第2話

 お気に入りの席、愛用のパソコン、嗜癖に近い彼のコーヒー、いつもの煙草。そこに書く動機と、それが自分の最高の人生の半分のパーツだと言う確信が加われば、俺は無敵だ。

 ピアニストがゾーンに入ったらこんな感じだろう、俺はタイプをしながら次の短編、暫くは短編でリハビリをする、の続きを書き始める。「百五十年」は人間が全員入れ替わるのに十分な時間を、二人の不死の人間が生きる話だ。一人は若い時代に持っていた人間関係が刃こぼれするように減じていくことを嘆くばかり、もう一人は新しい人間関係を作って行く。後者の方がよさそうに見えるけどそうばかりでもない。そして二人は再会する。

 正面を向いていたら二階への階段は視界に入る、女性が上って来たことに一瞬気を取られる。ショートカットが顎までの、かわいい、でも俺は小説の続きを書く。集中にもう一度沈むその直前。

「すいません」

 顔を上げるとその女性がテーブルの前に立っている。スーツだけど遊びのある装い。

 百パーセント俺を呼んだと自覚しながら、その呼び掛けが左右の誰かではないことを確認する。彼女のことは知らないし、知らない誰かに呼ばれる理由がない。

「俺? ですか?」

「はい」

 女性はきりりとした表情で、じっと俺を見詰める。

「何でしょう?」

「お会いするのは初めてです。私、『ポテチの森』です。『水玉ライオン』さん」

 空間がピリ、と固まる。名乗りで終わらない予感に、俺は書きかけの小説をセーブして、ノートパソコンを閉じる。今まで誰にもカケヨメのペンネームを、投稿先は別の名前で出していた、言ったことがない。しかも「ポテチの森」は俺を泣かせた張本人だ。

「ポテチの森さん、本当にそうなんですか? どうして俺が『水玉ライオン』と分かるのですか? どうやってここに来たんですか? 何故ここにいるのですか?」

「一つずつ説明します。……座ってもいいですか?」

 話を聞くなら、立たせたままは失礼な気がする、たとえ闖入者だとしても。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

「注文はしましたか?」

「いえ、まだ」

「ブレンドがお勧めです。是非」

 俺が階下に向かって合図をすると、若いバリスタが速やかに席まで来て、彼女はブレンドを頼んだ。

「では、説明させて貰います」

 彼女の声にはエネルギーがふんだんに乗っている。造形だけじゃない、生命力の煌めきが顔に浮かんでいる。

「私は『ポテチの森』ですが、本名は平沼ひらぬまアキラと言います。水玉ライオンさんの、ファンです。ずっと前からそうでした。でもあなたは急に書かなくなってしまいました。私は待ちました。ずっとずっと待ちました。そして三年の月日が流れて、ついにあなたは帰って来た」

「君が『ポテチの森』だってどうやって信じればいいんですか?」

「考えて来ました」

 彼女はスマホを出す。いいですか、と続ける。

「これから私が『銀メダル』にレビューを投稿します。文面はもう書いてあるので、まずそれを見て貰って、私が投稿した後に同じ文面が『ポテチの森』名義で表示されるかを確認して頂く。どうでしょう?」

「合理的だと思う。やりましょう」

 彼女が俺に見せた文面は「水玉ライオン、三年振りの新作が降臨。カケヨメの純文学の騎手が三年の沈黙を破り復活しました。私は待っていました。私も銀メダルはもう要りません。金メダルだけを獲りにいきます。この短編小説は私にとって人生の転換点を生み出してくれました。きっとあなたにとっても、得難い体験となります。是非読んでみて下さい」褒め過ぎだ。

「では、投稿します」

 これをする時点でもう確認するまでもないと思った、でも投稿した文が表示されると、確かに「ポテチの森」だ。彼女は俺の反応を静かに待っている。同時に俺がその投稿を確認して納得することは、俺が「水玉ライオン」であると認めることになる。それでも、彼女のしたことの結果を伝えたい。目の前に俺に力をくれた「ポテチの森」その人がいることに、胸が熱くなる。

