1−10 チェックメイト


「ほう、それはなかなか面白い情報を手に入れましたなぁ」


 首都からそう遠くない平野部に位置する、とある村。そこに建てられた大きく荘厳なテントの中を、何十本もの蝋燭が薄暗く照らす。


「ええ、最初はまさかと疑いましたけども」


 返事した男は、チェス盤に置かれた、白く先が尖った駒を2本指でつまみ上げる。蝋燭の火が揺らいで床に映った影が変形し、まるで小さな動物を捕食している怪物のような像を見せた。


「でもいいんじゃないですかね、悲劇の中に少しは喜劇があっても」


 そう言うと、男はつまんでいた駒を、対角線上にあった黒く平べったい駒が配置されていたマスに移動させ、それを押し出すようにして弾き出して持ち駒に置き換えた。黒い駒が男の陣に吸収され、男の顔には少なからず笑みがこぼれる。


「同感いたしますぞ、ドレフスキ将軍。最後くらいちょっとはいい思いをさせてあげないと可哀想です」


「ハハハハ!!」


 広いテントの中に、二人の愉快そうな笑い声が響きわたる。


「そちらの準備は進んでおられるのですか、ロシオ代行」


 笑いがおさまったところで、イストラク王国の将軍ドレフスキが、前に座っているダルサンガ王国総司令代行であるロシオに質問を投げかける。


「ええ万端ですとも」


 ロシオは満足げに答えた。


「プロフェット様の御加護がある限り、我々に敗北という二文字はございませんので」


「ほう、それはとても心強いですなぁ」


 ドレフスキはロシオの言うことに断片的な不満を持ちつつも、感嘆したような声で称賛した。ロシオもそれに対して笑顔で返す。


「にしてもロシオ殿、そちらは本国では日々とてもお忙しいという風にお聞きしておりますが」


「ええ、とても言葉では言い切れませぬ。プロフェット様に代わるお仕事は膨大な上、とても私の分身が何人いても足らずでして」


 ーー ろくに休養も取れぬ者への憐れみか? この異教徒が……


 表面的には尊敬を込めた言葉で質問に返答していたロシオは、心中ではドレフスキに対する僻みの念を向けた。


「そちらはどうです、其方も日々多忙に追われていると推測いたしますが」


「ははぁ、私も日々我が身が溶けそうなほど、溜まる仕事に悩まされておりますわい」


 ドレフスキはそれだけ答えると黙り、目の前に置かれているチェス盤に目を下ろして考え込んだ。


 ーー それだけか?


 もっと長ったらしい話が来ると期待していたロシオは、ドレフスキの何とも短すぎる返答を軽蔑した。テント内に不気味な沈黙の時が流れ、ロシオは何か話さねばと焦る。


「おっと、私の酒が切れたな」


 ロシオは空になった自分のグラスを手に取り、咄嗟に話のネタを作ろうとする。


「おいお前、一本持ってこい」


 ロシオは、テントの入り口で待機していた貧しい身なりの女に呼びかけ、酒をよこすよう要求する。


「こ、こちらにございます」


 女は既に手元に準備していた葡萄酒の瓶をロシオの隣まで持っていき、瓶を横に寝かせた状態で彼の前に提示した。しかしロシオの顔は急激に曇りだし、ドレフスキに対して表面的に見せていた優しげな表情は、一瞬で鬼の形相へと変貌を遂げた。


「貴様ぁ、違うだろがぁ!!」


 ロシオは激昂し、勢いよく立ち上がると女の頬を太い拳で思い切り殴った。


「きゃぁっ!!」


 女は悲痛な叫びを上げ、床に無力に倒れ込む。葡萄酒の瓶が女の手から滑り落ちて割れ、ボルドー色の液体とガラスの破片が女の足に直接突き刺さる。破片が突き刺さったところからは、ダラダラと濃い赤色の血が流れ出していた。ロシオの衣服も、葡萄酒が一部を紫に染め上げていく。


「酒は、縦にして、持ってこいと、何度、言ったら、わかる!!」


 ロシオは倒れ込んだ女の背中を靴で何度も強い蹴りを入れ、その度に女の弱い息遣いが響く。それを側から見守ることしかできない女の仲間たちは、その残虐な光景に目を瞑りつつ、立ったまま怯えている他なかった。


「も、申し、訳っ……」


「何だ、申すことがあるなら早よ言わんか!」


「ござ、い、ません……!」


 女は涙を流しながら、命乞いをするように懸命に謝罪する。


「ったく、この村の奴は一匹たりとも使えん」


 蹴ることに疲れてきたロシオは、汗だくになりながら床に横たわる女を上から見下すような視線で見つめた。


「ガーラロア産の豚は要らん。下手な畜産業しかできん国に何ができる?」


 自然と怪しい笑いが漏れたロシオは、その隙にちらっとドレフスキの方を見る。ずっとこの暴力を傍から見ていたドレフスキはロシオの姿に怯える様子もなく、ロシオの言葉に黙って頷いて賛同した。


