光は流れ込んで来てそれらを癒し、俺は死ななくて済みそう。
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうです。いい作品を書いてくれて、読ませてくれた、幸せ者です、私は」
アキラはきっと祝言の朝でもここまで満ち足りた表情はしないだろう。俺は彼女の一番いいところを食べている。でもそれは彼女が望んだことでもある。
「最後に『二人のタロット』ですけど、これ、ライオンさんと私のことをベースにしていますよね?」
「うん。した」
「こんなふうに思ってくれているのだと読んでいいんですか?」
「それは違う。あくまで主人公はそこに出て来るハシモトで、彼がその中で考えたことだから、俺がアキラさんに考えたことではないよ。もし俺の気持ちが知りたかったらそれは話すけど、シチュエーションを引っ張って来たり、ベースにしたりしたとしてもそれが現実と同じではないことは、絶対なんだ」
アキラは眉を顰めて首を傾げる。
「どうして絶対と言えるんですか?」
「これは俺の組み立て方だけど、小説はフィクションの上に描くからリアリティが生まれるって構造になっているんだ。じゃあリアル、取材とかも含めて、それがどこにあるかと言うと、フィクションの下に埋まっているんだ」
「埋まっている」
「そう。そのリアルが顔を出すと、リアリティが損なわれる」
「どうしてです?」
「多分世界の均質性が破損するからじゃないかな。俺も試行錯誤の中でそう言う法則があると見い出しただけで、仕組みまではよく分からない。でも守らなきゃいけないルールだと信じているから、俺が書く小説ではリアルとリアリティの間には必ずフィクションを挟んでいる。間にフィクションがあるから、現実と同じじゃないことは絶対なんだ」
アキラは、なるほど、と頷く。俺は続ける。
「その上で、妄想的な、だったらいいな、を乗せることはあるけどね」
「ハシモトのカード、魔術師の『ゼロから一を生み出す』、リカのカード、力の『勇気によって計画が行われる』は、本文中にもあるようにタロットの暗示ですけど、私はそれが私達を表現しているように思いました」
俺は笑いながら何度も頷く。
「俺達がそうだったら最高だとは、俺も思っているんだ。きっとそうなるよ」
「はい! そうします。で、面白さはあるのですけど、この作品は書かれるべきところまで書かれてない感じがするんです。長い話の一話だけを読んだような読了感で、もちろんいい内容だと思うのですけど、これ、タイトルをどうするかも含めて、長編にしませんか?」
それは尻切れトンボだと言うことだ。そしてその尻はメチャクチャ長い。俺としてはこの話はここでおしまいでいいと思った。……長編。長編か。どうなんだろう、ハートがぶるぶる震えちゃっている。ついさっきまで創作論を語っていた自分の一瞬の自信が速やかに逼塞して、彼女の前に跪く俺に戻った。この話をどうするか、少なくとも自分で自分が平気になるまでは保留すべきだ、今は選択を間違える、確信がある。
「ちょっと、検討していい? 俺としては長編にする話とは思ってなくて」
「分かりました。次回にまた教えて下さい」
アキラはすっきりした表情、森林浴をした後のよう。
「あのさ」
これは確認だ。俺はビビっちゃってる訳じゃない。
「はい」
「改善のための意見と、作品が最高だってことは、両立するんだよね?」
アキラは眼を瞬かせて、真綿のように笑う。
「もちろんです。百を百一にするための意見です。あくまで敢えての意見です。今日新作を読んで、ますますライオンさんのディープなファンになりました」
いや、俺はビビってた。たった一人のアキラの意見が神託のように強烈で、それは一人の意見に過ぎないのに絶対のように思って、改善点が出る度に俺の存在が脅かされるみたいに、でも違うんだ、それは作品に対してのもので俺自身のことじゃないし、託宣ではなくて一つの意見なのだ。俺の作品の価値を決めるのは俺ではなく、アキラ単独でもなく、読んだ全ての読者だ。肯定的な人も否定的な人もいるに決まっている。だけど顔の見えない大勢の読者よりも、目の前に座っているアキラの方が強く俺に作用する。でもだったら、改善すべき指摘をされたなら、俺は作品を直せばいいし、俺が正しいと信じるなら直さなくてもいい。彼女の言葉を作品をよくするために活かす、それが彼女の勇気と俺の胆力の求める結果だ。ビビる必要なんてない、傷付いてもそれが推敲の推進力になるなら、望んで言葉を貰って当然だ。
