1−2 薬屋の二階

 ーー ここは……


 橙色の夕日が窓から斜めに差し込む部屋で、ユーリは意識が朦朧としながら目を覚ました。彼の目の前に広がるのは、少しすすがかかった屋根裏部屋の白い天井。太陽の光が反射する白は、彼にとってはいつもよりさらに眩しく感じられた。


「おお、目を覚ましたか、ユーリ!」


 ユーリの寝ているベッドの隣で、簡単に拵えられた椅子に腰掛けていたヒルベルトが歓喜の声をあげる。ヒルベルトは安心と喜びのあまり、椅子に落ち着かせていた腰を勢いよく上げ、前のめりになってユーリの顔に接近した。


「あれ、生き、てる……?」


 自分がいる場所を認識して、ユーリが小さく声を発する。


「まあ、何とか生存できてるって感じだけどな」


 高揚していたヒルベルトは気持ちを落ち着けると、再び椅子に深く腰を掛けた。


 ユーリは、だんだんと視界がはっきりとしてきているなか、ゆっくりとベッドに預けていた体を起こそうとした。しかし体を動かすに連れて体の随所がズキズキと痛みだし、思わず外にも響いてしまいそうな悶絶の声を上げる。


「あいたたたたっっ!!」


「よせ、ユーリ。無闇に動けばせっかく塞いだ傷口がまた開くからな」


 ヒルベルトに止められ、ユーリは力を抜いて仕方なさそうにベッドに横たわった。


 ここはユーリとヒルベルトの下宿。ガーラロア王国の首都、エレフセリアの街の一角に佇む薬屋の2階を間借りし、二人で一部屋を共有しながら暮らしている。


 何かと金にうるさい薬屋の主人のことを除けば全く不自由のない生活を送れるこの場所は、まさに彼らにとって住めば都であった。家賃は彼らの「育ての親」が払ってくれているおかげで彼ら自身は一銭も負担しておらず、仮に食料に困っても、薬屋が面している通りに出れば近所の人たちが優しく果物などを分けてくれたりもする。


 それでも部屋は決して住み心地が良いとは言えなかった。元々この屋根裏部屋が物置きだったこともあって、ネズミは出るわ、Gは出るわ、ホコリは掃除せどすぐに粉雪のように積もってしまう。そして何故か天井にはすす。


 壁は薄っぺらく、夏は外よりも暑く、冬は外よりも寒い。会話なんて隣の部屋に丸聞こえで、プライバシーの配慮のかけらもない。


 そんな環境下でも、彼らはここを拠点にした生活を十分楽しめていた。幼少期に2人がどれだけ憧れたか知れない首都での生活をついに叶えることができたという嬉しさの方が彼らの中では勝っていた。


「なあ」


 ヒルベルトがユーリに問いかける。


「自分に何があったかっていう記憶はあるか?」


 しばらくの沈黙の間、ユーリは一生懸命にありったけの記憶を遡ろうとするが、なかなか鮮明なイメージは脳内に戻ってこない。なかなか思い出せそうにないユーリに、ヒルベルトがヒントを与えた。


「お前が俺とウールスヴァルテンの森に戦闘練習に出かけたのは覚えてるか?」


 ユーリはゆっくり、コクッと頷く。


「あの後お前が俺とはぐれちまってさ、そんで探してたら、森の奥深いところでお前が血流して木にもたれかかった状態で気絶してたんだぞ。それを俺が何とかここまで担いてきたってわけよ」


 はぁ、といった表情で、ユーリはヒルベルトの武勇伝に耳を傾ける。


「まず城門が厄介だったな。いくら背負ってるユーリが友達ですって言っても全く信じてもらえないわ、それで門番を説得するのに1時間はかかるわ。もうてんやわんやだったんだぞ」


 首都エレフセリアは城塞都市であり、街の周囲は二重にそびえ立つ堅固な城壁で守られている。さらに今は「非常事態」ということもあり、セキュリティーはより厳重な体制が敷かれていた。


「ここに戻ってきてからも大変だったんだからな? 薬屋のジジイにありったけの回復薬をお前の傷口に塗ってもらったんだが、もうウチには在庫がなーい、どうしてくれるんだーって、金請求してきやがったぞあのボッタクリ」


 ヒルベルトは呆れたような顔をしながら家主の愚痴をこぼす。


 ヒルベルトの長すぎる話を聞かされていたユーリは、何もかもをヒルベルトに任せてしまった自分の弱さに大きな罪悪感を抱いた。申し訳ないという思いに駆られながら、親友の方に向けていた頭が下がる。


「なんか、ほんとに、ゴメン……」


「なーに、薬代なんぞ後で返せるくらいの金額だろ? 気にすんな」


 申し訳なさそうに声を振り絞って謝罪したユーリに、ヒルベルトは安心させるように親友の額に指先でそっと触れた。この感触がユーリにも小さな安心感を与えたおかげか、ユーリの顔から少し笑みがこぼれた。


 長話に付き合わされているうちに、ユーリの失われた意識は脳内で段々はっきりと鮮明になっていった。それに伴って、先程は全く思い出せなかった記憶が次々と湧きかえってくる。


 ヒルベルトと一緒に剣を片手に森に潜った記憶。振り返ればいつの間にか彼が消えていて焦った記憶。森の中で一人彷徨い、何度も行ったような来たような道を歩いた記憶。


 そんな記憶が鮮やかに蘇っていく中で、あの世にも恐ろしげな顔も頭に浮かんできた。


 ーー ゴブリン……


 鎮魂士として戦い始めてから遭遇したゴブリンの中でも最大級、人間の5倍はあるであろう体長のモンスターに、ユーリはビクビク震えながらその場から動くことができなかった。


