死体の刑事 3

「さて、お次はどこに向かうんだ?」

 そう口にする瀬田さんから、硝煙の臭いがかすかに漂った。死体の臭いに、火薬の臭い……。このマスク、本当に気休めでしかないのかもしれない。

匿名とくめい墓地です」

「墓地? なんでそんなところに」

「屍者の反応があるようです。かばねか亡者かはいまのところ不明」

「死体が埋まる場所にまた死体か……。賑やかなことだな」

「急ぎましょう」

 死体と刑事とわたしを乗せた車は、今度は墓地に向かうらしい。わたしがここに存在する意味がいまひとつよくわからないのだが、こんな機会でもないかぎり、官憲の仕事ぶりを間近に見ることなどそうはないだろうから、これもひとつの社会科見学だと割り切って、楽しむべきなのかもしれない。

 瀬田さんは軽口を叩きながら指示に従って運転している。でも、さっきの話によれば、こころ穏やかではないのかもしれない。よくわからない。屍者の銃殺が日常のこの人には、死の実感はあるだろうか。

 餌、か。それはつまり、わたしにも死の危険があるということか。わたしの死。遅かれ早かれやってくる死。死の実感はわかなかった。弟はフライングした。待ちきれずに死んだ。死んだ弟に死の実感はあっただろうか。生き返った弟に死の実感はあるだろうか。よくわからない。

「ここです」

 病葉わくらばさんが言った。目指していた墓地に到着したらしい。

 黒塗りの厳めしい門の先に、十字架の形をした墓石が並んでいた。名前も日付も墓碑銘もない、ただの墓。それが一般市民の終着点だ。だれが死に、どこに埋められているのかは、システムだけが把握している。死者たちの顔は、わたしたちの知る由もない。知る必要も認められない。

「牧歌的な場所だな。ピクニックにはお似合いだが……。車は入れないみたいだな」

「降りましょう」

「墓場で屍者を探すのか? 乙なものだね。泣けてくるよ。ここは品行方正な死体たちの楽園だな。いい死体は死んだ死体だけだ。死体は死体らしく、おとなしく埋められていればいいものを」

「火葬が一般的な社会では、死体の犯罪は少ないようですよ」

「だが、土葬はわが国固有の文化だ。国民感情を配慮するなら、いまさら変えるわけにもいかないだろう。文化は合理性から成り立っているわけじゃない」

「――そうですね」

「仁、かばねがもしいるなら、おまえの出番だ。武器を用意しておけよ」

「わかっています」

 そう答えて、病葉さんはふところからなにかを取り出した。無骨なアクセサリーにも見えるそれは――メリケンサックだった。指に嵌めて握りこみ、拳による殴打の威力を高める武器。

「銃ではないんですか?」

 わたしは思わずそう訊いてしまった。官憲らしからぬ武装に見えたからだ。

むくろは銃の所持を基本的には認められていません。近接武器だけです」

「警察官なのにですか?」

「銃を持たせるほどには、死体を信用できない……そんなところですかね」

「気にしないでください。こいつ、ひぐまみたいなものなんで。脳筋のうきんの屍者ですから。たとえ素手でも、頭のひとつやふたつは簡単に吹き飛ばせますよ。それじゃあ、春日井さんは車で待っていてください」

 物騒な言葉を残して、二人組の刑事は車を降りた。じゃあ、わたしはさっき、羆と二人きりだったのか……なんて感慨が頭をよぎる。そんな屈強な死体には見えなかったけれど。

「ん? なんだこれ。門に落書きがあるぞ。クソガキの仕業か? ラッシャーテ・オニ……だめだ、読めねえ」

「有名な警句ですね。この門をくぐる者、一切の望みを捨てよ。そういった意味の言葉です。詩ですよ」

「なるほど。そのとおりだな。死んでしまえば、望みなんてなにひとつない。教養のあるクソガキだな。詩人気取りか?」

 二人の会話と足音が、徐々に遠くなっていく。わたしは車内でひと息ついた。マスクを外す。死体と火薬の残り香が鼻をついた。非日常のにおい。それでも、死の実感はわかなかった。

 匿名墓地の周囲には人影もなく、喧噪とも無縁だった。死者たちの臥所ふしどを、静寂と鉄柵が取り囲んでいた。瀟洒しょうしゃおりのようだった。

 車の後部座席に取り残されて、窓からぼんやり墓場の午後を眺めているわたしも、棺桶に閉じ込められているような気分だった。車だけではなく、自分の肉体さえもが、ひつぎのように狭苦しく感じられた。わたしを閉じ込めているわたしという檻。わたしを閉じ込めている社会という牢獄。動く死体。動く死体を殺す死体。わたしはいつ死ぬのだろう。わたしの死体は死を受け入れてくれるのだろうか。死の実感のないわたしの死体。

 街路樹に鳥がとまっていた。平和な光景。平和な日常。空は広々、雲は軽々。のどかなものだ。空には柵なんてない。どこまでも自由に見えた。それでも、飛翔という行為には、大量のエネルギーが必要とされるらしい。鳥は飛ぶために食べ、食べるために飛ぶ。地を這う人間からは自由に見える空の鳥も、生きるという不自由からは逃れられない。鳥にとって、空は檻なのだろうか。人にとって、都市が檻であるように。生きているかぎり逃げ場はない。死体になっても鎖はほどけない。出口なし。望みなし。死をまっとうする以外には。

