1−6 崖から伸びる手

 シャンデリア。日光が窓から差し込む白昼でも、何も見えなくなるほどの暗い夜でも、絶えず眩い光でこの部屋全体を照らしている。しかしその燦々と輝く光は、先の明るい希望よりも、先に見える何もかもが楽な世界への扉にしかテレーズには見えなかった。


 テレーズは視線を下ろし、机の浅い引き出しの中に長い間しまっている一本の縄をじっと見つめる。きつく縛られた結び目が作る、少しばかり小さそうな輪の中に吸い込まれたい、もう何も感じたくないという願望、その一方で吸い込まれればもう戻れないという後悔、何もかもが消えてしまうことに対する恐怖。


 2つの相対する感情が彼女の中で疼き、一方が彼女を支配してはもう一方が「それは違う」とクーデターを起こして支配の座を奪取する。そのような何も生まれない負のループが何度も何度も彼女の中で繰り返されていた。


 恐る恐る触れる縄の、無機質で凸凹した感触。解けそうにもない大きな結び目を握ると、耳元に張り付いて消えない数多の声が蘇る。


「早く団長変わんねえのかよ」


「何もかもがダメダメだな」


「力のないリーダー」


「意気地無し」


「力不足」


「無能」


 ……


 やがてその声が、信頼していた人間の声とも重なり、まるで周囲には誰も助けてくれる救世主なんていないように思えてくる。誰も信じられない、そう思えるような体にテレーズはなってしまっていた。


 数えきれない暴言が重なり合ってエコーをなし、いつまでも消えずに彼女を谷底へと突き落とそうとしていく。いつ崩れてもおかしくない崖が「おいで」と彼女に手招きをしているようだった。


 ーー もう、いいや


 崖に引き寄せられるかのように、気づけばテレーズは取り出されることのなかった縄をすでに手に取っていた。


「さあ、おいで」


 その言葉で、テレーズは楽園への重い一歩を踏み出そうとした。


 コンコン


「テレーズ様、失礼いたします」


 団長執務室の外から聞こえた声で、テレーズは持っていた縄を慌てて引き出しの中に隠した。


 特にテレーズの許可なく入室してきたのは、一人の若く聡明そうな執事の青年だった。


「ア、アントンか。何の、用?」


 平常に戻れと自分を落ち着かせながら、テレーズは辿々しい口調でアントンという名の執事に話しかける。


「緊急のご来客です。テレーズ様にお会いになられたいというお客様がおいでですが、いかがいたしましょう」


「帰して」


 平穏さを徐々に取り戻し始めたテレーズは冷静な声で断る。


「私忙しいって言っといて」


「しかし、お客様はテレーズ様にどうしても、どうしてもお会いしたいと熱望されておられます。どういたしますか」


 テレーズは一瞬面食らった。そんなにどうしても、と言われれば気安く断るわけにもいかない。


「…… わかった。通して」


「かしこまりました」


 そう言い残して、アントンはこの部屋から立ち去っていった。


「失礼、します」


 しばらくして、再び扉を2度叩く音が聞こえたのち団長執務室に入ってきたのは、一人の若い、見た目からして下級のカタルシストだった。テレーズはその見た目にまだ新鮮な見覚えがあった。


「君は、昨日の!」


「はい、昨日の事件に関しては、私の親友が大変な無礼をはたらいたこと、心から謝罪いたします」


 そう言うと、ユーリは団長に対して深々と頭を下げた。やがて元の姿勢に戻ると、扉付近で待機していたアントンの方を振り向く。


「すみません執事さん、少しだけ僕と団長様の2人だけでお話ししたいのですが、よろしいでしょうか」


「しかしそれは……」


「アントン」


 急な下級の少年からの要望にアントンは戸惑う様子を見せたが、テレーズが落ちついた声で制止する。


「あなたは一旦退出して」


「…… 承知いたしました」


 団長の命令に素直に従うことにしたアントンは、上司のことが心配になりながらも部屋をあとにした。


「さてと」


 しっかりと扉が閉まる音が部屋に響くと、テレーズは珍しく階級の低い客に向き直った。


「今日は何の用で? 私忙しいから手短にお願いしたいんだけれども」


「は、はい、まずは、えっと、自己紹介を」


 二人きりになって緊張がさらに増したのか、言葉が辿々しくなったユーリは一旦大きく息を吸い込み、またゆっくりと吐き出した。


「ユーリ・ヴァーレントと申します。実は、フェドラン団長にどうしてもお目にかかりたいという方がおりまして」


 ユーリは緊張しながら言葉を紡ぎ出す。


「その人って、キミじゃなくて?」


「…… 僕の、中にいます」


 ユーリは数歩下がり、勇気を出して唱えた


「変身!」


 急に何か奇妙な光のようなものに包まれたユーリの体が柔らかい餅のように形を変えていく様子を見て、テレーズが警戒した様子を見せる。ユーリの体を覆っていた光がやがて消えると、そこに立っていた人物の姿を目にしたテレーズは驚きを隠せずにはいられなかった。色褪せることもなかった、しかし捨てようとしていた親友との記憶が一瞬にして蘇る。