俺は犬のように顔を振る。
「ごめん。ちょっと凹んだんだ。でももう戻った。貰った意見、きっと役立てるよ」
「はい!」
希望を見付けた、いや、希望の
「と言うことで、『手跡』以外の三つは直しをする。次回また読んで貰うとして、どうだろう、作品を掲載するときの基準として、アキラさんがOKを出したものに限定しない? 今回だと『手跡』だけが突破したって感じで」
アキラにスッと筋が通る。
「私からは言い辛かったんですけど、全く同じシステムを考えていました。その方が一定以上のクオリティーをキープしやすいと思うんです。『手跡』はもちろん突破です」
「突破した完成稿のデータはどう渡す?」
「私が持つので不安じゃなければ、USBで頂ければ、後はチラシなり冊子なりにします」
自分に余裕があることを示すつもりで俺はニッと笑む。アキラはそれを見てコクンと頷く。
「組むと決めたんだ。そこは信じるよ。じゃあ、『手跡』を渡したいんだけど、ある? USB」
「用意して来ました」
アキラが鞄からシンプルな財布を出す。パカリと開けるとUSBメモリが出て来て、ストラップで財布本体に繋がれている。
「これにお願いします」
「了解」
パソコンに挿して、一分弱。その筈なのに、粘りのあるものをストローで吸い上げるような努力と時間が掛かったように感じた。
「出来た。はい、これ」
「お預かりします。どの作品をチラシに、冊子に、するかは作品が溜まってからにしましょう」
「OK」
「後、前回一ヶ月で準備を終えようと計画していましたが、見直します。作品が十分な量になるまでは時間を掛けませんか?」
「そうだね。今日の『突破』システムにはそっちが合う」
アキラが原稿を読む間に提供されていたコーヒーを啜る、すっかり冷めている。アキラも同じようにコーヒーを飲み込んで、それでも一息ついた表情。今日一番しなくてはならないやり取りは済んだ。ここからはボーナストラックだ。と言っても勝ち戦が確定しているのではなくて、中心である小説以外のやり取りと言う意味だ。それだって、却下されたり微妙な顔をされたら傷付くけど、やっぱりちょっと気楽だ。
「じゃあ、次に、冊子のネーミングの案だけど」
「はい。私も考えて来ましたので、順番に出しましょう」
え、そうなの? でも考えるよね、それはそうだよね。
俺は鞄からクリアファイルを出す。一旦自分の方に正面を向けて確認して、二人の間の紙束の上にポン、と置く。反射のようにそこを覗き込むアキラの顔が好戦的とも言える、これまでにないシャープな笑みに塗り替わる。
「Flamingo、ですか」
それは表紙の案でもある。俺は手書きでレイアウトをして、色鉛筆で塗った。表紙から眼を離さないままアキラが続ける。
「青いフラミンゴとピンクの背景、淡いから目次は読み易いし、冊子のタイトルとしてインパクトもありますね」
「あくまで案だから、絵とかはまた考えないといけないけどね」
アキラはすーっと息を吸い込む。
「どうして青なんですか?」
「その青が好きだから」
「だとしたら、Blue Flamingoって名前はどうです?」
「blueのは店とか曲とかで既にあって、azureとかskyとか色々試してみたんだけど、何も付けないFlamingoそのままの方が、ズガッとしていると感じた。だから素のFlamingoがいいと思う」
アキラは顎に右の拳を当てて、提示された図案とタイトルを何度も読む。
「どうしてフラミンゴなんです?」
「水玉ライオンだからアフリカかな、で、素敵な生き物を探していたらフラミンゴに当たった。インスピレーティブな何かじゃなくて、掘り当てた感じだよ」
「飛べる鳥で、一つ一つが美しくて、そして現実にない色を伝えて、……アートの文学に相応しい鳥です」
「そこまでは考えてなかったんだけど」
気には入っている、でもそれを先に言うと彼女が意見し辛いと考えたのと、同時に俺が傷付き易くなりそうだと思った。
「私が考えて来たのも、この流れでこっちが採用されることはないとは思いますけど、聞いてくれますか?」
「もちろん」