「君は、『ポテチの森』さんだ。俺は『水玉ライオン』」

 俺の言葉に彼女が初めて笑う。嬉しそうにキラキラしている。

「よかったです。私のことはアキラと呼び捨てにして下さい」

「俺のことはどう呼ぶんですか?」

「ライオンさんです」

「じゃあポテチさんでしょう」

「それは、何となく炭水化物中毒者みたいで嫌です」

「じゃあ、森さん」

「私は森じゃありません。だから、アキラと呼んで下さい」

「アキラさん、で手を打ちましょう」

 会いたいと思ったことはなかったのに、いざ会うと、一番会いたかった人なのだと分かって、こころが、まだ彼女のことは殆ど知らないのに、踊ろうとし始める。アキラさん、と呼ぶことに明日を感じる。でもそれを気取られないように厳かな顔をしようとするけど、頬が緩む。

 頷いた彼女の動きに連動してイヤリングがキラリと揺れる。

「次に、どうやってここに来たか、ですけど、怒らないで下さいね」

「怒れと言っていますね」

「じゃあ、怒って下さい。新たに投稿があったことで、その投稿を元にハッキングして、その情報を元に探偵に調べさせて、その結果を元に待ち伏せをして、タイミングを測って今日声を掛けました」

「それって犯罪じゃないの?」

 俺は笑う。既に許している。怒ってもいい内容だけど、そこまでして来てくれたことに嬉しさがある。胸の裏側を優しく掻きむしるような。

「ハッキング以外はグレーです」

「黒と灰色だけのジャーニーってなかなかないですよ!?」

「それでもここに来なくちゃならなかったんです。ちなみにハッキングは友人にやって貰いました」

 えへ、と頭を掻いて弱々しく笑う。反省する気はありません。でも俺も叩く気はない。きっと俺の内面に起きていることがもう伝わっているから、彼女はふわりとしていられる。

「来た方法はわかりました。じゃあ、理由は、何なんですか?」

 少しく打ち解けそうだった間合いから、アキラは居住まいを正す。俺の眼をじっと見て、まるで眼からこころがやり取りされるかのよう。大事な話が来る、俺も身構える。アキラがゆっくり息を吸い込む。

「ずっとあなたを待っていた」

 三年間待たせた。だけどそれがここに来る理由にはならないだろう。俺が眼で頷くと、アキラは続ける。

「ライオンさん、あなただけが純文学をアートとして練り上げています。私はあなたの作品を世に出したい。あなたの文学は、もっと人に読まれるべきです」

 世に出し損ねて蹲り続けた。逃げた三年間だって、彼女に言うべきなのだろうか。彼女の視線が強まる。

「この三年間がどうして空白なのかは、話したくなったら話して下さい。でも私がしたいのは過去のことじゃないんです」

 逡巡が伝わっていた。誤魔化し笑いが出そうになるのを押し込めて、俺も彼女に、彼女の言葉に意識を集中する。

「過去じゃない」

「そうです。私は未来を一緒にやりたいんです」

 未来。俺の未来。俺の小説の未来。休眠から覚めて俺は今書くことだけを考えていた、いや、それとも三年前と同じ未来が来る予見から目を逸らしていた? 彼女とやる未来、それは俺が一人で迎えるそれとは違うものなのだろうか。一人では切り拓けない場所なのだろうか。

「どんな未来ですか?」

 彼女はゆっくり深く頷く。バリスタが何も言わずにコーヒーをテーブルに置く。

「小説を世に出す方法は大きく分けて二つあります。新人賞を獲ることと、web小説から書籍化などをする方法です」

「そうですね」

「新人賞を獲るのは下読みと編集者に気に入られるかどうかであって、彼等が純文学のアートとしての価値を見る能力がないのは明白です」

「そうなの? それは言い過ぎじゃないの?」

「いえ。これは断言出来ます。彼等は商売として本を出しているんです。アート的価値を判定するのは業務外なんです。そもそもアートが多数の受け手に対しておしなべて響く筈がないことはライオンさんがよく分かっていると思います。多くの受け手を想定出来ないものはビジネスとして成立し辛いです」

