旅する少女と強化の魔導書(下)

 とある、少女の話をしましょう。

 少女が生まれたのは、湖のそばにある小屋でした。両親に祝福される中で、元気に生まれてきたらしいです。


 少女が生まれた家は、かつて先祖が魔女として生きていた家系で。幸いにも、それで差別されたりすることはありませんでしたが、周囲の国からは少し離れて過ごしていました。


 少女の生活は、多少の不便こそありましたが。それでも、少女は幸せでした。きれいな景色に囲まれて、お母さんもお父さんも、目いっぱいの愛情を注いでくれましたから。

 少女は優しく、可憐で。生き物だけでなく、道具にも優しく接することのできる、そんな人間に成長していました。両親は、そんな少女をいっぱい褒めました。いっぱい、いっぱい褒めてあげました。



 ──あの日が来るまでは、そうした幸せな家庭でした。

 その日、少女はいつも通り遊びに出かけて。いつもより少し遅く、夕方くらいに帰ってきました。もし、もしも少し周りが見えていたら、少女は違和感に気づけたのかもしれません。気づいたとしても、きっと帰っていたでしょうけど。


「ただいま! ごめん、おそくなっちゃった!」


 返事は帰ってきませんでした。


「おっきな狐がいてね? あ、もちろん触ったりはしてないよ?」


 返事は帰ってきませんでした。


「……お母さん? お父さん? いないの?」


 返事は帰ってきませんでした。

 その代わり少女は見かけました、居間にお母さんがいることを。お母さんは立ったまま、どこか遠くのほうを見つめていました。


「もう、お母さん? いるなら返事してよ……どうしたの」

「あのね、聞いて?」


 流石に、どこか恐ろしさを感じた少女が少し控えめな声で尋ねると、母親は少女の方を振り返りながら、抑揚のない声で言いました。


「お父さん、死んじゃったの」


 少女は、最初に思いました。今目の前にいるお母さんが、本当に私の知ってるお母さんかと疑いたくなるほど恐ろしい、と。

 そして、同時に理解します。理由はわからないけれど、お父さんは本当に死んでしまったのだと。


 その日は、それで終わりました。お母さんはずっとその場を動かずに、どこか遠くを見つめていました。少女はどうすることもできなくて、お父さんがどうして死んだのかもわかりませんでしたから。悲しい気持ちもあんまり沸いてくれず、とりあえず自分の部屋に戻って眠ることにしたのです。



 次の日、少女は起きました。起きて、少しずつ、悲しい気持ちが湧き出てきて。

 ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちました。声を押し殺しながら、いっぱいいっぱい泣きました。

 そして、少女は思いました。私も、すごくすごく悲しいけれど。それでも、お母さんのほうがもっと悲しい思いをしているんだと。だから、私がお母さんの助けになってあげないと、と。


