club Flamingo

真花

第1話

 立ち尽くす俺に気付いた春子はるこが戻って来て、俺とその視線の先を見比べる。書店に入るときに置いてきた今年最初の蝉の声が、次の客が開けたドアから逃げる冷気と引き換えに二人の間に響く。春子が煩わしそうにしたのは蝉の命の問題じゃない。

『カケヨメからついに純文学の新星登場。間白金はざまはっきん著「四角は丸い」』

 ポップが平積みの書籍にぴょんと針金で立っている。

晴一せいいち、向こう行くよ」

「俺はこれが気になる」

 春子は俺の腕を掴んで、引っ張ろうとするけど、俺は踏ん張る、がんばる。

「もう昔のことじゃない。ダメよ。そっちを向いちゃダメ」

 彼女の声にざらっとしたものが混じっている。

「俺の勝手だろ? 別に戻るつもりはないし、今の生活をやってくし」

「だとしてもダメ」

「何でだよ? ちゃんと卒業して働いているだろ? 何を読んだっていいだろ?」

 春子は俺の腕を離して、両手で俺の頬を挟み、無理矢理彼女の方を向かせる。

「私が言っているのはそう言うことじゃない。あなたの人生の問題なの」

「俺が今言ったのはそのまま人生の問題じゃないか。読む本で人生が変わるのか? あ、変わるか」

「変わるでしょ」

「だとしてもだ、俺は俺の読みたい本を読む。それでいいだろ?」

 春子の中に急激に何かが蓄積されて、破裂する。

「いい加減にしなさい!」

 爆発した声が書店中に轟いて、俺は女に顔を挟まれて捻られた状態を袖触れ合う程度の多数の誰かに注目されて、きっと哀れがられている。至近距離の俺の耳がジージー言っているのは蝉のせいじゃない。わざわざ春子の目の前で買わなくても本は逃げないから明日来ればいいだけなのだけど、それはそうなんだけど、春子の言いなりになるのは嫌だ。

「うるさい。俺は俺の買いたい本を買う」

「晴一が見ているのは本じゃなくてポップでしょ?」

「ポップ見て本選んで何か悪いか」

「今だけは悪いわ。……ねえ、本当にもうやめてよ。帰って二人の未来について話し合おうよ」

「そんな未来いらねーよ。俺が欲しいのはこの本だ」

 さーっと春子の血の気が引いて、出来たうろに次の血が、沸騰した血が彼女の顔を真っ赤に染める。頭突きでも来るか? 膝蹴りか? 食らってやるわ。

「本気で、言っているの?」

「俺はいつだって本気だよ」

 言いながら打撃に備えて体を硬くするから、声も硬い。

 でも痛みは来ない。

 代わりに春子は俺の額に口づけた、俺の頭を持ったまま。

 何だ、それ?

 ゆっくりと離れた春子の眼に涙が浮かんでいて、俺は何一つ間違ったことをしていない自信があったのに、もしかしたら悪いことをしたのかも知れない、頭に過った考えがそのまま自分の胸に刺さって、鈍い痛みになる。

「どんな晴一だって大好き。だけど、この本だけはダメ。晴一がちゃんと生きるためには踏み外しちゃいけないんだよ」

 言いながら涙を溢れさせて、周囲の視線が俺を悪者みたいに扱っている、いや、俺は悪者として非難を受け始めている。このままだとその非難が視線だけで済まなくなる。言いなりになるのは癪だ、けど、それよりもこの場を収めないといけない。俺はもう子供じゃない、二十八歳の大人だ、パブリックでの限界を超えてはならない。見え透いた泣き落としなのに、だけど、これ以上は。春子のために俺が殺した俺は何人目だろう。

「わかったよ。買わない」

 春子は大仰に涙を拭いて、にっこりと笑う。それは幽霊よりも白々しくて、喩えられる花が見当たらない。不法投棄と言われようと、別れた方がいい、そう思っているのにズルズルと今日まで付き合って、その結果がこれだ。

「でもさ」

 俺が続ける。

「いつから結婚のことしか考えなくなったの?」

 張り付いていた笑顔が虚構から憤怒に色を変える。

「私何かおかしいこと言っているかな? この年の女の子が結婚のこと考えなかったらむしろ異常じゃないかな」

「それは言い過ぎだろ。結婚考えない人はゴマンといるよ」

「私にとってはそれが普通なの!」

「それは春子の普通であって、みんなの普通じゃないよ。さっきその本を買わせなかったのも、結婚するためなんじゃないのか? それって俺の人生のためとか言いながら、自分のいいように俺をコントロールしているだけじゃないのか?」