「し辛い。それはしない、ではなく?」

「単価を上げればビジネスになります。でも、現在は文字列は廉価です。どんな名著でも一冊数千円までですよね。文学を単価高くは、受け入れられないでしょう」

「なるほど」

 アキラはもう一度頷く。

「よって、新人賞ルートでアートの純文学を出すのは絶望的です。次にweb小説ですけど、こっちはもう少し可能性はあるかと思いきや、大きな壁があります。これもユーザーの数の問題です。ラノベが書籍化しやすいのはユーザーが多く、ビジネスになるからです。純文学はユーザーが少ない上に、さらにアートをすると少なくて、響く人はさらに少ない。ライオンさんの作風は、次から次に変化します。その根っ子にあるアートに惹かれるのでない人は、その作風の変遷でファンになったり離れたりします。つまり、ライオンさんがweb小説からメジャーになることはほぼ無理です」

「うん。そっちは自覚している」

「だから」

 アキラは両手をバッと構える。振動でコーヒーの表面が波打つ。

「だから?」

「第三の方法で、ライオンさんの小説を広めるんです」

 第三の。あるのか。考えたこともなかった。ネットではメジャーになるのは不可能だと判断して、投稿に切り替えたのだ。そしてそれで全滅した。俺はそこでもう行き止まりだと膝を抱えた。でも。

「第三の方法が、あるんですね」

「あります。考えて来ました」

 アキラの眼は自信に溢れている。同じくらいの情熱に燃えている。それは、と続ける。

「現実の中で読者を増やして行き、興味のある人をカケヨメに誘導する、と言う戦略です。読者は増えます。お金持ちにはなれませんが」

 対価を求めている訳じゃないからお金はいい。読んで貰って、こころが動いてくれたら、それがいい。

「具体的にどうするかを訊かせて欲しい」

「まず、フリーペーパーと同人誌を作ります。もちろんライオンさんだけの内容です。それを、ここのような喫茶店とかバーとかの、空間の中で時間を楽しむ店に置きます」

「どうして二種類なんです?」

「フリーペーパーで広く浅く、そこから同人誌に引っ張って来るイメージです」

「そこからカケヨメに誘導するのは?」

「いつでもそこに行けば水玉ライオンに会えると言う場所を示すためです」

 なるほど。絵は描けているようだ。アキラの面構えがさっきよりもずっとよくなっている。

「それで全部ですか?」

「他にもイベントをしたり、考えはありますが、中心は同人誌活動になります」

「それを順次やっていくとして、お金と労力はどうやって確保するんですか?」

 アキラは小さく息を吸って吐く。でも、夢の生々しい部分を語るのに抵抗を感じているのではなくて、俺が踏み込んで来たことに胸を躍らせて、その跳ねるものを落ち着かせるための呼吸のよう。

「労力はほぼ私がやります。でも、著者が立ち会った方がいいところはライオンさんにも来て貰います。お金は私が出します。これは私のやりたいことだからです。でも、その代わりに同人誌の売り上げは私が貰います。予測では赤字になる筈ですが、万が一黒字になったらライオンさんと折半します。どうでしょう?」

「俺は、書くのと、ちょっとだけ立ち会うだけですか」

「創作はそうあるべきです。お金のことについては創ることと切り離す方がいいと思うんです。だから、専業小説家と言うのは、雑味が入ってしまうと思うんです。理想的には私がパトロンになれればいいんですけど、そこまで経済的に余裕はありません」

 今にも答えを欲しそうなアキラだけど、俺も面白そうと思ってしまっているけど、ちょっと考えた方がいい。

 俺は残っていたコーヒーを啜って、アキラにも飲むように勧める。

 俺にとってはこの上ない美味い話だ。頼まれなくたって小説は書くし、読者が増えるために多少の努力をすることに異論はない。話自体は即決で乗っていい内容だけど何か引っ掛かる。