「ナー、シャ……?」


「テレーズ……!」


「うそ、なんで……」


 3年以上前に離れ離れになってしまった2人は、どれだけ再びお互いの顔を直接見ることのできる日を待ち侘びていただろう。今このようにして幻でもなく、死んだはずの親友の顔が生きて動いている姿を見て思わず目が潤む。ナーシャも、まだ生きているテレーズと再び会うことができたことに大きな喜びを感じた。


「鎮魂されなかった私の魂が、ユーリの体に憑依したのです」


 ナーシャが事の経緯を説明する。テレーズはナーシャの姿を視界に収めたまま凍りついた。


「またこのような体で復活して、テレーズにまた会うことができました。こうしてやっとテレーズにあ……」


「…… 嘘つかないで」


 また会えた親友の口から聞こえた再会の言葉は、想像もしていないものだった。


「そんな、これは嘘なんかでは!」


「一度死んだ人間の魂が誰かに宿って姿を取り戻した? そんな話聞いたことがない! 本当のナーシャだったらきっと死んでもすぐに戻ってきてくれるのに!」


「私は、そんな人間じゃ……」


「うるさい!!」


 もはやテレーズは理性を放棄したように、目の前の「エセ親友」を捲し立てる。


「変な変身して私を騙して言いくるめようっての? へえ、やるじゃない。でも私はね、そんな幼稚なモノマネじゃ動揺なんてしない!」


「だから私は!」


「…… 私ね、今忙しいの」


 急に低いトーンで話し出したテレーズは、壁にかけて飾られてあった剣を取り、鞘から引き抜く。日の光が刃に反射して、眩しい剣先が「ニセナーシャ」に向けられた。


「ヘタクソ詐欺師なんか、とっとと私の前から消え去って!!」


 そう言い放ったテレーズは、机の上に足を乗せ、その勢いで目の前の「詐欺師」に跳びかかった。首目掛けて振られた飾り付けを、ナーシャが持つユーリの比較的廉価な剣が防御し、金属と金属が擦り切れ合って空気を切り裂くような音が響き渡る。


 ーー 強いっ……!


 最後に姿を見た時よりも剣の腕前が飛躍的に上達していることに驚きながら、ナーシャは渾身の質問を投げかける。


「テレーズっ、何があったのですか! 私はあなたのことなど一度も疑ったことがないのに!!」


 刃と刃が互いに震えながら牽制し、どちらも簡単に引くような気配を微塵も見せない。


「…… なかなか!」


 テレーズは最初の剣の交わり合いで相手を斬ることを諦め、一度机の前まで撤退する。体勢を整えると、再び尖った先端を喉に向けて慎重に照準を定めた。


「だから、早く消えてっつってるでしょが!」


 そう叫ぶとまたナーシャに突撃攻撃を仕掛け、またもや金属音のひしめく、終わりの見えない力比べが始まった。


「正気をっ、取り戻してくださいテレーズ! 私の知るテレーズはこんな人間じゃなかった!!」


 ナーシャは、まるで人格が丸ごと悪魔に取り憑かれてしまったような、疑心暗鬼の親友を必死で目覚めさせようとする。なぜここまで自分を疑ってしまうような心理に陥ってしまったのか。ナーシャは、一時も自分のそばを離れなかったテレーズを説得できない自分をとても悔しく感じた。


「いかにもペテン師めいた言葉を!」


 そんなナーシャの願いに一向に答えようとしないテレーズは、さらに攻撃的な口調で目の前の「親友めいた誰か」を煽る。


「私に会ったことがないからアンタの知らない私なんでしょ? 本当のアナなら、こんな時はなんて言うでしょうね!!」


 テレーズは剣を交わりから退かせ、刃を青白く光らせた。


 一歩後ろに構え、目の前に現れた「知らない人」の姿を目に焼き付けた。


浄化カタルシス……!」


 そして心臓めがけて、その刃が体を貫通して何もかもが消え去るように突進しようとした。


「…… アミチ・イン・ペルペトゥーム」


「っ!!!!」


 突然聞こえた言葉に、テレーズは動揺して動きを止める。胸の寸前でユーリの刃によって止められたテレーズの剣は、そこでピタッと静止した。ユーリの廉価モノには少しずつ小さなヒビが広がる。


 今、なんて言った? きっと、私と本物のナーシャしか知り得ない合言葉。なぜ、それを、あの「親友ではないかもしれない、でも本当は親友であってほしい人」が知っている? 本当に、私の望んだ、私の親友、私のメシアなのか……?