 言葉のボディーブローが極まったときの三兆、見開いた眼、食い縛った口、絶句。まさに今の春子だ。ずっと思っていた、しかし噤んでいた、ついに話すのが、こんな場所だとは思わなかった。

 春子は俺を睨み付ける。

 俺は全霊で睨み返す。

「だったら何? 私は結婚したい」

「俺はこの本が読みたい」

「じゃあ、その本を読ませたら結婚してくれるの?」

「それとこれとは別だ」

 春子は右手を大きく振りかぶる。あ、来る。

 パァン。

「付き合い切れない。私帰る」

 集めた視線を一斉に背負いながら、春子はドアの外の初夏に消える。ショーは終わり、客は本を物色し始める。俺は最初と同じ場所に立ったまま、もう一度ポップを見る。

「カケヨメから純文学で本が出た、か」

 今ならこの本を買える、春子にはバレない、でも手に取れない。視線はポップと表紙をうろうろして、胸の内も同じように落ち着きなく、その動いた分が溜め息になる。

「もしかしたら」

 言いかけてやめる。俺の空白に何を入れるべきなのか、俺にはそれが春子との結婚だとはとても思えない。

 ドアが何回も開いて、人が入ったり出たり、俺の脇を通過してゆく。「四角は丸い」の前の俺は流れの中にぽつんと立つ石のよう。その場所から、それでも、中を見てみなければ何も言えないと思って右手を伸ばす。

 本に手が接近する、鼓動が焦り始める。春子に躾けられるまでもなかった、触れられない。手を引っ込める。

「お、これツイッターで宣伝していた奴じゃん」

 独り言ちながら学生風の若い男がひょいと「四角は丸い」を手に取って通り抜けてゆく。

 淀みない足取り、その背中が消えるまで目で追う。

 積まれた本を見て、男の跡をもう一度見る。

 大きく息を吸ったら、また本をじっと見る。掌が小刻みに震えている。

 ダメだ。

 これは敗北じゃない。諦めでもない。だけど。

「少なくとも今じゃない」

 視線を切ってドアの方を向くと左頬が痛いことを思い出す、俺はその向こうの夏に出る。


 御茶ノ水の駅から聖橋を歩く。でも意識はずっと「四角は丸い」の棚にあって、そこからゴム紐を引っ張るように後ろに引力を感じながら、一歩一歩を踏み締めるように進む。この汗は夏のせいじゃない。引き戻そうとする力に息が詰まって、渡り切った脇にあるベンチに座る。呼吸を整えよう、吸って、吐いて、ゆっくりと繰り返す。吸気に呼気に意識を、でも、あの本は傑作なのか。カケヨメから純文学の単行本が出ることは以前では考えられない。

「三年」

 左手の指を三本立てる。一年、二年、三年と一本ずつ数える。

「国試に受かって、研修医を終わらせて、人生が動くのには十分な時間。離れたものが別のものになるのにも、十分な時間」

 吐き出した言葉に胸の中が空っぽになって、体中に蓄えられた「四角は丸い」へのあらゆる感情が勢いよく染み出して、沈澱して、その重さに俺は俯く。あの本。あの本が。

「あの本が」

 呟きが眼前に浮いたら、消えない。

「あ、真山まやま先生!」

 弾んだ声。その声に聞き覚えがあることよりも「先生」と呼ばれたことに、咄嗟に普通の表情を作ってから顔を上げる。

村野むらのさん、こんにちは」

「先生は休日も御茶ノ水にいるんですね」

 満面の笑顔の彼女とは昨日も会っている、診察室で。

「ちょっと用事がありまして」

「でも、先生今、打ちのめされたボクサーみたいになっていましたよ?」

「そんなでしたか」

 大きな目をくりくりと、俺の眼を覗き込んで、彼女は両手をぐーんと広げる。

「こんくらいの岩を背負っているみたいでした」

 俺は彼女の左手から右手までを眼で測ってもう一度彼女の顔を見る。

「実はそうなんですよ」

「それが何かは、言えないでしょうから訊きませんけど……」

 彼女はもう一度じっと俺の眼を見る、必要なのかを見定めるように。

「先生、以前先生が言ってくれたことを思い出したので、言います」

 俺は頷いて、彼女の言葉を待つ。診察の度に色々なことを伝えているので彼女が想起しているものの見当がつかない。

「何かがのしかかって来たときは二つの方策があります。向き合うか、逃げるかです。大事なのはそのどちらかをちゃんと選ぶことです。選べば、間違っていたときに方向転換もしやすい」

