記憶喪失的少女

 汀くんと別れたあと、何事もなく家まで戻り、玄関を開けて廊下を抜け、リビングを覗くと、

そこには何とも言い難い光景が広がっていた。

 ここで問題です。

 家に帰ったら同居人の女性が拾ってきた少女を下着一枚にしている場面に遭遇した時の僕の思考の様子を100文字以内で答えなさい。

 ……とまあ、そんな問題文が脳裏に一瞬浮かんでしまうくらいにはびっくりした。

 師匠はあのブルトンハットちゃんの腕をとって脈を確認したり、おなかに手を当てて首を傾げたりしている。

 触診って奴だろうか。

 師匠は医者ではないはずだが、彼女のことなのでそういう技術を持っていてもおかしくはないだろう。


「なにしてんすか」

「ん、おかえり愚弟子。意外と早かったわね。もしかしたら朝帰りかなーなんて思っていたのに」

「そんな放蕩野郎でもないですよ、僕は。それに、探偵業の一環ですし……って、それはいいんですよそれは。この状況はいったいどういうことなんですか」

 

 僕は極力、下着姿の少女の方を見ないようにしながら、師匠に尋ねる。

 

「おっと、そうだった。ごめんね、服着ていいよ。……愚弟子、見てないよな?」

「見てません。見てませんよ、下着なんて。とりあえずむこう向いてますから、手早くお願いします」


 とりあえず二人に背を向ける。

 全く、いったいこれはどういう状況なんだ。

 触診するにしたって、下着姿にする必要はなかったんじゃないのか。師匠は変人だけど、変態ではないと思っていたんだが。

 ほんの数十秒、衣ずれの音がしていたが、すぐに聞こえなくなった。

 もういいかな?

 

「もういいわよ」


 師匠のその声で、僕は振り向くと、ブルトンハットちゃんは薄い若苗色の寝巻に身を包んでソファに座っている。師匠はその真向いで、彼女を観察するように座っていた。

 僕はその隣に座る。

 此処に至って、僕はようやく彼女の顔をきちんと把握する。

 その顔は、僕の胸ポケットの中に入っている写真のあの子と、確かにおんなじだった。

 身にまとう雰囲気は、穏やかで、おとなしそうな。

 しかしやはり、ドッペルちゃんとはあまり印象が重ならない。顔のパーツはおんなじなのに、放たれる空気感が真逆だ。

 これにも何か理由があるのだろうか。あるとしたらそれはどんなことなのか。

 そんな疑問を抱きつつ、僕は彼女に挨拶をする。


「初めまして……とはいっても、昨日ちょっとすれ違ったけど。僕の名前は八百塚やもつかなごむっていいます」

「はい。お話はいろいろ、お姉さんから聞いてます」

 

 どうやら、師匠から説明はされているらしい。

 なごむくん、か。意外と距離を詰めるのが速い人なのかな?

 茶野ちゃんの話だと、そんな感じじゃあなかったけど。

 ぺこりと頭を下げる彼女は、この状況にあまり動じてはいないようだった。

 何を聞かされたのかっていうのは、少し気になるところだな。

 変なこと言ってないといいんだけど。

 

「そうすか……それで、君は?」

 

 僕は、さりげない風を装う。

 内心の緊張は、気づかれていないだろうか。

 この外見を観れば、彼女が逆佐原みほその人であることは間違いないだろうが、彼女にとって僕は初対面の人間だし、怪しまれてもいけないだろう。

 慎重に行かなければ。

 ……ん? そういえば、みほちゃんは外に出られなかったのでは……?

 唐突に浮かんだ疑問に対する思考を遮るように答えたのは、目の前の彼女ではなく、師匠だった。


「あー、それなんだけどね。その子今、自分のことが何もわからないのよ」

「……記憶喪失ってことですか?」


 師匠は頷く。

 目の前の彼女を見ると、困ったように眉をまげて、こくりと首を縦に振った。

 なんと。

 そうなると、ドッペルちゃんについてのことも、茶野ちゃんについても抜け落ちているということか。


「身元は、分かったんですか?」

「あー……。それがねえ、全く出てこなかったのよ。機関の諜報部門にも手伝ってもらったけど、まるっきり何も出てこなかった。この子の身元を証明するものは何も」

「え?」

 

 師匠は深くため息をつきながら、肘をついて苦虫を嚙み潰したような顔をする。


「この子自身も、そういうものは何も持っていなかったし、1日使ったけどまったくもって情報が出ない。どこの出身だとか、両親はどこかとか。なーんにもね。普通は顔写真さえあればどこのどんな人間だって探し出せるくらいの包囲網は持っているはずなんだけど……」


 師匠は残念そうにふるふると首を振った。

 それは……どういうことだ?