 ぱあん、と間延びしたような銃声が辺りに響いた。わたしは益体やくたいもない思考から呼び戻され、鳥は驚いたように街路樹から飛び去った。墓場の静けさが少しだけ乱された。瀬田さんたちが屍者を見つけたのだろう。さっきと同じような亡者だろうか。それとも――。

 ごつん、と車の窓になにかがぶつかった。何の気なしにわたしはそちらを見た。弟の蒼白い顔があった。眼があった。窓の外に、弟が立っていた。

「…………」

 熊でも見たように、わたしは固まるだけだった。死体の弟は生きていた。こちらを覗いていた。窓の外から、彼岸から。まだ死体ではないわたしを見ていた。

 窓に手を押しつけたまま、弟は口を開いた。なにかを言おうとしていた。姉であるわたしに、死体である弟が、なにかを語ろうとしていた。恨み言か、泣き言か、世を罵る呪詛じゅそか、周回遅れの遺言か。それはもう永遠にわからない。

 声が言葉になる前に、弟の胸から丸太のようなものが勢いよく突き出された。丸太かと思ったのだ、本当に。それも一瞬のことで、弟の胸から突き出ているのは丸太ではなく人の腕だった。無骨なメリケンサックを装着した右腕。

 血が飛び散って、車の窓にこびりついた。弟の背中から杭のように拳を打ち込んだ病葉さんが、そのまま薙ぎ払うように腕を荒々しく振ると、弟の身体は腰からちぎれ飛び、上半身だけで宙を舞った。小雨のように血が降りそそぎ、ボンネットにはらわたが落ちるのが見えた。一拍遅れて、弟の上半身も道路に墜落した。

 惨憺たる有り様だった。夢でも見るように、わたしは弟の肉片が散らばるのを眺めていた。

 だが、それでも弟はまだ生きていた。死体の弟は上半身だけで、あがくように這いずり始めた。死を拒むように、死から逃げるように。ちぎれた死体と化してしまっても、なおもどこかを目指して動いていた。

 そんな瀕死の弟に、悠々と歩いて追いついた病葉さんは、足下に這いずる屍者の上半身を無造作に蹴り上げた。ボロ雑巾のように道路を転げまわった弟は、仰向けになり、空をあおいだ。その眼に最期に映った空は、どんな色をしていたのだろう。

 弟に近づいた病葉さんは、瓦割りでもするような体勢をとって、ふたたび杭のように、くさびのように、鉄槌のように拳を振り下ろし、ぐしゃりと、弟の頭蓋を完膚なきまでに叩き潰した。

 すべては窓の外で進行し、窓の外で終わってしまった。

「なんだ、拍子抜けだったな。どれほど凶暴なかばねかと思ったが……」

 遅れてやってきた瀬田さんが、そんな言葉を口にした。こころなしか、ほっとしたような様子がうかがえる。

「彼は手負いでした。すでに虫の息だったようです」

 窓には赤い手形がうっすらと残っていた。病葉さんが手を下す前から、弟は血に汚れていたのか。

内海うつみもただでは殺されなかったってわけだ。少しは報われたと言えるのかね?」

「好きだったんですか、彼女のこと」

「死体に惚れるバカがいるかよ」

「差別発言ですよ、それ」

 二人組の刑事は平然と会話を続けている。辺りには、人肉パーティーの残りカスのような物体があちこちに散らばっている。これが彼らの仕事であり、彼らの日常なのだろう。それがどれだけ血なまぐさいものであったとしても。

 わたしは車の外に出た。ドアを開けるとき、なにかを押すような感触があって、どさり、と倒れる音がした。車のドアに寄りかかっていた弟の下半身だった。

「ああ、春日井さん。どうもです。あなたの弟さんは無事に始末することができました。ご協力に感謝します」

 瀬田さんはそう言って、屈託のない笑顔を見せた。

「あの……見てもいいですか。弟の死体」

「見ない方がいいと思いますが」

「いいじゃないですか、真司。見せてあげても。せめてものお礼ですよ」

「しかし……」

「この人は死の実感を求めています。彼の痛みを見届けたいのでしょう」

 どうやら生きている刑事よりも死体の刑事の方が、わたしの気持ちがわかるようだった。彼に死の実感はあるのだろうか。

 二人は道を開けてくれた。マスクを外したまま、わたしは弟の残骸に近づいた。血の臭い。死の臭い。わたしの弟の死体の臭い。

 弟の潰された顔面は、下顎くらいしか原形をとどめていなかった。不在の死に顔を見つめながら、わたしは在りし日の泣き顔を思い出していた。父と母の死に泣いていた弟。猫がかわいそうだと泣いていた弟。哀しみと怒りに震えて、不条理に身をよじり、顔をくしゃくしゃに歪めて泣いていた弟。

春樹はるき

 わたしは弟の名前を呼んだ。弟の死体に向かって。弟の記憶に向かって。弟の魂に向かって。

「死ねてよかったね」

 それが、わたしなりの弔辞だった。家族の死に、泣きもせず。

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