 捉えた途端に彼女が渡すから、引き継ぐ。

「だからまずちゃんと選ぶために、ちょっと向き合いましょう」

「その通りです」

「いい言葉ですね」

 彼女はにっこりと笑う。

「先生の言葉です。ブーメランです」

「ブーメランは胸に刺さりました」

 俺はちょっと頬が緩くなる、彼女との世界を泳いでいる。

「先生は名医ですよ。でもね、名医ほど自分のことを後回しにするって言うじゃないですか。私のために先生は元気でいて貰わないといけないんです」

 私のため。俺は笑う。

「そうなるように努力します。なんか、気が楽になりました。今日は村野さんが私の主治医ですね」

 彼女はキュンと嬉しそうに笑う。

「よかったです。じゃ、また。失礼します」

「失礼します」

 村野さんは駅の方に歩いてゆく。俺はそれを目で送る。

「ちょっと向き合いましょう」

 今の俺がそれよりも手前にいることは分かる。

 彼女が置いていったのは俺の言葉じゃなくて、小さな暖かい種だ。

 それが胸の底に芽を出して、もう咲いている。この花の名前は勇気だ。

 口を引き結んで、大きく深呼吸する。

「やるしかない」

 村野さんが歩いた道を辿って、再び駅前の本屋の前。ぐっと腹に力を入れてドアを潜る。本は逃げずに平積みにされている。ポップの角度も変わっていない。

「四角は丸い」を手に取る。震えている自分の手はしかし、本の重みを確と伝える。唇を噛み、息を詰めて表紙を捲る。間白金の名前は知っている。タイトルが中表紙に記されている、「四角は丸い」「錬金術屋」「ツチブタ」の中編三本で組まれている。

 表題作の「四角は丸い」が最初に載っているから、そのままページを繰る。


『右脚の膝から下を切り落とし、標本にして、スライスしたものがその展示の左側に並んでいる。

 各スライスは透明版に挟まれて立ち、等間隔に並べられており、観覧者はスライスとスライスの間を歩くことが出来る。彼等が標本と相対するのを私は展示の右側から見ている。

 展示の説明には、私も展示の一部であることしか書いていない。

 私の右脚は義足だ。

 展示の脚の長さと、私の義足の長さがぴったりと一致することに、私が展示物としてそこにいることの意味に想いを馳せた観覧者ならば気付くだろう。そこに気付かないなら、そもそもこの作品を享受する資格がない。

 標本の元になっている生き物が人間がここに生きて、もう片方の脚を生やし、わざわざ切った脚に義足を履いている。そこに眼を向けて欲しいが、私はそれ以上のヒントを出すことはしない。自ら到達した者だけが、命あるものを集め標本とすること、生と死が歪に交わることに、身を捩るだろう。


 少年が闇を飲み込んだような顔をして近付いて来た。

「あれは」

 少年の声は震えている――』


 最後まで一気に読む。どこまでもエスカレートしてゆく標本化よりも、そこに張り付いている男の虚栄心、最初はアートの筈だったものが、パフォーマンスの色を帯び、徐々に本人がやめられなくなり、追い詰められてゆく様が、重たい筆致で描き切られていた。人間と人体と言う対比の残酷さ。

「いい作品だ。でも」

 俺は本を閉じる。両手で本を構えたまま今一度表紙を睨み、天を仰ぐ。

 ちょっと向き合いましょう。

 まだほんのちょっとだ。三年前に逃げると決めた。人生を進めるのには必要ないと眼を逸らし続けた。でも今はもう少しだけ、向き合いたい。その先に何があるかなんて分からない。でも、もう少しだけ。

 会計に向かう。続きは然るべき場所で読もう。

「でも、俺なら、もっと」

 震えは止まっていた。


 湯島の向こう側まで歩く、「喫茶ジュア」の前の花壇を一瞥して店内に入ると、馴染みのバリスタがカウンターの中で洗い物をしていた。

「いらっしゃいませ」

「ブレンドお願いします」

 俺はその足で二階に上る。お気に入りの席が空いていたからラッキーとこころの中で呟いて座る。ガラスから階下の様子が見えて、さっきのバリスタが俺のためにコーヒーを用意し始める。彼の淹れるコーヒーは別格の透明感で、煙草がゆっくり吸えること以上に彼の一杯が飲めることがこの店に通い詰める原因だ。ほぼ毎日、仕事が終わればここでコーヒーを一杯貰って、それから家路に就く。他の人のコーヒーもなかなかだけど、彼は違う。彼の仕事を享受出来ることを確認したら、煙草に火を付ける。