 目の前のこの子が真にみほちゃんであるならば、彼女は学園に所属しているはず。

 曲がりなりにも学園という教育機関に所属している以上、そのためには戸籍だって必要だし、身元を証明するものがいるはずだ。

 それが……ない?

 

「……師匠、ちょっといいですか?」

「ん?」


 みほちゃん(仮)に聞こえないように耳打ちする。


「この子について、ちょっと話しておきたいことがいくつかあるんです」

「……それ、彼女には言えない?」

「はい」

 

 師匠はちらりとみほちゃん(仮)の方を見て、思案するように顔に手を当てる。

次の瞬間には「わかった」というと、隣の彼女に向きなおった。


「ごめんね、ちょっとこいつと話をしておくことがあるから、席を外すけど。いい?」


 とても穏やかに、優しい口調で師匠は言う。

 それに対して、みほちゃん(仮)はこくりと頷く。きょとんとした顔は、余り状況を呑み込めていないようだった。

 席を立ち、彼女が見えるように、しかし向こうからは見えにくいようになっているリビングと廊下をつなぐ扉の前で、僕と師匠はこそこそと話し始める。


「んで? あの子について話したいことってなにかしら? 身元を知ってるとか? もしかして知り合いだったりする?」


 師匠は腕をくんで、まくしたてるようにいう。

 案外お人好しなこの人は、内心彼女がひどく心配なのだろう。

 面倒だなんだといっておきながら、なんだかんだで手を差し伸べてしまう人。

 打算的でありつつも、情に流されやすいのだ。

 それはともかくとして。


「知り合いって、わけじゃあないんですけどね……」


 そう言って、僕は胸のポケットから写真を取り出す。

 もちろんそれは茶野ちゃんから預かったものだ。

 仲睦まじそうな二人の少女が写っているそれを、師匠に手渡す。

 それを受け取ると、師匠は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに目を見開いて驚愕する。


「……あなた、これどこで? ……ってもしかして」

「はい、そのもしかしてです」


 僕は師匠に、今日会った一連の出来事を語った。

 茶野ちゃんと対話し、その足でドッペルちゃんと会合したこと。

 ドッペルちゃんと語り、そして逃げられたこと、そこで起こった不可解な事象。その後の顛末。

 そんな奇妙な話を聞いていた師匠は、少し顔をしかめる。


「つまり、なにかしら? 記憶喪失のあの子は、そのドッペルゲンガーのオリジナルってことになるのかしら?」

「そうですね、その可能性は極めて高い」

「断言はしないのね」

「本当は、帰ってきたらすぐに彼女に確認して裏を取りたかったんですけどね……。あいにく、全部忘れてたんじゃ真偽もへったくれもない」


 現状に進展があったかと思えばこれだ。

 まるで解決を急ぐ僕を足止めするように問題が沸き上がってくる。

 

「師匠、確認なんですけど本当に彼女は記憶喪失なんですか? 嘘をついているっていう可能性は?」

「それはないわよ、ちゃんと医者にも見せたし。 まあ身元が開示できなかったから裏ルートで見せたけど」

「……仁藤先生ですか」


 師匠みたいな裏の世界で活動しているなんかが医療機関を使おうと思ったらそうなるか。

 ……裏の世界って、裏って。

 そう呼ぶのが自然なくらい、表に出ることのない「機関」が師匠の所属組織だし、おおっぴらに活動できない身分ではあるのだけど、それにしたって裏の世界ってなあ。

 これも十分、非現実だ。

  

「原因って、わかります?」

「精神的ショックによる一時的な記憶の喪失、だそうよ。ショックによる精神的ダメージからの防衛のために記憶を封印してるって感じらしいわ」


 精神的ショックによる記憶の封印。

 それはつまり、こころに深刻なダメージを負った結果、もしくは負わないようにするために自ら記憶を埋没させたということだろうか。

 そこで僕は茶野ちゃんから聞いた話を思い出す。

 ドッペルゲンガーにひどく怯え、精神的にも追い詰められていた彼女。

 もしかしたら、それが原因なのかもしれない。

 