アキラが鞄から出したのは、俺の作った表紙と、文字のレイアウトが殆ど同じの紙。でも動物は描かれていなくて、タイトルのところにあるのは漢字。俺はそれをじっと見て、これは流石にFlamingoの勝ちだな、彼女の表現したいこととこれからやりたいことが何かはよく表されているけど。
「どうですか?」
「『震源』……、地震の国でこれは攻めたね」
「それくらいの作品がこの冊子には入っているぞと言う気概です」
「気持ちは伝わって来るけど、これが悪いとかでなくて、Flamingoの方がいいと俺は思う」
悲しい顔するかな、伺うけど、彼女は事務員のようにあっさりと、それを受け入れる。
「そうですね。どっちがいいかは明らかです。これがライオンさんと私の創作能力の差でもあります。この差分だけ私はライオンさんの作品で酔うのです。……さて、でも第三案を考えることを検討しましょう」
「もし、アキラさんがFlamingoでよければ、第三案は必要ないと思うけど」
アキラは一瞬視線を外して、アキラの案の下に埋まった俺の案を引き出す。それをまじまじと見詰める。
「Flamingo、Flamingo、……」
アキラは呟く。
俺はそれを見ている。
アキラが俺に顔を向ける。
「第三案は、いりません」
「じゃあ、決まり。でも、どうしてそう思ったの?」
「さっき言ったアートにぴったりであることと、アフリカ繋がりと、それ以上にライオンさんが作ったレイアウトを見たら手に取りたいと思ったんです。それに、『震源』で表現したいことが含まれているように感じたんです」
「未来を掴みそう?」
「はい。私、この名前気に入りました、これからこの名前と一緒にやって行くんです。未来を預けるに足るタイトルだと思います」
手に持っていた図案をくるりと俺の方に向けて、アキラは置く。俺は改めて自分で書いたそれを見て、家でこれを描いたときとはもう乗っかっている重みが違っている、息を大きく吸い込んで、図案を手に取る。
「Flamingo」
声に出すと、まだその後ろにない冊子が命を吹き込まれたかのように力を得て、脈動を感じる。でも本当の命はこれから二人で容れるのだ。
アキラが、でも、と俺を呼ぶ。
「フラミンゴの絵は、このままではいけないと思います」
絵心が多少あるから、自分でも彼女の言う通りここに立っている青いフラミンゴが微妙なのは分かる。
「じゃあ、どうする?」
「私に考えがあります。これから上野動物園に行って、フラミンゴの写真を撮りませんか? それを加工して、ここにあるような色に仕上げます。画像の編集はある程度出来るので、私にやらせて貰えませんか?」
誰か絵を描ける人に頼むんじゃなくて、あくまで自分でやる。面白い。
「じゃあ、次回それを見せてね」
「はい。今日の打ち合わせはこれで全部ですから、上野動物園に行きましょう」
アキラの勢い、俺もフラミンゴを見ておいていいような気がする。自分が命名したのだから。
「よし。行こう」
残りのコーヒーを飲み干して、席を立つ。代金を「経費です」とアキラに出された。
まだ二時だから動物園は開いている筈。
ジュアから上野公園は目と鼻の先で、初夏の日差しに眼を細めながらアキラを連れて歩く。彼女は何も言わずに俺の横を歩いているから、雑談とかはしない主義なのかと思ったら、公園の入り口の水を吐くカエルの像を見付けたら少女のようにそこに駆け寄って俺を呼ぶ。
「ライオンさん、このカエルは何を吐き出しているんでしょうね」
「彼を見詰める人の腹に溜まったドロドロを代わりに吐き出しているんじゃないかな」
「私のも……かな。でも今胸に詰まっている素敵は出さないでね」
「大丈夫だよ、それは君のものだから」
「そうですよね」
にっこり微笑んで、彼女はまた歩き出す。カエルの水の音が続いている。
「私、彫刻とか絵とか、作品を観て感じる力が結構あると自分で思っていたんですけど、ライオンさんはやっぱり一味違いますね」
「変わらないよ。ただ、観る人が違えば感じるものも違うってだけじゃないかな。だから、感じたことを言い合うのは面白いんだよ」
大階段に差し掛かって、体を一段一段よいしょと持ち上げて上る。
「感じることと、表現することは違うんでしょうか?」
「それは違うよ」
「どう違うんです?」
「受動と能動ってだけでも違うし、瞬間と練磨ってのも違う。アキラさんは何か創作をしたりしないの?」
「私は読み専なんです。他のジャンルでも創作はしないです。唯一作るのは営業の資料くらいです」