 鞄から「四角は丸い」を出す。

 二つ目の「錬金術屋」を読み始めてすぐにコーヒーがやって来て、それを啜る。

 三つ目の「ツチブタ」を読み終える頃には陽が傾いていた。

 三作品の中では「四角は丸い」が一番いい。この内容で、カケヨメは書籍化をしたのだ。もしくは、どこかの出版社が書籍化の話を持って来た。間白金は俺のフォロアーであり、俺は彼のフォロアーだった。エンターテイメントが主勢力であるカケヨメの中でお互いにやっと見付けた、同じ志の仲間だった。

「俺達は純文学を、いや、アートをしようとしていた」

 胸の底に押し込めていた箱が、荘厳に開くのが分かる。春子が危機感を募らせたのは間違っていなかった。

「もし俺も続けていたら、書店に並んだのは俺だったかも知れない」

 皮算用なのは分かっている。運だってあるし、間白金は自分で売り込んだのかも知れない。そう言う不確定要素の全てを足したものを認識してもなお、俺だったかもと思う。思えてしまう。

「じゃあ」

 結論は出ているのに言葉にすることに酷い抵抗が生まれて、う、と詰まる。その抗いの表面は春子だけど、深部の正体は自分だと、ずっと分かっている。俺は春子に俺が挫折したままでいることを負わせて、引き換えに俺は彼女の彼氏で居続けた。でも分かっているんだ。春子に見せかけていても、この停滞の本丸は俺の意志だって。

「ちょっとのもう一歩先の、向き合うに、入っている。間白金の本は俺の人生を変えるに十分な力を持っていた。俺の空白は、俺がそのままにしていたもの。でもそれはもしかしたら、今なら分かる、また書くために開けておいた空白だったんじゃないのかって」

「書く」と言葉にした途端に、こころの奥にじっと隠されていた三年前の記憶が、三年前までの記憶がフラッシュバックする。

 俺は六年前、医学部の五年生の夏にカケヨメに出会った。最初は春子との遊びで、疾患の勉強をするためにその病気らしい短いストーリーを作って言い合うことをしていた。その内に話を作ること自体が面白くなって、一人で書き溜めている内に発表の場所としてweb小説のカケヨメの存在を知った。PV病と自分で呼ぶPVの確認に囚われる日々や、読まれるための種々の方策を経て、やっぱりいい作品を出せば反響があると確信をした俺は、アートとしての純文学をすることが自分のやりたいことだと見付け、執筆にのめり込んだ――


 スマホが鳴っている。うるさい。このうるささは絶対掛けている人がうるさい人間だ。

 布団の中でやり過ごそうにも鳴り続けるから、やむなし、画面を見たら春子だった。溜め息が出る。

「もしもし?」

「ねえ、晴一、学校最近来てなかったでしょ?」

「え? 単位取るギリギリには出ているよ。そもそも実習だし」

「その実習に来てないのが問題になっているのよ! 実習なんて出れば単位貰えるんだから来なさいよ!」

「あー、区切りがいいところまで書けたら行くよ」

「ちょっと、何言ってるの!?」

「大事なことってあるだろ?」

「学生は学業が一番大事でしょ!?」

「じゃあ俺は今、学生じゃなくてニートだな。じゃあね」

「ちょっと!」

 言いかけの春子をシャットアウトして、電源も落として、俺は起きてしまったからにはパソコンに向かう。書きかけの長編、寝る前に書いたところを読みながら直して、そのままの勢いで続きを書く。それは毎日のことだし、それが毎日することとして俺が意味があると思えるものだ。反響は強かったり、弱かったり。それでも書いた後には次の作品を書く。書く程に自分の筆力が上がっているのが分かる。だから数ヶ月前に発表した作品が恥ずかしいけど、それを記念にしておく方が前に進みやすいと信じたから、カケヨメに残している。俺はまだまだだ。俺が表現したいことを最低限表現出来る文章力までまだある。だから書く。カッコ悪くても晒す。

 留年した。

 後期の実習だけ出ればいいと言うことで、前期は丸々休みになった。

「信じられない。ねえ、小説のせいで留年したのに、まだ書くの?」

「違うだろ春子。小説を書くための時間が与えられたんだよ」

「晴一、眼を覚まして。そんなんじゃ人生踏み外すよ」

「これこそが自分にとっての人生だってのを見付けて、それをしない方が踏み外していると思うけど」

「私はきっと晴一が正気に戻るのを待っているから」

「俺は正気だ」

 時間が出来ると人間楽な方に流れると言うが、その論法で言ったら俺は小説を書くのが楽なのだろう。短編、中編、長編、何作も書いた。アップした小説が七十を超えた頃に、自分の筆力が一定のレベルに達したと自覚した。これまでの成長からしたらもっともっと伸びるだろうけど、自分が最低限と思える力量になった。