「薬物使用の痕跡も、目立った病気の症状も、頭への外傷もないってことだから、それは確かなんでしょうけどね」

 

 師匠は扉の向こうの彼女に目をやる。

 座りが悪いようで、そわそわとあたりを見回している彼女。

 自分のことが何もかもわからないというのは、彼女にとってどんな気分なのだろうか。


「というかなごむ、ほんとにドッペルゲンガーに行き合ったの? 幻覚とか、他人の

空似とかではなくて?」


 師匠のその疑問はごもっともだし、僕自身だって信じられないが、そうは言ってもいられない。何しろ目の前で人が消えたのは事実だし、まるでそっくりな二人の人間を見たのだ。


「それか双子とかの可能性は?」

「それは……」

 

 それは考えてなかった。

 ドッペルゲンガーという先入観と、実際に起きた衝撃的な事象の所為で、単純なその可能性を見落としていた。

 確かに双子というなら、みほちゃん(仮)とドッペルちゃんが瓜二つなのは当然だし、入れ替わりも容易だろう。

 しかしどうしてそんなことをしなくてはならないのか、という疑問は残る。

 茶野ちゃんがそれを知らなかったのは、みほちゃんが言っていなかったということになるが、10年来の幼馴染がそれを知らないことなんてあるのだろうか。

 

「ま、どちらにせよ記憶が戻らなければ意味ないわね。それにしても、瞬間移動か……泡のような現象って、やっぱり美作の…………でもあれはただの自然現象で……いやでもだとしたらやはり彼女は…………しかし裏を取らなければ……」


 ぶつぶつと師匠は独り言を始めてしまった。

 考え込むといつもこうだ。

 

「あの、師匠? 何か分かったんですか?」

「……ん? …………そうね、私の抱える案件と、貴方の探偵業務がつながってるってことが分かったのよ」


 それは、僕も昨日ドッペルちゃんに出会った時そう思って、だからこそ茶野ちゃんにみほちゃんについてのあれそれを聞いたり、写真をもらったりしていたのだが。

 師匠もとっくにわかっているはずでは?


「ええそうね、分かってはいるわ。……やっぱり、話しておくべきね」


 師匠は踵を返すとリビングに戻りみほちゃん(仮)のとなりに座って、彼女に写真を手渡した。


「って、何やってるんですか師匠!」

「なにって、こうした方が手っ取り早いでしょう。記憶も取り戻すかもしれない」

「それはそうかもしれませんけど!! もっと慎重に行きましょうよ!」


 写真を手に取るみほちゃん(仮)はじっと見つめていたが、そのうち息が荒くなって行く。


「これは、わた、し? このとなりの人は…………」

「なにか、思い出せそう?」

「わたし、わたしは、……この、子は……うぐ」

「師匠、やめましょうよ! 苦しそうじゃないですか!」


 頭を抱えて息を荒くするみほちゃん(仮)。

 しかし師匠は、みほちゃん(仮)の肩を支えるように抱いてだまって彼女を見ている。


「はッ……はぁッ……さ、……?」


 そうつぶやくと、ふらりと体を師匠のほうに預けて倒れこんでしまった。


「師匠!」

「……大丈夫よ、気を失っているだけ」


 みると、少し苦しそうではあるもののきちんと呼吸はしていた。

 

「少し暴力的な措置だったわね……。ごめんなさいね」


 師匠はみほちゃん(仮)の髪を優しくなでると、そって抱きかかえて寝室へと運ぶ。

 僕はそれを茫然と眺めていた。

 突然の師匠の暴挙に、言葉がでなかった。

 師匠はリビングに戻ってくると、ソファに深く腰を沈めて、ため息をついた。


「どうして、あんな強引なことを?」

「……あわよくば記憶が戻てくれたら御の字だったのだけどね……」


 そうして師匠は、みほちゃん(仮)を見つけた時のことを語り始める。

 僕が抱えるドッペルゲンガー事件と、師匠の抱える事件。

 その二つは、どうやら交錯しているようだった。

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