 もう一度アキラの顔を見る。彼女はじっと待っている。

 そうだ。何を話されたかは問題なくても、誰が話したかが問題だ。俺はまだ彼女を信頼していいのか判断出来ない。

「アキラさん、ファンだと言うだけではそこまでのことをするのが納得出来ません。君の若い時間をどっさり賭けるってことですから。多分金儲けの方が目的が簡単だから人と組み易いのかも知れないですね。何か他に目的とか理由とかが、ありませんか?」

 アキラはすうっと口角を上げる。獲物が手強かったときに悦ぶ戦士のよう。

「ライオンさんは、小説が人生を変えると思いますか?」

「当然」

 アキラは頷く。

「私の人生は、ライオンさんの小説がなかったら、とっくに終わっているんです」

「終わっている」

「五年前、親友と恋人が心中しました。遺書を読みながら、二人ともに裏切られた怒りと、最も大事な二人を喪った悲しみと、何も気付けなかった自分の愚かさへの悔やみが一気にやって来て、こころが真空に放り出されたみたいにバラバラになりました」

 俺は眼で続きを促す。職業上悲惨な話は聞き慣れている。でもそれはいいことだと思っている。表面上の同情とか憐憫とかが一切なくなって、事実を、それはその人の感情を含む、聞いて、語り手のこころの動きを捉えることが出来るから。その結果いい加減な言葉を掛けるリスクが減るから。

「それで、悩んで、日が経つ毎に落ち込んでいって、ついに死のうと思って通販で『首吊りセット』を買いました。あの世で二人に文句を言うとかじゃないです。なのに、もう死ぬしかないと思ったんです」

「『首吊りセット』って?」

「耐荷重の大きなフックとボルトとネジ巻き、丈夫なロープのセットです」

 自殺を考えるときに、既遂になるリスクを最もよく分けるのが、具体的な準備をしたかどうかだ。彼女の希死念慮はそのレベル、危険なレベルにあった。アキラが続ける。

「フックを設置して、あとは吊るだけとして、思い残すことを考えたときに、水玉ライオンさんの新作が出ていたらそれだけは読んでから死のうと思ったんです」

 そこまで深く愛してくれていたんだ。

「そっか」

「果たして新作が出ていました。『勝手に幸せ』、覚えていますか?」

「覚えています」

「私は泣きながら読みました。本当にもう一行目から涙が出たんです。人生において別れた人達のその後は、それぞれ勝手に幸せになっている。そう言う主張の短編でした。勝手に、と言うのが刺さるんです。私の力の及ばないところで幸せになったり、多分不幸にもなったり、でもそれはもう私と関係がないんです。その話が、死して別れた二人と関係なく、勝手に私が幸せになっていい、と言うメッセージに聞こえたんです。だから、こんなところで死んじゃダメだよ、って主人公に言われているみたいでした。その後は、もう死ぬことは考えずに、就職して働いています」

 アキラはしんとしてゆっくり瞬きをする。彼女の救いの話なのに、すごく痛い。心臓を掻きむしられて、ぎゅっと握られる。「勝手に幸せ」を読む前のアキラを今見ている。目の前に座っている彼女に、極期の彼女を見ている。何か声を掛けたい。でも俺は彼女とまだ関係がない。いや、もういいだろ? 彼女への橋を渡してもいい、違う、その架け橋を今すぐに渡したい。警戒する段階はもう終わっている。彼女からばかりじゃない、俺から、手を。

「それは」

 言葉が続かない。アキラは俺の眼を見る。

 絞り出す。

「しんどい」

 アキラの眼がほんの少し陰る。その日に戻ったように。

 俺は決めたのだ。踏み込むと決めたのだ。首を振って、続きを。

「でも、きっかけは小説だったとしても、今日までがんばったんだと思います」

 アキラの顔がキュウッと絞れて、虚空を見詰める眼に、小さな雫が光る。

 その粒が大きくなって、つ、と流れる。

 流れて初めて気付いたようにアキラが眼を瞬かせる。

「あ」

 アキラはバッグから青いハンカチを出して眼を頬を押し拭く。俺は彼女の仕草を見ている。彼女が吐き出した彼女の大切なことが、俺に手を延べさせた。アキラがその手を掴むなら、俺は彼女と彼女の描く未来へ行くかも知れない。