 カケヨメではエンターテイメント作品の書籍化が数多くあり、俺もメジャーになりたいと欲を持った。でも、純文学作品ではそれは不可能なのが現況だ。調査の結果、純文学で表舞台に立つには古典的な文学新人賞を獲ると言うルートが、現代でも主流で、面白いことに今活躍している純文学系の小説家は新人賞以外のルートを通っている人も多いと言うことも分かった。その上で、新人賞に応募することに決めた。何より、自分として許容出来るレベルに自らがなったことが動機を押した。

 応募から結果が出るまでに時間が掛かるのが厄介、気にしてもそれは早まらない、書いては応募を繰り返す。もちろんカケヨメへの投稿も欠かさないが、流石にペースが落ちた。

 後期になり、実習の日々、六年生も前期までは実習があるから、書くペースはさらに落ちながらも投稿を続けた。六年の後期には流石に書くのを休んで国家試験の勉強に専念した。一年早く研修医になった春子とランチをしていたら、説諭する気に充溢した顔で、研修は大変だから、と始めた。

「研修医になったら小説を再開するってのは無謀よ。もし、今投稿している作品が全部落ちたら、晴一、小説書くのやめた方がいいと思う」

「それは俺に才能がないって言っているんだよね?」

「もしもの話よ」

「俺の自覚的レベルからしたら、どれかは通ると思う。まあ、この前出したのは予選落ちだったけどね」

「通ったらそのときは考えてもいいけど、全滅したら、もうやめなよ」

「続ければいずれは通ると思うんだけど」

「研修医しながらは無理よ。いい、今私が決めた。全滅したら、小説はおしまい。ね」

 全滅なんてする訳がない。そもそも春子は俺の小説を読んだことがあるのか?

 鼻で笑った俺に春子は如実に不快な顔をする。だが、何も言わないで待っている。

「おお、いいよ。全滅したら、やめてやらあ」

「約束だよ」

「おおよ」

 春子は安堵したような小さな溜め息をくから、イラッとして俺はその場を離れた。

 六年次の実習が終わり、国家試験まであと数ヶ月の、十一月、十二月に四つの投稿の結果が出た。俺の自信は何に根ざしていたんだろう。発表が一つある度に次の発表が怖くなって、最後の一つまでただの一度も予選を通過しなかった。

「全滅した」

 最後はウェブでの発表だった、自宅でいつも小説を書いているパソコンの前で呟いた声が、部屋中に染み渡って、まるで俺の部屋は敗者の洞窟のよう。

 春子との約束なんて関係ない。そんなの反故にすることは簡単だ。でも、春子のせいに出来る。

「せいに出来るけど、違う。違うんだよ」

 四回に分けて俺に与えられた衝撃に、声を出したらそれは反響して、自分を穿つ。

「俺の文学は、全くカスリもしなかったんだ。これが現実。これが、現実」

 声を絞っている筈が涙が絞れて来て、パソコンの前に黒いドットを描く。

「俺じゃダメなんだ。俺は、途中だけど、このまま届かないままで終える」

 拳が握る力にわななき、その震えは肩に体に、脳に至る。

「俺は負けた。俺は全否定された。俺は、文学に要らない」

 俺はこの世に必要ない。

 だって。

 俺の文学が必要ないなら。

 必要ない。

 必要ない。

 それだけを俺は何時間も繰り返して、涙がなかなか枯れなくて、耳鳴りがして来て、最後は嘔気を催してトイレに駆け込みゲーゲー吐いた。吐き切ってトイレの水の匂いが鼻について、空っぽだ。空っぽだから、次に進まなきゃ。

 顔を上げる

 部屋に戻り涙の痕を手でさっと拭く。椅子に座る。

「どっちに?」

 負けじと次の作品を作るか、もう逃げるか。

 考えても意味がないくらい、こころが書くこととそれによって否定されることを恐れていた。

「……書けない。もうこんな想いは、無理だよ」

 春子が初めて天使に思えた。俺は春子との約束で、書かないのだ。

「俺が弱いからじゃない。逃げたからじゃない。否定されるのが怖いからじゃない」

 俺は書くのをやめ、「水玉みずたまライオン」名義のカケヨメのアカウントはそのまま放置して、医者になって研修医を終わらせた。三年目に精神科に入局して、四年目の初夏。

 俺は間白金の本を読んで、また書こうかって思ったんだ。


 歩くスピードが速くなる。

 ジュアを出る前から、席を立つ前から、封じられていた創作の歯車が音を立てて動き出して、まずは短編、リハビリだ、それを置き去りになっている「水玉ライオン」の新作として出そう。

 何を書く?

