1−1 白いハト

 ウールスヴァルテンの森。


 高く、青々しく生い茂った木々の狭間から、モンスターの大きなうめき声が響く。


「グロォォォォ!!」


 光のあまり届かない森の中で、身長5mほどの、緑の肌で覆われた中型ゴブリンが、ドシン、ドシン、と足音を鳴らしてゆっくり歩みを進めていた。


 ゴブリンが向かう先には、一人の少年、ユーリ・ヴァーレントが血を流して仰向けで倒れている。いかにも駆け出しのような、子どものお小遣いで買ったような新品装備は既に一部分が欠けている。彼の剣は少し離れた地面にグサッと刺されていた。


 彼の流した血は地面に滴り、落ち葉を真っ赤に染め上げる。


 ユーリは止まらない痛みを我慢しつつ、なんとか立ち上がろうとする。しかしもう残っているスタミナはなく、体を押し上げられる程の腕の力はすでに尽きてしまっていた。


「あっ……」


 腕から力が一気に抜けたのと同時に、彼は背中からドサっと倒れ込んだ。


 カタルシストーー魂を浄化し鎮める者ーーとして新たな一歩を踏み始めたばかりの彼にとって、このような展開が来るのはあまりにも早すぎた。倒しやすい練習用のモンスターに剣術で斬りかかり、動けなくした上で魔術を用いながら的確な場所にトドメをさす。そんな基本的な練習をしていたにしても、中型のゴブリンを相手に一人で立ち向かって勝てるはずもなかった。


 ドシン、ドシン……


 ゴブリンの足音が段々近づいてくる。ユーリは息が上がりながら、歯を強く噛み締めて立ち上がれない自分を悔やんだ。


 ーー こんな、ところ、で……


 ユーリはもう一度腕に力を入れようとする。しかし彼の腕はうんともすんとも言わない。


 彼は悟った。もう終わりだ。自分は死ぬんだ。諦めの感情が、彼の心を占拠していた。


 彼は死んだような目で空を見上げた。さっきまでしっかりと物が見えていた目も気がつかないうちにぼんやりと霞がかり、次第に全ての物体が丸みを帯びているように見えてくる。


 ーー あーあ…… 早々にゲームオーバーか


 視界が段々と狭くなっていくのを見送りながら、彼はそう心の中で呟いた。


 ドシン。


 ゴブリンは足を止めると、その足元に転がるひ弱な人間を見下ろした。しばらく少年を見つめたのち、ゴブリンは右腕を大きく振り上げて拳を作る。


 ーー 父さん、母さん……


 彼は心の中で両親の懐かしい、10年以上前の、もう忘れてしまいそうなあの優しい顔を最後に思い描いた。


 ーー 果たせなくて、ごめん、よ……


 彼の目から一粒、小さな涙がこぼれ落ちる。両親のことを思い出した途端、今度は何もできなかった自分に対する憎悪と侮蔑の念が一瞬頭をよぎった。


 彼は最後の景色を、ぼんやりとしてはいるが、冥土の土産としては十分すぎるほどのこの空の景色を脳裏に焼き付け、目をゆっくりと閉じようとした。


 その時。


 ポッ、ポー


 どこからともなく聞こえる鳥の鳴き声。


 バサッ、バサバサッ


 翼を大きく、忙しくはためかせる音も混じっている。


 彼の閉じようとしていた目にも、その鳥の姿は確認できた。わかったのはただ白いということだけだったが。


 その鳥は上空でユーリを見つめながら円弧を描くように周回していたかと思うと、急に体を真下に向け、横たわる少年目掛けて急降下してくる。彼にはそれが見えなかったものの、ただ鳥の翼の音が徐々にうるさくなっていることには気がついた。


 ーー 鳥……?


 その鳥はユーリの体にぶつかるかと思いきや、まるで吸収されるかのように勢いよく体の中に飛び込んでいき、フッと姿を消した。


 まともな思考力も失った彼は、鳥のことを考える余裕もなく、ついに目を瞑って死を覚悟した。


 ゴブリンはその様子を気に止める様子もなく、振り上げた拳で容赦なく最後の一撃を喰らわせようとした。


 その途端、ユーリの体が急に光に覆われ、ゴブリンの目を眩ませた。


「グッ……!」


 ゴブリンは驚いた様子で、下ろそうとした拳を急に止める。


 光を帯びた彼の体はなぜか動き出し、倒れたはずの体は、健康な人間と同じような二足での直立状態に戻った。そして若干の変形の後、一気に弾けたように体から光が消えた。


 そこにいたのは、あの弱々しい駆け出し少年ユーリではなかった。


 彼とは全く別人の、可憐な少女。可憐と言っても、単に可愛い少女ではなかった。彼の武装よりかは遥かに頑丈そうな防具を身に纏い、しかもその装備には金であしらわれた花の紋章が数カ所ある。


