老兵は死なず 1

 これから死ぬ老人とすでに死んだ老人が、屋上で密やかに語らっていた。夜空。月夜。高層階。光は静かに冴え冴えと。老人ふたりの立ち別れ。

「さて、そろそろ潮時か。惜しんでいてもきりがない。死ぬにはもってこいの夜だ、そうだろう? わが懐かしき夜戦の日々。俺の古傷も喜んでいる。長年連れ添った傷だからな、わかるんだ。痛みはまだ消えちゃいない。忘れられてたまるか、そう言っているよ。聞こえるだろう?」

「本当にいいのですか?」

 屋上の柵を境界として、ふたりは彼岸と此岸に分かたれていた。これから死ぬ老人は、柵の外側に座している。すでに死んだ老人は、柵の内側に立っている。どちらが死の淵に近いかは、神のみぞ知る。神の狂気とも言われる混乱した死生。死んだのかどうかも判然としない神。

 これから死ぬ老人は、幼児のように笑った。

「なに、どうせ死ぬのを待っていたところだからな。いや、嘘かもな。死を待つことなんてできない。はらわたぶちまけて死ぬ寸前でも、死が信じられないやつはいたからな。同郷の友人だったが。あいつの眼をよく思い出すよ。……ああ、いかんな。また昔話だ。年を取ったら、気づくとそればかり。嫌になるね。死ぬ寸前でも懐旧談か。脳ミソ腐ってんのかね。死んだあんたは、もう腐ってるんだろ?」

「別に、いま死ぬ必要はないでしょう」

「必要はないよ、そりゃあな。こんな末世でも楽しみはある。日常ってやつは強力だからな。でも、死ぬと決めたわけだ。あんたに託すよ。せいぜい俺の死を利用してくれ。俺たちの声を届けてくれ。少しでもポジティブに俺は死にたいんだ。プラス思考ってやつだな。前向きだろ?」

「すべて無意味かもしれません」

「そのときはそのときだ。いまを生きろよ。老い先短い死体にも夢はあるだろ? いまを生きろよ、ご同輩。死体が明るきゃ世も明るい。自己満足でなにが悪い。つまるところ、俺たちは生きていたんだ。なかったことにはできない。たとえシステムにいなまれてもな」

「……そうですね」

 これから死ぬ老人の陽気な饒舌に、すでに死んだ老人は言葉少なに頷いた。結論は出ていた。死体は死を止めるのを諦めた。あとは死ぬだけだった。

「それにな、あんたを見てると、勇気がわいてくるんだよ。死の先達だからな。死んだやつは山ほど見たけど、だれも死のことはわからないみたいだった。あんたはどうだ? 死の感想は? 死がわかったか?」

「――いえ。残念ながら。生まれたときのことを憶えてはいないでしょう? 屍者にとっての死も似たようなものです。無明むみょうの暗闇は死体になっても晴れない。迷いが新たに増えただけです」

「そうか。それならそれで、まあいい。これから自分で確かめることにするよ。運が良けりゃ、また会えるさ。運が悪けりゃか。あんたも哀しいね。生きるのはもう懲り懲りだな。人間の顔は見飽きたよ。じゃあな、ご同輩」

「さようなら。あなたの死に、祝福と感謝を」

「よせよ、柄じゃない」

 照れるように、これから死ぬ老人は屋上から落下した。柵の外側の人影は消えた。すでに死んだ老人だけが佇む屋上。柵の内側の老人は、神なき死体であることも忘れて、祈るように月を見上げた。

 進歩が信じられた時代、彼岸を此岸にするために目指された月。人間がそこに降り立ってから、どれだけの年月が経ったことだろう。それでも天地にはなおも人智の及ばぬ事柄が山積みで、理解の糸口すら見出だせなかった。たとえば死。動く死体。消えない不幸。なくならない争い。すべてはなおも暗闇だった。

 落下した老人が大地に降り立ち死んだ後も、屍者の老人は月を見上げていた。届かない夢。永遠の彼岸。いまだ死に辿り着けない、ひとり取り残された死体の老人は、光に透かすように手をかざした。

 その手には小指が欠けていた。

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