 アートだ。それを忘れるな。また粉砕されるかも知れない。それでも、俺の小説を書くんだ。

 悲鳴。落雷。永遠。違う、そう言う単語で考えるな。意味を失った記号に囚われることになる。

 何を軸に書いていたか、そうだ、キャラクター、雰囲気、テーマ、情緒、アイデア、シーン、ストーリー、これを満たしたときに初めて書き始めるってルールを自分に課していた。三年離れるとそんな中核的なことまで忘れるんだ。

 コンビニで弁当を買う。

 部屋に帰ったら速攻で食べて、シャワーを浴びる。明日のためにすべきことは、目覚ましのセットとか、歯磨きとか全部終わらせて、急峻にパンパンの俺の書きたい欲求をパソコンにぶつけようとしたところで電話が鳴る。見なくても誰かは分かる。……平手打ちの後だ、出よう。

「もしもし」

「晴一、少しは落ち着いた?」

「悪い。真逆だよ」

「逆って、何よ。怒っているの?」

「そっちじゃない」

 仄かしておいて言うことに困難を感じる。いや、言った場合の面倒さが目に見えている。

「じゃあ何よ。……まさか」

 だけど、言うしかない。そこを通らずに書く未来を安定的に保てない。

「俺は書き始める」

「嘘でしょ?」

「その俺と今後付き合っていくのか、よく考えて欲しい」

「三年前に約束したのは、何だったの?」

「ごめん。本当は俺が折れていただけなんだ。折れていたところから、やっと起き上がったんだ」

「読んだのね」

 俺は沈黙する。スピーカーから溜め息に乗った苛立ちの音。

「考えてくれ」

「晴一の方こそ考えて。私は絶対に結婚するから」

 電話は切られ、ああ嫌だ、俺は結婚を春子とは絶対にしない。小説を書かない隠れ蓑の役目を終えた今、春子が俺の人生から退場するのは必然だ。

 胸の中にモヤがかかって、モヤのくせに重たくって、息を大きく吐いてみても全然取れない。

 小説に向かう最高潮を破壊されて、やっぱり春子は除去しないといけない、それでもパソコンに向かい直す。

 当時のタイトルがどんなものだったかをざっと見るためにフォルダを開いたらサンプル+日付、と言うファイルがたくさんある。思い出した。アイデア出しをするときにまず書きまくるためにその日の俺のサンプルを取ると言う意味で、そう名付けたファイルを作っていた。

「まずはサンプルからだ」

 動機の強さに邪魔はすぐに払拭されて、集中に入り、俺は寝るべきと決めた十一時半までサンプルを採取し続けた。布団に入っても興奮が続く、次々にアイデアが出て来る。でもそれをパソコンに記し始めたら徹夜になるから、一度起きてトイレに行って水を飲む以外は布団から出なかった。そのうち眠りについた。


 次の日の日曜日は朝からフルスロットルで書き続け、昼過ぎにジュアに行き、夕食を摂って家に戻るとまた続きを書いて、寝た。

 月曜日からは、仕事をする。仕事には集中出来て、その間は小説のことは考えない。仕事が終わればジュアに行き、煙草を吸いながら小説のアイデアを出したり、書いたりする。家でもパソコンの前にいるのが殆どになった。毎日同じペースで仕事と執筆を繰り返して、でも、前は一日で書いていた短編が出来上がるのに一週間かかった。土曜日に最終チェックをして、カケヨメに投稿した。

「三年ぶりの更新って、フォロワーの人達はもうみんないなくなっているんじゃないのかな」

 自主企画にもしっかり入れた新作の短編「銀メダル」は、一番欲しいものが手に入らない、それは運ではなく実力が足りなくて、それを繰り返している内に段々に金メダルである一番欲しいものを諦める癖がついてしまう男の話だ。物語の後半、彼は一番にどうしてもなりたいものとついに出会い、これまで集めた全ての銀メダルを捨てる。アイデアを出して書き始めるまでは他人事な、例えばスポーツ選手のシルバーコレクターの人とかをイメージしていたけど、いざ書いてみたらもろに自分のことだった。