 彼の記憶は、いくら思い出そうと努力してもそこで途切れていた。


 彼が死というものをこれほどまでに身近に感じたのは、あの事件以来かもしれない。ユーリはその淡い記憶を思い出しながら、その苦い味を噛み締める。


「…… ゴブリンに、遭った」


 ユーリの突然の告白に、ヒルベルトは驚いたような顔でユーリの冴えない顔を見つめる。


「ほ、本気で言ってんのか!」


 驚愕したヒルベルトは、ユーリの肩に両手を置く。


「ゴブリンって、大きさどのくらいだ!? まさかどでかいやつじゃねえだろうな?」


「確か…… 中型の、俺の身長の5倍はあったと思う」


「中型のって…… 何やってんだお前!」


 ヒルベルトはやがて頭の中で目撃情報を整理すると、呆れたようにユーリを叱った。


 あれほどの大きさの敵やモンスターに遭遇した場合に備え、基本的に彼らは自らの手で浄化できないものは無理に浄化せず、その場から逃げるように訓練しているものだ。当然彼らも、仕事初めの日に森で偶然出会った下級カタルシストにこのことはみっちりと叩き込まれているはずだった。


 しかし他よりも圧倒的に臆病なユーリにとって、この逃走技術は簡単に発動できるものではなかった。むしろ正義感に駆られることの多い彼は、逃げることよりも、たとえ身の丈に合わないモンスターでも自ら浄化せねばという思考に陥ることが度々ある。まだデビューしてから3日ほどしか経っていないにも関わらず。


「一昨日だってそうだったろ!? お前が戦うなんて言い出したから危うく巻きこまれてロックゴーレムに潰されそうになったじゃねえか! なんとか奇跡的に近くにいた中級の人に助けてもらったけどよ、俺までコテンパンに怒られたの覚えてねえのか?」


 ヒルベルトはつい熱くなってしまったせいか、次第に語気に力が入って声が大きくなる。1日1回、と言っていいほど親友に怒られてばかりのユーリにはもはや慣れたものでもあったが、このままではいけないんだ、という戒めの念が頭をかけ巡った。


「その件は…… ごめん」


 いつもよりも申し訳なさそうに、ユーリは萎えた声で謝罪した。


「いつしかこれを対人戦にも使わなきゃいけない時が来るってあの人言ってただろ。無理してるとお前の命ごと持ってかれかねねえぞ」


 ユーリは親友の言葉を受け止めて黙りこくる。しばらく気まずい空気が部屋中を支配した後、ヒルベルトは落ち着いたトーンで独り言を漏らした。


「……んまあ、俺もお前と変わんねえな」


 少し熱の冷めた彼は座っていた椅子に再び腰掛け、目を閉じながら自分のことも振り返る。


「お前はホントになんでもやっちゃうもんな。飛んで火に入る夏の虫っつーかなんつーか」


 少し呆れたようにヒルベルトは語り始めた。


「俺はそんなお前を抑える役。いつものことだけどな」


「まあ、あながち間違っちゃいないけど。早く強くなるためにもそうしなきゃ」


「そうだな。お前は強くなれるって信じてるもんな。異常なほどに」


 ヒルベルトは自信ありげに微笑んだ。


「異常ってなんだ!」


「ある意味の褒め言葉だろ、空気読めよ」


「ま、まあ、そういう見方もできるか……」


 若干照れ臭そうにユーリは言葉を返した。


「たしかに強くなれるって思ってるけどさ、その言い方だとお前は強くなんねえのかよ」


 仕返しとしてか、ユーリも捻った質問を投げかける。


「俺だってなるに決まってんだろが! でも、俺はお前と一緒じゃなきゃ嫌ってわけでもなくもない、かな……」


 自信ありげだった顔が紅潮し始め、大砲のように飛び出ていた言葉が急に勢いを落とした、か弱い鳥のようなものになった。それを見たユーリは思わずクスッと笑いが溢れる。


「あ? 何か、おかてぃいか!? ……うっ」


 咄嗟に自分の口から出た言葉で噛んでしまい、ヒルベルトの顔がさらに赤くなる。ユーリはベッドで横になったままさらに大笑いした。


「いやぁ、やっぱお前らしいなって思って」


 ユーリの目から少しばかり笑い涙がこぼれる。その小さな光り輝く粒を、彼はまだ痛みを感じる腕で拭った。


「大丈夫、俺もだ。お前と一緒じゃなきゃやだよ」


 ヒルベルトはまだ馬鹿にされたことが気に食わなかったが、親友の笑っている顔を見てなんとかしょうもない怒りを飲み込んだ。


「よし、じゃあ俺はなんかフルーツでも買ってきてやる。すぐ戻るからゆっくりしててくれ」


 ヒルベルトは座っていた椅子から立ち上がり、ドアの方へと足を向けた。


「ほんとにありがとな、何から何まで」


「なあに、あったりめえだ」


 そう言い残して、ヒルベルトは扉の向こうへと飛び出していった。階段を早いテンポで駆け降りる音が壁を伝って聞こえてくる。それが聞こえなくなると、ユーリは横向きの姿勢になって再び眠りにつこうとした。


 ーー 聞こえますか


 ふとどこからか聞こえた声。ユーリは閉じようとした目を開け、困惑しながらも部屋の周囲を見回す。


「……えっ……?」


 ーー あなたに語りかけているんです、ユーリ


 自分の名前が呼ばれ、思わずガバッと体を起こす。身体中がまだヒリヒリと痛んだがそんなことはこの状況下では全く気にならなかった。


「誰? ……誰!?」

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