 ユーリの体は、不思議とそこにはない。ただそこには、なぜか別の少女が立っているだけだった。


「あなたですか。か弱い少年をいじめていたのは」


 少女が目を開け、最初の言葉をゴブリンに向かって放つ。


「中型のゴブリンですね。感覚戻しにはちょうど良い相手です」


 彼女はそばの地面に刺さっていたユーリの剣を引き抜き、試しに一振りしたあと、体勢を低くして剣を構える。


「代わりに私が相手をしましょうか。<跳躍ソート>!」


 そう宣言した彼女は、勢いよくゴブリンに向かって、普通の人間とはかけ離れた跳躍力で飛びかかった。


「グロォォォォァァ!!」


 ゴブリンは振り下ろそうとした拳を開き、強風を起こすほどの声で威嚇する。周囲の枝が大きく揺れ、彼女の金色の髪もブワッと空中に舞って靡いた。


 最初の一手、ゴブリンは飛びかかる少女目掛けて右腕を大きく振り回す。勢いよく振られた腕が少女の体に平手打ちを喰らわせたように見えたが、腕が通過した場所には不思議とその姿はなかった。下級のカタルシストならば、この一撃だけで容易に大木に吹っ飛ばされて背中を強打するところである。


 この時彼女は、既にゴブリンの右肩に飛び移っていた。ゴブリンが彼女の姿がないことに困惑している一瞬の隙を見計らい、動きが止まっている右の二の腕を目掛けて剣を振る。


「はぁっ!」


 彼女の勢い余って出た声と共に、刃の入った部分から大量の血が吹き出し、ゴブリンの右腕の大部分が切り落とされる。突然の出来事による混乱と激しい右腕の痛みに、ゴブリンは悲痛の叫びをあげる。


 その様子をみた彼女は地面に怪我なく着地した後、顔に付着した返り血を拭うことなく、すかさず次の行動に出た。今度はゴブリンが喚いているうちに左腕を目掛けて跳躍し、先程と同様、ゴブリンの左腕の大部分を切り落とした。ゴブリンはさらに大きく狂った声を放つ。


 そんなことで容赦する様子を彼女は微塵も見せない。次に、彼女は跳んだ先にあった大木の茎に一度両足をつき、そこからその反動を利用してさらにゴブリンに飛びかかる。


 今度は左肩に刃をかけ、そこから刃を深くゴブリンの体に入れたまま、左肩から右脇腹にかけて胴体を斜めに切ってゴブリンの胸の部分を大きくえぐった。


「グロォォァァァァ!!!!」


 森に響き渡る悶絶の叫び。


「これで終わりです! <浄化カタルシス>!!」


 地面に勢いよく着地した彼女が、最後にゴブリンの方を向いてこう言い放つと、剣が若干の青いオーラを帯び始めた。そして思い切り地面を踏み込み、再び跳躍の力を使ってゴブリンの心臓部分に向かって大きく跳ぶ。


 まだ苦悶するゴブリンの胸部に、彼女の刃がギラリと向けられる。そこから一直線、彼女の剣は勢いよくゴブリンの体の中にグサッと深く刺さった。


「グロォォァァァァアアアア!!!!」


 ゴブリンはこれまでで一番大きな声で痛みを露わにしながら、ゆっくりと背中から地面に倒れていった。寄りかかった一本の木がゴブリンの体重でへし折れ、背中から落ちるゴブリンとともに地へと押し倒された。ゴブリンの体から剣を引き抜いた少女は、ゴブリンの体が倒れていく中でタイミングを見計らい、スタッと優雅に着地する。


 やがて喚きが止んだゴブリンの体には、心臓がある部分の表面から徐々に亀裂が入っていき、そしてゆっくり溶け始めた。「浄化」され、凍結された赤い心臓だけは残されたまま、他の体の部分は跡形もなく蒸発し、自然へと還った。