 ロシオの中では、ドレフスキから芳しい反応が得られなかったことに段々とフラストレーションが溜まっていった。


「おい、こいつは川にでも流しておけ」


 ロシオは入り口にいる彼女の仲間に向けて命令を発する。入り口で待機している仲間の中には、既に恐怖のあまり座り込んでしまっている者もいた。


「ロ、ロシオ様! それは、ど、どうか……!」


「貴様らも同じ目に遭いたいか!!」


 ロシオの脅迫に、仲間たちはこれまでにない以上の恐怖に襲われ、思わず後退りする。しかしここは逆らえない。逆らえば目の前にいる友人と同等、もしくはさらに酷い状態に加工されてしまいかねない。


「はよせんか!」


 仲間たちはもうどうすることもできず、ただ足を震わせながら倒れ込む友人に近づき、もう動かなくなってしまった体を数人でゆっくりと持ち上げた。その体勢のまま、仲間たちはだらんと垂れた友人の腕を揺らしながら、テントの外へと運び出していった。


 ーー この村を攻めて野営地にすることが間違っとったな


 その様子を見送ったロシオは昂った気持ちを抑え、ようやく席に腰を下ろした。それと同時に、ロシオの部下がもう一つの酒の瓶をグラスの隣に優しく置いた。


「いやぁ、せっかくの場を乱してしまいまして」


 ロシオは部下が持ってきた、既に栓が開けられた酒を自分のグラスにコトコトと注ぎ入れる。


「ドレフスキ殿もいかがです」


「お言葉に甘えるといたしましょう」


 ドレフスキのグラスにも酒が注がれ、白い泡が湧き出て今にも溢れ出しそうなほどになっていた。エウカリスティアの発泡酒である。


「いいですなぁ、エウカリスティアの酒は」


 酒に口をつけたドレフスキが、口に若干の泡を残しながら嬉しそうに感想を述べる。ロシオはそれに対して少し眉を顰めたが、一瞬でその表情を隠して言葉を紡いだ。


「我々もこの酒を高値で輸入せずに済むことを誠に嬉しく思っておりますぞ」


 ロシオもぐいっと発泡酒を口に流し込む。


「しかしドレフスキ殿、本当に関税抜きでよろしいのですか」


「それはもちろん、共に戦った仲ですから、当然の分け前と言えましょう」


「いやはや、ありがたくその恵をいただくとしましょう」


 ロシオはありがたそうにドレフスキに感謝の言葉を述べたものの、


 ーー なぜエウカリスティアは我々ダルサンガに譲らんのか!


 と不快感を脳内で爆発させていた。


「いやぁ、我々ダルサンガは山がちでしてねぇ、とても今の状況では平地が足りませんでして」


 するとロシオがふと思い出したように、自国の事情を語り始めた。


「エレフセリア、否、ガーラロア全部を征服できた暁には、平地の半分を我らダルサンガ王国にお譲りいただきたいのですけれども、その点如何でしょうかな、ドレフスキ殿?」


「それはもちろんのこと。うちはかなり農業が盛んでしてな、もう少し農地を拡大したいところでして。ちょうど領土を半分に分割して、我ら2国でその恩恵を受けることができるでしょうな」


 ーー 農地あるならエウカリスティアぐらい渡さんかこの老ぼれが!


 ドレフスキの答えにまたもや満足いかないロシオが愚痴を頭の中でこぼした。


 ドレフスキは、お互い駒が少なくなってきたチェス盤を見つめ、後方に配置していた駒を斜めに動かす。移動後のマスからは、前方一直線にロシオの王駒が置かれていた。


「王手」


 ドレフスキの低い声がロシオを威圧した。蝋燭の火がまた揺れる。


 ロシオはしばらく考え込んだ後、王の前に別の駒を移動させて生贄を作ることで対抗する策に出た。


「ほう、なかなか粘りますな」


 ドレフスキが煽るような口調でロシオの勝負強さを褒め称える。


「仲間であっても、遊戯で負けるわけにはいきませんでしてなぁ」


 ロシオが強気そうにドレフスキの言葉に答えた。


 ドレフスキは正面突破作戦から転換し、まず対角線上に置かれた先が尖った黒い駒を奪い、そこから外側から回りこんで王駒を攻める作戦に変更した。お互い残り3騎ほどしか残っていない状況で、チェスゲームはもはや双方の王の逃げ合いと化していた。


「二日後、楽しみですな」


 ドレフスキが笑顔を作ってロシオに同感を求める。


「ええ、とても。ついに我らにも、栄光の時が訪れますな」


 そして二人は、うわべだけの笑いを交わした。

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