「フラミンゴの加工大丈夫?」
「資料で必要な技術だから、大丈夫です。何かのツールを使えることと、同じツールで創作が出来るのは別のことなんです。私はタイピングが出来ても、小説は書けません」
創作が出来ないと決め付ける必要はないだろうに。創作をすること自体は難しいことじゃない、質のいいものを作れるかは別だけど。
階段を上り切って、台地を進む。
「読み専って、どんな気持ちなの?」
「気持ち? 気持ちですか。……それは果実が落ちて来るのをひたすら待つ感じですかね。落ちて来たものの味については極めてうるさいですよ」
俺は、ははは、と笑う。
「そのお眼鏡に適ったんだね」
「はい。金の果実ですよ。読み専がスパークして、今の私の行動になっているんです」
「編集者になりたいのだろうか?」
アキラはブンブンと首を振る。
「それは大間違いです! 私は他の人に興味がないし、お金儲けをしようと思わないし、何より仕事にするつもりはないです!」
急な大声に向こうから歩いて来ていた親子が揃って俺の顔を見る。
「でも、仕事レベルのクオリティーは出しそうだけど」
「もちろん、質はそうです。でも、私はやりたいから、好きだから、同人誌活動をするんです」
俺は頷く。親子とすれ違う。
「そうだね。だから俺は打たれたんだ」
アキラから微かな鼻息が、分かればよろしい、と吹き出される。俺は急に嬉しくなって、両手を広げて彼女に問いかける。
「俺達のやっている活動に、名前を付けないか?」
アキラが俺の顔を覗き込んで、美味しいに決まっている果実を口に含んだような顔をする。
「同人誌活動ですけど、グループ名ですよね?」
徐々に動物園の広い門に近付いて行く。同じ方向に向かう人の流れ。
「グループ名。二人を合わせて何だろう?」
「やっぱり、Flamingoにちなんだ名前がいいと思います」
「blue wingとか?」
「それはカッコ付け過ぎです。フラミンゴ会はどうでしょう?」
「アングラな組織みたい」
「じゃあ、そのままフラミンゴにしますか?」
「それはちょっと紛らわしい」
動物園のゲートの手前、言い合いながらチケットを買う。アキラが、経費だって買う。
「フラミンゴサークル」
「微妙だな。トゥーフラミンゴは?」
「フラミンゴ過ぎる感じです」
「だったら……」
「チケットを出して下さい!」
夢中になってそのままゲートを潜ろうとしてモギリの人に止められた。
「すいません」
モギリ人はやれやれと俺と彼女の顔を見て、チケットを千切った。ゲートを離れるまでは神妙な顔をして黙って歩いて、ひょいと振り向いたそこが十分遠くなったら、二人して笑う。笑いながら動物園を進んで行き、他の動物は目もくれずにフラミンゴの場所まで歩く。アキラが、これはどうですか、と案出しを再開する。
「フラミンゴ・アンド・ライオンです」
「いや、それアキラさんがフラミンゴになっちゃうから」
「じゃあ、ポテチ・アンド・ライオンですね」
「何がしたい組織なんだ、それは。アンド、はあまりよくないかも。バンドとか芸人ではよくあるけど、出版社? 違うか、編集じゃないんだもんね、同人誌グループ、ではどう言うのが一般的か全然知らない」
「多分、世の中にある同人グループとも違うものになると思うんです。だから、もっと勝手に付けていいんじゃないかと」
言っている間にフラミンゴの場所に到達する。それは展示なのだろうけど、一層身近になった彼等は展示ではなくてそこにいる隣人として見たい。アキラがスマホを出そうとするからそれを制する。
「まず自分の眼で見よう。ちょっとでいいから」
「はい」
アキラはスマホをしまう。
「群れだね」
「群れですね」
「一羽屹立のイメージとは程遠い」
「表紙は表紙です」
匂いはするし、餌は食べるし、ときに喧嘩する。それでも彼等はひと所に集まっている。上野の檻の中だからじゃなくて、アフリカにいるときにも同じだった筈だ。フラミンゴは集団で一つのようなところがある、それは小説が文章や字の集まりで一つであることと同じだし、小説の集まりが冊子になることも同じだ。
「やっぱり、Flamingoで正解だよ。会いに来てよかった」
「グループ名にもフラミンゴ入れましょうよ、そうだ、Flamingo clubってのはどうです? こうやって集まっているのがクラブみたいですから」
