第8話 解放
清彦の手が私の体をはいまわる。でも決して核心には触れない。じらされている?
と私は、はしたない思いを巡らせる。でも清彦は大まじめだ。私との愛を深めようとしている。アロマキャンドルの寝室で静かな音楽を流し、裸で抱き合っている。苦痛とまでは言わないが、だったらちゃんとやってほしい。少なくともその暴力的な愛情表現の方が快楽のある分清彦を愛しているのではと錯覚することが出来ていた。今は私が清彦のことを愛していないことがはっきりわかってしまった。
でも私はこのダラダラとした清彦の愛情表現に付き合っている。それは義務を果たしているということなのだろうか、医者にしてもらった借金をかえしているだけなのだろうか。いや結婚は一生の問題だから。終わることのない借金を返しているのだろうか、だとしたら、やはり私は友田からの解放を望んでいるのだろうか。そんな思いが浮かんだ瞬間、その解放という言葉がリアルに私の体をかけめぐった。そしての思いは確固たる思いに変わった。私は友田からの解放を望んでいる。私は解放を望んでいるんだ
そのとき一連の儀式が終わった。
「おはようございます」
私はいつもより元気よく佐伯さんの病室のドアーを開けた。
すると佐伯さんは病室にいなかった。いつものことなので私は驚かない、でもいつもならその時点で佐伯さんは一番後に回される、でもその日はなんだかとても気分がよかったので、私はカルテをおいて佐伯さんを捜しに病室をでた。今日は天気がいいから屋上にでもいるのではと私は目星をつけた。
屋上にはすがすがしい風が吹いていて、とても気持ちがよかった。それは今の私のよう。なぜ今日の私はこんなにも気分がいいのだろう。あのもやもやしていた物が、友田からの解放だったと、はっきり気付いたからだろうか。
屋上には大きなシーツが並んで干してあって、風で大きくなびいている。その白と真っ青な空のコントラストがとても美しかった。シーツのせいで屋上は見渡すことが出来ない。私はいくつも並んだシーツをかき分けるようにして屋上を進んだ、すると一番奥の手すりに寄り掛かるようにして佐伯さんが遠くを見つめていた。
空はシーツの白とのコントラストから、空と川の風景に変わっていた。たまに強くなる風に後ろの方でシーツがバタバタと音を立てるけれど、それ以外は涼しげな風でとても気持ちがよかった。
「佐伯さん」
「あっ、先生」と佐伯さんは私を待っていたかのような、やっと来たかというように振り返った。
「また病室を抜け出して」
「今日はとてもいい天気で、気持ちがいいと思いませんか」不思議と今日の佐伯さんは、とても美しく見える。
「ええ、ほんとに」と私は佐伯さんを捜しに来たことを忘れたように心から答えた。でも次の瞬間に我に返る。
「でも病室にいてもらわないと困ります」
「すみません」と言ってから佐伯さんは私の顔を見つめる。
「でも先生の顔も今日はとても晴れやかだ」
「そうですか」
「ご自分が解放を望まれていることにやっと気づかれたようですね」何で分かるんだろうという疑問が沸いたけど、その時の私はそんなことは、どうでもよくなっていた。何しろ今日の私はとても気分がいい。
私は佐伯さんと一緒に病室に戻ると佐伯さんの診察を始めた。今日はこの病室もとても気持ちがいい。開け放たれた窓からはすがすがしい風が入ってきて、白いカーテンを揺らしている。なんだかとても楽しい。
「佐伯さん」
「はい」
「一つ聞いていいですか」と私は世間話をするように尋ねた。
「なんですか」
「あまり診察には関係がないんですが」
「かまいませんよ」
「佐伯さんの怖い夢って、自分に出会う夢なんですよね」
「はい、そうですよ、どうしてそんなことを」
「いえ、本当に怖いってどんなことだろうなって思って、自分に出会うというのは本当に怖いことなのかなって」
一瞬の間の後、佐伯さんは窓の外をぼんやり眺めた。でもその目には何も移ってはいないかのようだった。そしてゆっくり話し出す。その言い方は何かを思い出すような言い方だった。
「怖いんですよ、本当に怖い」
「どうしてそれが怖いんですか」
「自分に出会うというのは、今の自分ではない、もっと違う別の自分に出会うということです。今こうしていることが夢で、現実は全然違うかもしれない」
「そんな」
「たとえば私は患者で。あなたはその主治医ということになっていますが、実はあなたが患者で、私が医者かもしれない」
「そんなこと」
「ないって自信を持って言えますか」
「だって、じゃあ、あの経験は、父が亡くなったことや。医大に入ったことは夢だったというんですか」
「そう話を進めないでください。それが現実かもしれない。そうでないかもしれないと、言っているだけです」静かに言うと佐伯さんは私の目を見つめた。涼しげな言葉とは裏腹に私の中に鋭く入ってくるような言葉だった。そして佐伯さんは続ける。
「自分に出会うというのは、それが本当の自分かもしれないということです。確かに今こうしているのが本当の自分かもしれない。でもそれをはっきりと認識することが出来ますか」
「そんな。そんなこと認識なんてしなくても、今の自分が本当の自分でしょう」
「本当にそう言い切れますか。あなたはセックス好きの薄汚い獣のような女で、私はお金持ちの御曹司かもしれない、それを知るのが怖いから、あなたは夢を見ているのかもしれない」
私が獣、まさか、でもある意味で当たっているかもしれない。私は医大に行くお金のために友田家に買われ。清彦に体を与え続けた、そしてその快楽を知りもした。まさにそれはセックス好きの薄汚い女で、その対価のために、どんなはしたないことでもする獣だ。
「先生も決して夢の中で本当のご自分に出会わないようにしてくださいね。今の生活が崩壊するかもしれませんよ」
「でもそれってある意味の解放なんじゃありませんか」
「でも今がそのどん底から解放された状態かもしれませんよ、夢というものは得てして現在の自分より良い状態を見るものです。その夢から覚めたら」そこで佐伯さんは言葉を止めた。またしてもその沈黙に私は耐えられなくなった。
「覚めたら。セックス好きの薄汚い女だったりして」私は冗談のつもりで言ったのに、佐伯さんはちっとも笑っていなかった。
「もっとひどいかもかれませんよ」
「もっと」私は佐伯さんのその言葉の意味ができず聞き返した。
「そう、もっと」
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