 少女は体が完全に消えて無くなるまで、その様子を静かに離れて見守っていた。


「久しぶりに戦ったにしては出来はよくありませんね…… 体も結構鈍っていましたし」


 そう反省した彼女は、手に持っていた剣をまじまじと見つめ、空気を斬るように数回振った。


「悪い剣ではなさそうですね。しかし、私が使う分には扱いにくいでしょうか」


 剣の試し振りを終えた彼女は、血で染まった刃の部分を見て、フッと微笑んだ。少女にとっては、どこか懐かしい感じがしていた。


「ユーリー! おーい!」


 そんな時、そう遠くない木々の間から、ユーリという人を探す声。


「ユーリどこだー?」


 少女ははっと気づいて声の聞こえる方を振り返り、少し警戒した様子でその方向をじっと見つめる。徐々に呼び声と落ち葉を踏む音が大きくなっていく。


「ユーリいるかー? ユー……」


 木々の影から現れたのは一人の少年。ユーリとは変わらないくらいの比較的安価な防具を身にまとった、おそらくデビューしたてのカタルシスト。


 森の中に一人佇む少女を見つけて、少年は思わず歩みを止めた。


 こちらをじっと見つめる少女。装備からして明らかに自分よりかは上のカタルシスト。ところが手に持っているのは、何度も目にしたことのある剣。


 ユーリの剣。自分のと同時に彼が授かった、あの剣。


 でもそれを今手に持っているのは目の前に立つ謎の少女。そこにユーリはいないのに。しかも刃は血で赤くなっており、少女の奥には、モンスターを倒した時に残る浄化された凍結心臓が残されている。


 しかしそんなことは今の少年にはどうでもいい。


 少女の美しい金髪。こちらをキリッと見つめる警戒した鋭い目。かなり整った顔立ち。


 全てが少年、ヒルベルト・ゼドのタイプにどストライク。美貌は彼の中では100点満点、いや、200点をつけても足りない。一瞬目に入っただけで、人生で初めて自分の心臓を射抜かれてしまった。


「ほ、ほ、ほほ……」


 言葉にならなかった。声が詰まる間に、ヒルベルトの顔が急速に紅潮する。


「……」


「……」


 お互い何も喋らず、沈黙の時間が過ぎていく。


 ヒルベルトの顔が赤くなって少女に惚れ込んでいるのに対し、少女は逆に恐れたような顔をして彼を見つめていた。まるで何かいけないものを見てしまったような、「来るな」と言っているような目をして。


 数秒の沈黙のあと、少女はヒルベルトの動きをじっと観察しながら一歩、二歩下がり、やがて彼に背を向け逃げ出した。


「っ……!」


「ちょ、ちょちょっ、あのっ! 待って!」


 すかさずヒルベルトが逃げた少女の跡を追いかける。一瞬彼は残された立派な凍結心臓に目をやったが、彼はそんな迷いを振り切って少女を追いかけることに集中した。


 森の中に張り巡らされた太い根の間を、少女は自分の跡を追うヒルベルトからなんとか逃げ切ろうと、必死に自然の段差を跳び越えていった。


「待って!」


 後ろから聞こえる、彼女を呼び止める声。少女が振り向くと、気づけばヒルベルトと彼女の間には、2本の大木を跨ぐほどの距離が既に開いていた。


忍足ライゼ


 彼女はヒルベルトが見えなくなった一瞬の隙を見計らって静かに魔術を唱えると、あまり目立たない木の影に音を立てずに瞬時に移動する。


「あのっ、決して、変な人間じゃ、ないんですが……」


 あの駆け出しカタルシストが発する言葉は、もうとっくに小さくなっていた。彼女は木の影から、追手が遠く離れていることを確認すると、安心したように胸を撫で下ろして緊張を解いた。


 ーー ここならば……


 ✴︎


 カラーン、カラン


 遠くの方で今微かに聞こえた、何か硬い金属が地面を打つ音。


「もしかして……」


 あれからあの綺麗な少女を必死で探し続けているヒルベルトは、期待と不安を胸に、音のした方へと足を運ぶ。


 少しばかり大木の根をいくつか越えると、少し離れた木の影からわずかに白い手がはみ出ているのが見えた。誰かが自ら命を絶ったのだろうか、そんな恐怖に襲われながらも、彼はその体のある方へと進み続けた。


 そしてもうあと数歩ほどの距離にまで詰めたとき、ヒルベルトは見つけた。体の手前に横たわるあの剣。ユーリの剣。そしてあの人がなぜか手にしていたあの剣!


 そしてその奥には、一日も見なかった日はない、大量の血に塗れた大親友の体がぐったりと気絶した状態で木に寄りかかっている。


「ユーリ! 大丈夫か! ユーリ!!」


 ユーリを懸命に呼び戻す声が、静かな森じゅうに響き渡った。

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