閃く。
「ひっくり返して、club Flamingo、これでどうだ!」
アキラは視線を生きている方のフラミンゴに向けたまま呟く。
「club Flamingo」
呟いた言葉を咀嚼して飲み込んで、その味を全身で確かめて、俺の方を向く。
「私達はclub Flamingo」
「同人誌グループ、club Flamingo」
「ライオンさんは専属の小説家」
「アキラさんは……何だろう」
アキラも首を傾げている。
「分からないので、新しい名前を付けて下さい」
「じゃあ、写真撮っている間に考えるよ」
「はい」
アキラはスマホを取り出して、フラミンゴの写真を撮り始める。俺は一歩離れたところからその姿を捉えながら、アキラの肩書きを考える。別に肩書きなんてなくたって問題はないのだろうけど、俺が小説家なのだから彼女にも何かがあった方がバランスがいい。それとも敢えてバランスを崩して行くのも手だろうか、いや、彼女は肩書きを求めているような気がする。それは外面的な何かではなくて、やはり俺とのバランスの点で、だ。でも、彼女は自分のことを言っていた、読み専と。それを中心に考えるのが、小説家のパートナーとして、いい感じがする。
「写真、十分に撮れました」
「俺も十分に考えたよ。『超読み専』と言うのはどうだろう」
「ダサいです」
アキラの瞳から初めて光が消えた。
「そうかな。でも、読み専を一歩進めたものがいいとは思う」
「『超』がダサいんです。コンセプトには賛成です」
俺達はアキラの肩書きをまた言い合いながら動物園を出て、二週間後にまた会うことを約束して別れた。
ぐるぐる回って結局「超読み専」に決まった。「やっぱりダサくないかも知れません」と言ったときのアキラの瞳には光が戻っていた。「スーパーリーダー」と読ませるかは保留とした。
Flamingoに載せるつもりで書いているから、当然カケヨメの更新は止まる。一瞬、本当に一瞬だけ、カケヨメ用にも短編を書こうかと思い巡らせて、でも同人誌の方が今は面白いからそっちに集中しよう。何より、チラシの方に載せた作品は二週間後にチラシを回収するのと同時にカケヨメにアップする手筈になっているから、軌道に乗り始めればカケヨメの更新も二週間に一回でコンスタントになる。新人賞に投稿して結果が出るまでに半年とか待たされたのに比べれば短い、それくらいは我慢出来る。
この二週間で、この前の「俺らしい犬」「砂釣りの島」を直して、「二人のタロット」を長編に出来ないか練った。同時に「剥離」「腕の中の」「文化食の女」の三本の短編と、長編のアイデアを生んだ。仕事の間は忘れていてもそれ以外の時間はずっと小説のことを考えるか書いている。もしくはインプットをしている。土日が全部自分のものになったのが大きくて、春子にどれだけ吸い殺されていたかと思うと、距離を置く期間を百年にすればよかった。それでもいつか小説よりも一緒にいたい人と出会うのだろうか。そのときにはきっと分かるだろう。でも今は、俺は小説が書きたい。
ジュアでアキラと会う。「俺らしい犬」「砂釣りの島」のOKが出た。これで短編ストックが三本になった。新しい三つは全部直しをすることに、腸が千切れそう、俺は持ち帰る。多分これからも一発OKが出ることは殆どないのだと思う。尾羽打ち枯らしても、涙出そうでも、読者の眼での意見が、それともアキラの眼だからだろうか、小説を明らかによくしたから、俺は半ベソを噛み殺して持ち帰る。「二人のタロット」はお蔵入りに決めて、もう一つの長編のアイデアを検討する。
「俺の好きなフレーズで『嘘と秘密は双子の姉妹』と言うのがあるんだけど」
「あ、過去の作品の中で見ました」
「そこを膨らませて、長編にするのはどうかな、って思うんだ」
「何か決め手があるんですか?」
俺は人差し指で空間を示す。
「物語を短編にするか長編にするか、その違いを俺はその話の格の要求する長さで決めるんだ」
「核って、その中心のものですか?」
「いや、格が高いとかの格。まあ、中心の核でも殆ど通じるけどね。それが要求するのが短ければ短編、長ければ長編。『二人のタロット』をお蔵にしたののもう一つの理由が、俺にとってはあの作品の格は短編に感じるからなんだ」
ほお、とアキラは頷く。俺は指先で大きな丸を描く。