 相手はゆっくりと、ヒビ割れした剣を下ろす。飾り物の剣を「親友かもしれない少女」の心臓に突き刺すなんて真似をする勇気は、私にはどうしても出なかった。


「言ったじゃないですか、ずっと一緒だって」


 何だろう、この優しさは。


「覚えてますか」


 私と少し距離を縮めた彼女は、懐かしむように昔の出来事を数え上げる。


「初めてあなたの友達になった時も、大きなモンスターの前に立ちはだかった時も、一緒に家を飛び出してきた時も、鎮魂士団の幹部として共に引っ張っていく決心をした時も。永遠に友達でいようという約束を私は忘れませんでした」


 そうだった。そうだった。ずっと昔から、この契約を私は忘れなかった。


「これから友達ね、テレーズ!」


 高いトーンの幼い声がどこからか蘇る。


「アミチ・イン・ペルペトゥームって言うんだって! お家にあった本に書いてあったの!」


「アミ……?」


「アミチ・イン・ペルペトゥーム! 永遠の友達って意味なんだって!」


 あの時から、ずっと独りだった私を、ナーシャは守ってくれた。そう、モンスターに襲われた時も、郷里に別れを告げた時も、いかなる時も。


 そんな言葉を、私たちはずっと使ってたんだっけ。


 私、なんてバカだったんだろ。


 泣けてくる。


「私の知っているテレーズは、」


 もう目の前に立っているこの人が私に強く叫んだ。


「そんなことも忘れてしまったのですか!」


 目が熱い。何泣いてんだろ、私。でも。止められない。


「それでも私は、ずっとあなたの味方でいたいと心の底から思います。大切な、親友ですから」


 力が入らずに剣が手から滑り落ちる。涙が溢れてくる。


 気づけば私は、「本物のナーシャ」に無責任に縋りつきながら思いっきり泣き叫んでいた。


「うわああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 彼女が暖かく包むこの感触。ああ、懐かしい……!!


「ナーシャ! ナーシャ!!」


 名前しか呼べない。それしかできなかった。


「ごめん、ごめんなさいっ……!!」


「私こそですよ、テレーズ」


 耳の中に彼女の吐息を感じる。疑ってしまった私が、本当に、本当に情けなくて、ダサくて、悔しくて。消え去るべきはこんな私だったんだろうな。


「ただいま、です」


 おかえり。おかえり! 私の救世主が、帰ってきたんだ……!!


 ✴︎


「あのー、失礼しま…… えぇっ!?」


 部屋の中で急に泣き喚き出した団長を心配して、執事アントンがゆっくりと引き越し気味に扉を開ける。抱かれて思いのまま涙を流し叫んでいる団長を目撃した彼は、しばし状況を読むのに苦労した。


「あ、アントン……」


「ど、どどど、どうされたのですかテレーズ様!」


 執事の声を察知したテレーズが、涙目ながら扉の方を振り向く。こんな団長の姿を見たことがなかった彼の脳内は、さらに混沌を極める。


 しかもその団長を抱いているのは、かつてこの鎮魂士団を引っ張ったあの人にそっくりの人。思わずアントンは、そこにいた元パトロンに尋ねた。


「そして、なぜ、え、あなたは…… 前団長の、アナスタシア様……!?」


 もはやワケがわからない。頭の中がクエスチョンマークで満たされて何もかもがわからなくなる。


「事情は長くなるけど、そんなことどうでもいい!」


 涙を拭いたテレーズが、顔を赤くしながらアントンに命令を出す。


「アントン、すぐに幹部を集めてきて。緊急会議を開きます!」


 このカオスさから急な幹部召集命令という状況に、アントンはしばらく立ちつくした。


「ほら、早く!」


「は、はいっ!」


 テレーズが急かすと、アントンは急いで廊下へと駆け出していった。


 ✴︎


 誰もいない廊下の壁に寄りかかり、アントンはしばらく自分を落ち着かせようとした。


 あれはアナスタシア「様」か? 本物なのか? なぜここにいる?


 …… いや、そんなことどうでもいいか。


 これは一大事だ……


 アントンがこの時変な笑みを口元に浮かべたことに、誰も気づかなかった。

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