 だからアートだと言うことではない。当然私小説ではないし、主人公は俺ではない男だ。リアルな葛藤を下地にすることが出来ると言うだけで、それと物語には二歩の開きがある。リアルとフィクション、フィクションとリアリティーの二歩だ。

「さすがに最初は読まれないところからやり直しだよな。なるべく悠長に。それよりも次」

 書いている最中は無視出来るけど、終わればやっぱり読者の反応が気になる。ジュアから家に着くまでは我慢して、部屋の机でパソコンを開く。

「さあどうだ!?」

 投稿してから六時間、PVが四。そんなものだろう、だけど、コメントが来ている。

 表示。

『水玉ライオンさん、お帰りなさい』

 俺は画面を見た切り動けない。

「お帰りなさい」

 俺を待っていてくれた人がいたのか。ずっと、三年間も。その人の名前は「ポテチのもり」。うっすら覚えている、以前に書いていたときにも俺を評価してくれた人だ。でも彼の作品を読んだことはなかったから読み専だったのかな。

「ただいま」

 挨拶に応じた途端に、体の底からマグマが噴き上げて全身を刷新する。手が震えている。いや、肩も頬も震えている。待っていてくれた。俺を、待っていてくれた。

「ずっと待たせてごめん。ただいま。もう逃げないよ」

 胸の奥がじんとして、迫り上がるように胸部全体が涙の素で満たされる。

「ありがとう」

 言葉に誘われて、涙が頬を伝う。溢れ出て来て、止められない。

 熱い雫が机に染みを作って、俺は、何度もありがとうと言って、泣いた。


 次の週の金曜日の外来に村野さんが来た。今日の最後の一人で、一通りの診察を終えたら、先生、と彼女が笑いかけて来る。

「今日はいい顔してますよ。この前の言葉は役に立ちましたか?」

「この上なく、役に立ちました。……言葉は必要なときに渡されると、ダイヤモンドのように光るんですね」

「先生も必要なときに必要な言葉をくれますよ。ほら、私今笑っているでしょ? 最初にここに入院したときは死ぬことしか考えてなかったのに」

 俺はその頃の彼女を思い出して、今の彼女と重ねる。

「……確かに」

「あの頃、先生は私の話を聞いてくれて、凝り固まっていた考えがいつしか変わっていました。仕組みを訊いても、いつかね、って教えてくれなくて、ねぇ先生、今ならどうやって私を変えたか教えてくれますよね」

「どうして知りたいんですか?」

 村野さんは少しだけ遠くを見て、決意の顔になる。

「プロと同じことは出来なくても、辛い中の友達の、役に立ちたいんです」

 自分の生き死にだけだった彼女、もう違う、今の彼女に必要な言葉。

「そんな理由じゃダメですか?」

「いや、いい。この上ない理由です。でもそんな単純なことなのかって、ガッカリしないで下さいね」

 彼女はむくれながら首を振る。

「しませんよ。だってその効果を誰よりも私は知っていますから」

 それはそうか。

 俺は居住まいを正す。

「こころのスペースって、色々なもので詰まっているんです。でもそれは、正体と言うか、本音と言うか、その底にあるものと別のものなんです。例えば、死にたいと言う考えや、不安とか辛いと言った感情、欲求や感覚などが詰まっていたとして、じゃあ正体や本音が同じかと言ったら、そうではない」

「本音とは別のもので、こころが埋まっているんですか?」

 俺は頷く。

「埋めているものがあると本音が出ない。だから、埋めているものを出すんです。徹底的に出して、こころが空になるまで出すんです」

「だから先生は話を聞くんだ」

「ただ聞いているだけじゃなくて、埋めているものを出させるようにしていくんです。これは技術ですけど、手数でカバーすることは可能です」

「上手に出来なくても、いっぱい出させようとすればいい」

 実体験があるからなのか、村野さんの理解がスムーズで喋りに弾みが付く。

「そうやって空になると、本音が、正体が、顔を出します。出て来た感情こそがその人の感情です。そこにアプローチをして、変化させます」

 村野さんが、はて、と首を傾げる。

「急に抽象的です。変化させるアプローチって、何ですか?」

「例えば死にたさの元にあることが、不安ならばその不安をどうやって取り除くかをします。怒りなら怒りを、悲しみなら悲しみを、どうにかして取り除きます。それは発散かも知れないし、現実世界に具体的な手を打つかも知れない、私の存在を利用するかも知れないし、薬でどうにかなるなら薬を使うかも知れない。出て来たものに対してどう言う解決策を実行出来るかの引き出しの多さが、治療者の技量とも言えます」