 アキラは微かに乱れかけた呼吸を整えるように眼を瞑ってから、開く、それは優しい。

「だからそのときに、ライオンさんの小説の影響の強さを知ったんです。死ぬのをやめてからも、新作が出る度に飛びついて読みました。私を動かした力はアートだと確信しました。三年の間に、もしまたライオンさんが小説を書くのなら、私のような誰かに届けることをしたいと考えるようになりました。正直に言うと、別の小説家をその対象にしようと考えたりもしましたが、ライオンさんに比肩する人はwebでも書店でも見付けられなかった。だから待って、ついにあなたが復活したあの日、私はすぐに行動に移したんです」

「それで今日、ここにいる」

 アキラは頷き、朝陽のように笑う。

「私は他の私を助けたいと言う気持ちがある。でも、それが中心ではないです。ライオンさんの小説をより多くの人に届けたいのは、私のエゴです。私が最高のアートであると知っているものを広めたい。単なるわがままかも知れないことに、ライオンさんを巻き込もうとしている。……ライオンさん」

「はい」

「私はもう泣いていません」

「いや、その涙が乾くにはもう一歩必要です」

「もう一歩」

「君が描く未来に向かうこと。達成出来るかは問題じゃない。君が、その未来をするかだ」

 キュッとアキラの表情がさらに引き締まる。それは供養ではないけど、過去にある重石が未来への力とバランスを取ることで、消滅はしないけれど、収まる。眼を向けずにいても存在する枷からそうすれば外れることが出来る。

 アキラが一回大きな瞬きをして、また俺の眼を深く見据える。もうそこには言葉が通るルートが確立されている。

「私の未来には、ライオンさん、あなたが必要です」

 アキラの声が言葉が俺の芯まで染み込んでゆくのを感じる。彼女は俺の手を、掴んだ。俺も人生の一部を預けてみてもいいのかも知れない。だけど。

「君は真摯だと思います。だから、俺も素直な気持ちを言います」

 アキラは視線を逸らさずに頷く。吐き出した大切の代わりに何が吹き込まれるのか身構えているように見える。

「情緒は、感情は納得しています。未来を描く一助になりたいなとも思います。でも、理性が通せんぼをするんです。俺が今知ったのは君のこころのことだけです。果たして、描いているようなことを実現する実力があるのかが、全く分かりません」

 アキラは怯まない。気の入った表情。

「確かに、それは一切示していませんね」

「何か、経験があったり、力を認める理由になるようなものはありますか?」

「営業に関しては仕事でやっているので、それが経験とは言えます。でも出版社ではないです。ただ、コンテンツを作る会社なのである程度はノウハウがあります。営業成績は六ヶ月連続で一位です。支店内ですが」

「大きい会社なんですか?」

「『heal for heel』って中堅くらいのIT系のコンテンツ会社です。知っていますか?」

 知っている。と言うよりそこのコンテンツを何回も視聴している。中堅どころじゃない、大手だ。それともITでは大手はgoogleレベルじゃないとそう言わないのか? 謙遜ではないように思うし、謙遜すべき場面でもない。関係者にとってのサイズ感と外から見たそれはズレる、そう言うことか。

「知っています」

「私の仕事の遂行能力を示す材料はそれしかありません。同人誌を編集することについては、考えて来ました」

 アキラは鞄からフォルダを取り出し、そこからA4の紙とA3の冊子をテーブルに並べる。

「サンプルを作って来ました。チラシと冊子です。全部ライオンさんの小説で作りました」

 チラシを手に取って、両手で持つ。大きな見出しが三行に渡って主張している。

『純文学の新鋭、水玉ライオンの小説をあなたも読んでみませんか?』

 その下に、「勝手に幸せ」が冒頭から縦書き二段組で記されている。左下に到達すると「続きは裏面に!」と矢印があり、捲れば右上から三段組で小説の続きが、了まで。その下のスペースに「水玉ライオンの小説をさらに読みたい方は店内設置の冊子かカケヨメ内のページまでどうぞ!」、リンクと二次元バーコードが表示してある。加えて、連絡先として平沼アキラを窓口としたものが併記されている。

