老兵は死なず 6

 本部に連絡し、救急車を手配し、俺と病葉は現場に駆けつけた。鈴蘭コロニーの敷地内に踏み入り、落下した老人の安否の確認をまずは優先した。

 老人はもう死んでいるようだった。花壇の近くに仰向けに倒れて、血が流れ出て、渋い色合いの半纏を不吉に染めて、眠たげに眼を半ば開いたまま、夢みるように表情を停止させて息絶えていた。

「また飛び降りか……。仁、屍の気配はどうだ? さっきの屋上のもうひとり、あれが屍か?」

「殺意が感じられません」

「なに?」

 病葉が残念そうに首を振った。

「屍はその殺意をあらわにするとき、生きた死体に感知されやすい濃密な気配を周囲に発します。いわゆる執着の匂いですね。屍者特有の劣情といってもいい。でもこの屍は、そういったわかりやすい殺意を見せていません」

「殺意がない……。だが、自殺の手助けをしてるんだ。消極的であれなんであれ、罪は罪だ」

「そうかもしれませんが、これほど殺意の稀薄な屍だと、気配の探知はしにくいですね」

「屋上からはもう逃走済みか……。とにかく行って確かめてみるか」

「真司」

 病葉がうながすように、老人の死体の方を顎で示した。俺もそちらに目をやった。

 おぞましい光景が現前しようとしていた。

 死んでいたはずの老人の身体が、びくん、と震えた。指先でかりかりと地面を引っかく。濁った眼が、ぎょろりと左右を見まわし、うつろに開かれた口許から、ささやくような呼気が漏れ出る音がした。廃坑に響く風鳴りのような、気味の悪い音だ。

「……亡者、か」

「死ぬ前にあらかじめ屍から咬傷を受けていたのでしょう」

「…………」

 俺は衝動的に拳銃を取り出し、老人が身を起こす前につかつかと歩み寄って、屍者に汚染されたその老人の頭を撃ち抜いた。ぱあん、と暗闇に乾いた銃声が響いた。街灯の光が揺れたような気がした。

 救急車とパトカーが近づいてくる音がする。

「おまわりさん? こんな夜更けに、いったい何の騒ぎですか?」

 気づくと、昼間に顔を合わせた通報者である右腕のない老人が、上着を慌てて羽織ったような姿で、こちらに近づいてきていた。たしか名前は……菊地憲貴きくちのりたか、だったか。

「ああ、菊地さん。またです。飛び降りですよ。そしてまた屍者です。殺させてもらいました。ああ、勘違いしないでください。最初の死は飛び降りです。もともとの死は、俺じゃないです。俺が殺したのはその後です。動く死体を、殺しました。だから、生きたこの人を殺したのは、俺じゃありません。この人の死体を殺したのが、俺です。そのあたり、しっかり誤解のなきよう、よろしくお願いします」

「真司、落ち着いてください。気を静めてください」

 病葉が警告するような声音で言った。言われなくても、落ち着いている。とはいえ、銃を片手に、弁解するような身振りと怪しげな呂律で言葉をまくし立てたのは、たしかに少しばかり不様だったかもしれない。反省しよう。落ち着け。

「飛び降り……。二等兵と、同じ死に様ですか」

「ええ、そうですね。それでですね、いまからこのコロニーの建物内に入らせてもらいたいんですが……。ああ、いえ、その前にですね。死体の確認をお願いできますか」

 救急車とパトカーが到着し、ぞろぞろと人員が降りてきた。複数の救急隊員が死体のそばに近寄る。

「ああ、その人、もう死んだから。病院には運ばなくていい。無許可のよみがえりという、罪を犯した死体だから。こっちの領分だ。清掃班も呼ばなくちゃな。ちょっと、通してくれ」

 救急隊員たちをかきわけて、俺は菊地さんを死体のそばに連れて行った。

「お知り合いですか?」

「……ええ。彼の名は大鳥宗助おおとりそうすけ。復員してからも、周りの人間が反応に困るような、下世話な冗談をよく口にしていました。戦時にね、いわゆる男の大切なものに傷を受けてしまって。もう使い物にならない、と始終げらげらと笑っていた男です」

「そうですか。ご愁傷さまです」

 それから俺と病葉は菊地さんに鍵を開けてもらい、エレベーターに乗って、鈴蘭コロニーの屋上へと向かった。

 屋上には、人っ子ひとり見当たらなかった。ただ、ほんの少し前にここから人が飛び降りた……それを自分は遠くから目撃した……というようなことを考えると、奇妙な胸騒ぎがうずくのを感じた。とはいえ、ここには死の痕跡も魂の残滓も見当たらなかった。向かいには、さっきまで俺たちがいたマンションが見える。あそこにはまだ如月がいて、まだこちらを見張っているのだろうか。なんとなく俺はそちらに向かって手を振った。俺が飛び降りたとしたら、あそこからはどんなふうに見えるのだろう。地面に向かって落ちながら、世界はどんなふうに見えるのだろう。

「屍はやはりもういないようだな。だが、まだ近くに……このコロニーのどこかに潜んでいるんじゃないか?」

「可能性はありますね」

「よし、仁。ローラー作戦だな。面倒だが、各階、各部屋、徹底的に洗うぞ。薄汚い死体野郎をあぶり出してやる。菊地さん、申し訳ないですが、あなたにもご協力を……」

「真司、待ってください」

「あ?」

 病葉は虚空を見つめ、しばらく微動だにしなかった。

「真司、コールです。戻ってこい、とのことです。撤収命令ですね」

「撤収って……。屍は? まだ終わっていない。まだ始末していないのに」

「とにかく、戻りましょう」

 俺は納得がいかなかった。

「ここにまだ潜んでいるはずだ。いまがチャンスだ。屍者をこれ以上増やさないためにも。みすみすとり逃がすのか?」

「システムの命令です。従わないのですか?」

 病葉は冷然と告げる。片腕のない老人は、興味を引かれたように俺たちを眺めている。もしかしたら如月も、向かいのマンションからこちらを注視している。

「……従うさ。すべてはシステムの御心みこころのままに、だからな」

「そうです。すべてはシステムの導くままに」

 俺たちは屋上から下りて、コロニーを後にした。

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