「素人が真似をして、出て来たものにどうすればいいですか?」

「手に負えない感じがあれば、プロに任せるべきです。でも、そうでないのなら、色々やってみるのがいいです。ポイントは、一撃で全てを決めるつもりで、でも、何回でも試す時間的幅を意識することです」

「見分けられますか?」

「ヤバい感覚は分かると思います。底まで到達したときの感じも、分かると思います。で、どっちか分からなくなっちゃったら、プロ任せでいいんじゃないかと思います」

 村野さんは、なるほど、と言って小さく息を吐き、じっと黙る。反駁整理しているのだろう。

 彼女が次の言葉を出すまで待つ。他のことはしない。彼女は大事な友人に自分がされてよかったことをしようとしている。心理療法の多くの劇薬に比べてこの方法は、正式名称はないので自分では「ドブ攫い」と言っている、安全だ。失敗すればただ話しただけだし、上手く行かなくても何度でもトライ出来る。ヤバいと思ったときに無理に抱えることさえしなければ本人も相手も大怪我はしない。

「先生」

「はい」

「私、やってみようと思います」

「何度も繰り返しやってみて下さい。しんどいかも知れませんけど、それが秘訣です」

「ありがとうございます」

「後は大丈夫ですか?」

 村野さんの瞳に炎が灯っている。いけない。これはもう一つ伝えなくてはならない。

「ごめんなさい、あと一つ、大事なことがありました」

 彼女は凛とした顔で頷く。

「治療する側の安全と健康が最優先です。決して相手のために自分を犠牲にしないで下さい」

「人のために、自分を使うのにですか?」

「そうです。治療する側が元気じゃないと、この方法は失敗します。いいですか、迷ったら自分の安全を優先して下さい。これは絶対です」

 俺は僅かに詰め寄りながら強調する。これは治療の原則であり、彼女を守る護符だ。

「分かりました。私の安全と健康が常に優先ですね」

「はい。一番大事なことです。さて、今度こそ、後は大丈夫ですか?」

 彼女は視線で宙の中を探してから俺を見る。

「大丈夫です」

「では、今日はここまでにしましょう」

「ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 診察室のドアを閉める彼女を見送ってからカルテの残りを書く。保存してから、彼女の初診時のカルテを開けて、さっき刹那に呼び覚ました当時の記憶を補完する。一年半の付き合いで、彼女は明瞭に変化した。病気が治ると言うことだけでなく、いやそれは彼女の元々持っているものが再開花しただけかも知れない、考え方や物事への取り組み方が前向きよりもう少し前のめりな、ギリギリ平和を乱さないアグレッシブさが前景に立つようになった。俺も彼女もそれを肯定的に捉えている。

「俺がここ三年でして来たこと。人に直接働きかけて、その人が病気から人生の主役を奪い返すこと」

 だから治療の失敗は他人の人生の損失そのものだ。市井にはまともな治療をしない精神科も多いと聞くし、実際精神科で研修を積んでない他科の医者が開業資金が安くて儲かると言う理由で精神科やメンタルクリニックを標榜している悪質なケースも耳にする。ガチの精神科はそう言うのとはちょっと違う。その温度差を嘆く程には俺には精神科医としてのプライドが生まれている。違う。人がよくなる、泣いていたのが笑って、症状に苦しんでいたのが取れて、社会に戻って、やりたいことをやれるようになる、それを至近距離で見て、支えて、いずれ手を離すことの経験が、俺を精神科医にする。

「三年前は医者なんか辞めて、パラサイトかバイトしながら小説を書く未来しか描いていなかった。だけど、今はこの仕事が面白い。生でダイレクトなこの感覚は、小説では味わえない」

 だけど、小説を書くことでしか味わえないものは、臨床では体感出来ない。どっちか片方を取れば、もう片方が失われる。村野さんなら何て言うだろうか。そんな状況の村野さんに、俺は何て言うだろうか。

 眼を瞑って彼女の顔を思い浮かべる。

 そうだ。

「好きなものが複数あっても全然いい。でも、どこまでを自分の人生に容れることが出来るかはちゃんと見極めましょう」

 眼を閉じたまま何度も頷く。

「小説と臨床、両方をすることが可能か。……それって今やっているのそのままだよな、まだ二週間だけど。このパターンで出来るところまでやってみて、ぶつかったら考える、それでいい」

 開けた眼に力が灯っているのが分かる。俺はライフスタイルを見付けたのかも知れない。ログアウトしたら、残務を終わらせて、もう一つの今日である小説書きの時間のためにジュアに向かう。

 転び始めた面白さが背中を押すから、早足に笑いが込み上げる。

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