 自分の小説が活字になって紙に載るのは初めてだ。ゾクゾクするような嬉しさが、こそばゆくて顔を緩めてしまいそうなそれが込み上がって来る。

 冊子。

 表紙に優しい木の絵が載っていて、それを捲るとこれまでに発表した短編六つと、長編が一つ、と目次にある。どれも俺が書いたものだ。パラパラとページを繰ると、そこに活字の俺の小説、溜め息が出る。

 アキラが静かに見守っていたことに、一通りの検分を終えるまで気付かなかった。冊子の最後にもチラシと同じカケヨメへの誘導が書かれている。

 顔を上げてアキラを認めて、もう一度冊子を見て、また彼女を見る。

「すごい」

 アキラはニコッと微笑む。だけどその笑みには緊張が薄く張り付いている。

「これの小説の部分を新しいものに変えた版を、実際には設置します。私の持てる力は全てここに注ぎ込みました。これで実力が判断出来ないのであれば、試しに一回一緒にやってみて頂くしかもう後はないと思います」

「これが街中の店に並ぶんですよね」

「主に喫茶店です」

「すごくいい。でも、冊子の方は表紙に目次を入れた方がいいと思います。あと、絵も工夫した方がいいんじゃないかな」

「なるほど」

 アキラは素早くノートを広げてそこにメモを取る。

「字の大きさも少し大きめの方がいいと思います。老眼世代にも読まれるためには」

「気付きませんでした」

「これは流石に変える予定だと思いますけど、冊子のタイトルが『水玉ライオン読本』なのは微妙だと思います」

「はい。タイトルはライオンさんと相談して決めたいと思っていました。チラシの方も同じです」

「置く場所だけど、駅はどうかな?」

「今後のイベントとして、駅のポスター広告のところに小説を載せると言うプランはあります」

 次は何でしょう、の視線で俺を見る彼女の醸し出すものが、彼女が優秀であることへの疑いを調伏させる。いや、彼女の持って来たもの、その準備のよさ、完成品の精度、それから発生したものへの態度と行動、それらが波状に俺を打ち据えて、俺はもう彼女の力を納得している。何より、自分の書いたものが活字になって目の前にあり、それが街中に散布される、それは夢だ、彼女に魅させられている夢に、こころの疼きが抑えられない。

「アキラさん」

 俺のトーンの変化に彼女が聞く姿勢に直る。

「はい」

「君が具体的に俺に魅せている夢はあまりに甘美です。しかもそれが君の力で現実になると言う。ここにあるチラシと冊子こそが君の実力の半分で、俺を今落としそうな営業力がもう半分でしょう。つまり、君は俺に君の実力を体験させたんです」

 アキラはぎゅっと口を引き結んで小さく頷く。俺は続ける。

「もう一度、俺を誘って下さい」

 その口の端が解けて、まなじりが緩む。一度眼を閉じてその弛緩を全て払って、アキラは俺の瞳を貫くように見詰める。

「私の未来には、ライオンさん、あなたが必要です」

 俺はさっきよりもずっとその言葉を自分の底の方まで連れて行って、咀嚼する。

「私達の、俺達の、未来です。それはもう君だけの夢じゃない。俺の夢にもなったんです。だから、一緒にやりましょう」

 アキラは大輪の花が咲いて、太陽の全てを受け止めたみたいに、笑う。両手を握り締めて、小さくわななかせて、音にならない声を全身から飛ばして、目をギュッと瞑ったかと思えば大きくみはったりする。

「嬉しい」

 彼女の満面の笑みに引っ張られるように俺も笑って、彼女が喜びにまみれる姿を見ていたら、これから始まるんだ、今までと不連続な未来が、新しい夢が、始まるんだ。俺にまで光が射して来たように感じる。

 アキラはでもすぐに落ち着いて、それでですね、と始める。

「チラシは二週間に一回新しいのに変えたいんです。つまり、新作の短編が二週間に一本必要になります。冊子の方も書き下ろして欲しいので、分量は今と同じで短編六本、長編一本、これを半年に一回出す予定です。初回は旧作を載せようと思います。それで、カケヨメにアップするのはチラシを回収したタイミングでそのチラシに載っているものをアップ、冊子も交換した時点でアップする、と言う風に考えています」