「秘密、ってのは格が長いものを要求するのになりそう。それに嘘を絡める。と言うか嘘と秘密を交差させる」
「ミステリー、ではないですよね」
「ミステリーは『秘密が、徐々に明らかになる』と言う構造だよね。これは人間の謎を見たら解きたくなる性質を利用していて、逆に言うとそれを利用することを中心に据えたものをミステリーと言うと思うんだ。でも俺はそれが読者に対して不誠実な感じを受けてしまう。予め分かっていることを伏せて、ミスリードして、そう言うのが好きな人にはいいかも知れないけど、俺は楽しめない。俺が楽しめないものを書ける程レベル高くないし、あくまで俺は『俺はこれが面白いと思う、君はどうか』と言うスタンスを守りたい。純文学とアートの領域での秘密と嘘の扱いの話」
頷きつつ聞いていたアキラだったけど、「俺はこれが面白い……」のところで頷きが強く、眼がギラギラする。
「分りました。そう言うことですね」
「まだプロットとか何もないんだけど、これで冊子に載せる長編を考えてみようと思う」
「楽しみにしています」
「じゃあ小説の打ち合わせはここまでで」
二人してコーヒーを啜る。俺は待ち切れなくてカップを持ったまま続ける。
「表紙、どうなった?」
「自信作です」
アキラは鞄からクリアファイルを出す。一度自分で確認してからくるりと反転させて、俺に渡す。
淡く青いフラミンゴが右下めに全体の大きさの約七割の背で、一羽だけ、勇壮に立ち誇っている。背景はグラデーションで優しいピンクから白へ縦に流れている。「Flamingo」の黒く太い文字、その下に見慣れた明朝体で目次が描かれている。そこには「俺らしい犬」「砂釣りの島」「手跡」と過去作の短編三つ、長編一つ。
これは、いい。
つい見入ってしまうけど、ちゃんと内容に眼が行くし、何より新しい何かがその中にある気配がムンムンする。「震源」がここにある。
俺は何度もその図案の上を眼で歩いて、その度に頷く。
「最高だ」
「自信作です」
アキラが悪戯っぽく繰り返したのを受けて、彼女の顔を見る。その笑みの内側に確かにある不安、意志の強い眼の奥に微かに光る恐れ、それは俺が小説を彼女に見せるときに携えるものと同じ色をしている。
「直すところは何もないよ。ここまでの魅力に手に取らない人は、その人が不感症だって言い切れる。そう言う出来栄えだよ」
アキラの中に何かが込み上げて破裂しそうになって、彼女はそれを押さえ込もうとして、でも完全には出来なかった、声が出る。
「嬉しい。本当に嬉しい。採用、ですね!?」
「採用」
club Flamingoに彼女の作品が残ることが決まった、これはプレゼンじゃないから、彼女の創作の第一歩でもある。アキラはそわそわとして、失礼します、と言って俺から図案の紙を取って、それを見て、ニヤニヤと笑って、クーッと極まって、また紙を見て、頷いたら、その紙を俺に返した。
「じゃあ、これで本番の表紙もいきます」
「そのためには小説がもっとないとね」
「もちろんそれが十分に溜まってから、営業は開始します。後、チラシのデザインなんですけど」
「チラシ」
「このデザインを応用するのがいいと思うんです。裏は白黒ですけど。理由は、やっぱり誘導するのに絵面のイメージが統一されている方が、行きやすいと思うからです」
チラシと冊子が別の絵の場合を想像する。それでも何とかは繋がりそう。でも、同じ絵ならもっと繋がる。絵は同じでいいだろう。だけど、もっと大事なものがある。
「アキラさん。チラシの名前もFlamingoにしよう」
「誘導のためですね。でも、全く同じじゃ混乱します」
「じゃあ、フライヤー版とかを付ければいいんじゃないかな」
「確かにそうですね。出張版的なニュアンスですね。それで行きましょう」
アキラと会う度に着実に前に進んでいく。
距離を置いている春子との関係が膠着しているのは、その距離のせいじゃない。俺達の関係はずっと固まったまま前にも後ろにも進むことが出来なくなっていた。毎日は思い出さないのに、アキラと会って別れた後に一人になると、その日の興奮の間隙を縫って、春子のことが思い出される。恋しくないし、不愉快だし、でも、帰り道に思い出す。それを振り払うように首を振って、次の小説に集中する。
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