 そうして、責任感のある優しい少女は、親とお話をしました。お母さんは一睡もしてないのか、昨日と同じ場所で、座りながら何かをぶつぶつとつぶやいています。


「ねえ、お母さん」

「……なに?」


 憔悴した顔を向けられて、少女はまた悲しい気持ちになりました。それでも涙を頑張って抑え込んで、


「私にできることがあったら、何でも言ってね! 私、頑張るから!」


 どうにか作った明るい声で、そう告げました。


「……なんでも?」

「うん、なんだって頑張るよ! だから……元気、出してほしいな」


 そんな言葉を、告げてしまいました。



 ◇



 ご飯を食べて、いつもより眠くなって。そして起きた時、少女は気付きます。

 太い縄で、片手片足が部屋の壁と結び付けられていました。精一杯動かしても、全然取れる気配はありません。


 お母さんを呼ばなくちゃ、少女がそう思ったのも当たり前で。でも、そんな考えは一瞬で吹き飛んでしまいます。


「あっ、起きた?」


 笑顔を浮かべて、しかしどこか笑ってないような表情で、お母さんが話しかけてきたからです。


「お父さんに会うためにね、あなたにも頑張ってもらわないといけないの」


 焦点の合わない、見てるのか見てないのか分からないような顔を向けながら、その人は話を続けます。

 その手に見えるのは、一冊のメモ帳。


「魔法の使い方がわかったけれど、お母さんだけじゃ死んじゃうから。あなたに呪いを引き受けてもらうことにしたの、あなたもお父さんに会いたいでしょ?」


 少女には、分かりませんでした。


 お母さんは、どうして急におかしくなってしまったのか。

 お父さんは、どんな風に死んでしまったのか。

 呪いを他の誰かに引き受けてもらうなんて方法を、どうやって見つけたのか。


 少女には分かりませんでした、この先わかることもありませんし──そんなことを気にしている余裕も、ありませんでした。



 その人が魔法を唱えると、少女の体の奥の方から、黒い何かが這い出てきて。

 最初は、痛いが来ました。次に熱いが、その次に寒いが。苦しいが、辛いが来て、知らない間に突っ伏して、ほっぺが濡れる感覚で、自分が血を吐いていることに気付きました。

 余りにも苦しくて、顔を上げている余裕なんてなかったので。少女に、母親の顔を見ることはできませんでした。それでも、上手くいったと声を漏らすその人の口ぶりはどこか楽しそうで。少女は、泣きながら諦めることしかできませんでした。


 次の日も、また次の日も。その人は少女を使って魔法の練習をしていました。それが実を結んでいるのか、少女にはわかりません。そんなことに考えが回る状態でもありません。

 きっと上手くは行ってなかったのでしょう、何度も何度も繰り返しているのがその証明ですし、日に日に腐っていくであろう死体が、よくなるとも思えませんから。


 少女にとって幸運だったのは──あるいは、この上なく不運だったのは、少女は不思議なことに、長く生きることができたことです。

 呪いを移す技術による影響なのか。それとも、周りにずっと、狂気的な感情を吐き出し続ける人がいたからか。少しずつ蝕まれながら、激痛の中で、味覚を失って、気絶以外で眠ることができなくなりながら。少女は生きて、生きて。


 ──そのまま、3年間。少女が11歳になった時、転機は訪れました。

 いつも通り縄に繋がれて、何をしているのかわからない親の帰りを、鈍化してきた痛みと一緒に待ち続けるいつもの日常。

 そのなかで、ふと。少女の頭の中に声が響きました、何を言っているのか全く聞き取れない、不自然に間延びした声。


 それでも、少女は感覚で、自分が何を言われたのかを理解しました。


『前払いは受け取った、あとは好きに使うといい』


 と、そんなことを。

 何を好きに使えばいいか。どうやって使えばいいか。少女はその瞬間、すべてを理解しました。近くに落ちていた、錆びついたナイフを手に取ります。


 太い縄など、絶対に切れなさそうなナイフ。少女はそれに手をかざして、静かに図形を思い浮かべました。

 より切れ味が上がる、刃を強化する、そんなイメージ。一瞬、淡い光が手から見えたような気がして。驚くくらい簡単に体を縛っていた縄は切断されました。


 すっかり弱ったぼろぼろの体を、時間をかけてゆっくり起こした少女は、近くの棒を杖の代わりにして歩き始めました。色々と、考えたいことはありました。どうしてがいっぱいだったし、知りたいもたくさんあって。

 それでも、頭の中を埋め尽くす思考は一つ。死にたくない、だけがそこにあって。


「ああ、足りない、足りない、まだ……」


 何かを見つめ、集中を続ける女性の背後に少女は立ちました。

 振りかぶるのは、杖代わりにした木の棒。強化したのは打撃力、狙うのは彼女の──少女は、腕を振りました。


「なん、で……アルス……」


 ……そうして、少女は自由を手に入れました。

 崩れ落ちそうな体を引きずって外に出れば、バギーが一台……両親と、一緒にお出かけをした乗り物が止まっていました。


 持っているのは、大量の呪いと強化の魔法。少女は──私は、旅とも言えないお粗末な用意でバギーを走らせました。

 先の見えない少女の旅は、途中で先生と──呪いについて調べていた、研究者の方と出会うことで大きく変わっていくのですが。


 それはまた、別のお話ということで。

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