 貫通しそうな勢いに後退りしそうなのを堪える。

「それをいつから始めるんです?」

「営業を開始する時点では用意出来ていないといけないので、十分なストックが出来た時点で営業を開始する、と言う形です。ライオンさん、どれくらい準備に時間が必要ですか?」

「今の俺のペースだと短編が週に一から二本。長編は書いていません。これまでは、長編を書いている間はたまに浮気して書くことはあっても短編は止まりました。長編は大体一、二ヶ月くらい書き続けます。でもこれはブランク前のもので、今同じペースかは何とも言えません」

 メモするアキラ。

「ブランク前は短編のペースはどれくらいでしたか?」

「週に三、四本ですね」

「じゃあ、長編のスピードもそれくらい落ちると考えましょう。連載はどうでしょう?」

「やったことないです。必ず書き上げてからアップしていました。でも、やってみてもいいと思います」

「例えば、冊子の方ですけど、短編六本と連載にして、中長編が出来たときには短編を少し減らして、入れる、もしくは長編は単行本にしてしまう、と言うのはどうでしょう」

 うーんと俺は天井を向く。それはそれでハードスケジュールなような気もするけど、最初に準備しておけばそんなに悲惨なことにはならなそうでもある。

「それだったら、一ヶ月準備期間を貰えれば、短編はかなりストックが出来るし、連載の準備も出来そうです。短編は書き溜めて、十分になったら中長編をする、ってのでいける気がします」

「分かりました。じゃあ、一ヶ月後を締め切りとして、その時点で出来ている作品でチラシと冊子を作りましょう」

 俺も手帳にその旨を記す。とにかく短編をまず書いて、連載のアイデアを並行して煮詰めて、四週間後の時点で連載は第二回まで書いておく。短編はなるべく多く作って、冊子にも旧作を載せない勢いで行きたい。

 アキラが、あ、と気付く。

「冊子に載せる短編、もしストックがたくさんあったら新作をと思ったのですけど、企画として敢えて旧作を幾つか載せるのはありですね。ポテチの森が選ぶ傑作選、みたいな」

「それもいいですね。でも、ポテチの森でやるんですか? サンプルでは本名だったけど」

「確かに。……責任者的な何かなので、本名がいいかも知れないですね。でも、本名は出したくないんですよね」

「じゃあ、ハンドルネームっぽくない別の名前を付けたらどうでしょう」

「でもそれだったら、平沼アキラに愛着があります。やっぱりこれでいきます。プロフィール欄には水玉ライオンの世界一のファンって書きます」

 微笑みが二人を通じる。

「どこら辺に置くんですか?」

「湯島、御徒町、本郷の範囲で考えています」

「狭くないですか?」

「限られたエリアでのローカルな活動の方がいいんです。新宿と池袋に置いても連続的には読まれません。それよりは結構どの店に行っても続きがあるぞ的な方がいいと思うんです。あと、ブランディングとしてその街じゃなきゃ読めない文学と言う形にしたいんです。上手くいけばそれが引き金になってSNSへの投稿とかで宣伝になります」

 とことん考え抜かれている。俺のすることは本当に書くことばかりだ。

「どの作品を載せるかは一緒に考えませんか? あと、冊子のタイトルと絵も」

「私としてもそれがいいと思います。それは最高に楽しい時間だと思います」

 アキラはキャッとした表情を浮かべる。打ち合わせの頻度を二週間に決め、次回の日取りを決め、場所をこことして、俺がすることは書くこと、彼女がすることは営業先を決めること、と確認をした。連絡先を交換する。

「あと一つ、同年代だと思うから、タメ語で話しませんか?」

「そうですね。そうしましょう」

 残っていたコーヒーを飲み干して、俺達は一緒に店を出た。夜道に右と左に分かれて歩き出したその瞬間から俺は次の短編の構想を練り始めていた。

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