◇◇◇◇◇

 やしろもりを抜けると、土手に繋がっていた。空には昇り始めたばかりの満月が、山吹色に煌々と輝いている。夜の帳は隙間なく、目で見る全ての景色に降りていた。

 土手のけもの道を母さんと朱夏が下っていくのが見える。川べりへ歩いて行く二人を目で追っていると、二人の他にも浴衣や黒衣に身を包む沢山の人が集まっていた。


 

――夏祭りの後に、朱夏とこの川に来たことがあった。祭りの喧騒からはぐれたような、静かな夜を怖がる小さな手を引いて。日が落ちてもいつまでも暑さの引かない茹だるような夏の夜、川の水の冷たさに二人ではしゃいだ時間が今では嘘のようだ。

 

 黒衣に身を包んだ朱夏の顔から、あの日のあどけなさが消え失せている。まだまだ年端のいかぬ子供のはずが、これから私が背負わせるものの計り知れない重さが滲むような表情に、無いはずの心臓が鈍く痛んだ気がした。


 

 静かな夜の下広がる光を抱いた清流。いつの間にか母さんの手の中に灯りが――、そうか、この光は灯籠の灯だったのか。視線を動かし川辺の人々の表情をなぞる。哀しみ、慈しみ、そして祈り。哀悼に満ちた静寂の上を、ただ川の流れていくサァサァとした音が響いている。灯籠流しの夜だ。



 

「朱夏、灯籠を流すよ」

「……」



 朱夏はなにも答えない。小さく肩が震えているのを、こんなに近く、触れられる距離にいるのに、私にはもう何もしてやれないというのか。この子の育ってゆく過程を、築いてゆく人生を、その瞳に映る世界から色を奪うばかりで、私には、何ひとつしてやれる資格がないというのか。

 縁側にうずくまったまま過ぎていった夏。紫陽花が咲きただれていくまでの時間を繰り返すばかりの、私は、夏の亡霊になってしまった――――。

 体の輪郭線はどんどん消え失せている。もう私を私と認識していられないくらい、意識は混濁し始めていた。崩れるように座り込んだまま、とうとう立ち上がることさえ叶わなくなった。



 

――――死んだら人は、どこへかえってゆく?

 体がなくなってもなお消すことのできなかったこの心は、どこへ――――――。



   







 不意に、なにかが鼻腔をかすめた気がした。

 閉じているのか見えていないのか分からない真っ暗な視界の中に、懐かしい感覚が浮かぶ。それは時折激しくて、静寂で、とても懐かしい匂い、この匂いは。







「雨……」



 雨だ。雨が降っていた。

 噎せ返るような熱を抱えたまま迎える夜に、雨樋あまどいを伝う水音が心地いい縁側に、来る日も来る日も降り注いでいた、六月の雨と同じ匂いがする。


 湿った雨の匂いをかぎ取ると、ゆっくりと体が戻っていくような確かな感覚があった。閉じていたらしい瞳を開けば、しとしとと優しい音を立て、山吹色の満月の下で川面を弾く雨が降り注いでいる。うなだれたままの両腕に、こそばゆい雨の当たる感触がしていた。





「おやおや。月が出ているというのに、雨が降ってきたねぇ」



 そう独りちる母さんの言葉が聞こえているのかいないのか、急にハッとしたように朱夏が顔をあげた。朱夏の前髪やその小さくて可愛らしい鼻を、静かに雨が濡らしていく。


 赤い紫陽花を抱えたまま、朱夏は雨に打たれていた。夜の中に浮かぶその鮮やかな赤色は印象深く、私の目を奪ったまま、滴るしずくの一滴にまでその赤を滲ませているようだ。……まるで、生の象徴、血液のようになまめかしい――――。

 川原の濡れた草や小石の感触。繁茂はんもする緑の噎せ返るような匂い。真夏の夜の中に浮かぶいくつもの情景、感覚。そのどれもがとても心地よく、酷く私を安心させた。

 静かに雨に打たれていた朱夏が、その小さな体を不意に動かした。手の中の赤に奪われていた視線を上に向けると、私の方へ向き直った朱夏と目が合っているではないか。



「……あす、か」


 無い筈の心臓が確かにドン、と大きく動いた。早鐘を打つ鼓動の細かい震えが、鈍く体に伝わってくる。私の声に朱夏は微動だにしない。聞こえてはいないのだ。でも確かに、確かにその瞳は私を捉えている。細かい雨が降る月下、私は確かに朱夏と向き合っている。







「おかあさん」




 吐息のように掠れた小さな声で呟くと、雨に濡れた真っ赤な紫陽花を小さな体でかくまうように抱きしめる。隠れた顔。幼い腕を伝う雨水が、朱夏の涙のように見え胸が詰まってしまいそうだ。


 頭の中でチリン、と小さく鈴の音が響いた。言葉を失ったまま、声が出てこない。どうせ聞こえはしないというのに、うつむいた小さな体を雨が打つのを見ていられず、絶え間なく流れていく感情の中から必死に言葉を探し続けた。多くの言葉に触れて、沢山の感情を知り心を豊かに育んできた人生だったはずだ。なのにどうして、どうしてこんなにも言葉が見つからない。愛おしい我が子にかけてやる言葉一つ、今の私には持ち合わせていないなんて―――――。


 うつむいていた朱夏の視線がゆっくりと紫陽花に注がれる。私はその静かな所作をなぞるように見つめた。雨に濡れた手の中の赤い紫陽花を見おろす、朱夏の伏し目がちな瞳。そしてゆっくりと、小さく息を吸い込んで、朱夏は口を開いた。












「あかあさん、迷子になってない?」









 ――――優しい、やさしい声だった。聖母のようなまなざしを赤に注ぐ彼女は、美しい婦人のようだった。雨に打たれた子供のような心持ちになっていたのは、私の方だったのだ。朱夏は紫陽花に話し続ける。





「泣かないで。あすか、ちゃんとわかるよ。おかあさん、ここにいるんでしょう」



 五感を取り戻している体に、涙が伝う感覚が満ちる。姿かたちを視認できなくても、確かに繋がっている何かが此処にはあるのかもしれない。分かってやりたい、分かってほしい、抱きしめたい、抱きしめてもらいたい――――。

 朱夏の手の中に雨の中浮かぶいくつもの感情を、静かに受け止める赤い紫陽花が咲いている。


〝雨の日には、幽霊が赤い紫陽花を見にやって来る。鮮やかなこの色に、生前の記憶を映して〟


 縁側で母さんが言った言葉をふと思い出していた。庭に一株だけ咲いたこの赤は、彼岸と空蝉うつせみを繋ぐ御守りなのかもしれない。






「おかあさん、あすか、さみしくないよ。アジサイが咲いたらまた会えるよね」






 小さな声でそう呟くと、大切そうに紫陽花を抱きしめる。願うように、祈るように、一層強く抱きしめるその仕草は、紛れもない〝お別れ〟の仕草だった。



〝チリン〟

 また鈴の音が響いている。そうか、これは合図なんだ。黄泉の門が開いた、お別れを告げる合図。私の未練は、朱夏の成長を見守ることができないこと。そして、なにより朱夏から感情を奪ってしまうことだった。

〝さみしくない〟というその言葉の後ろに、自分を鼓舞する懸命さがあった。小さな体の中に途方もないほどの大きな心を宿し、この子はきっと優しい人になるだろう。


 瞬きほどのほんの短い時間だったが、この子が私を母にしてくれた。掛け替えのない瞬間をいくつも心に残してくれた。朱夏。私の〝色彩〟のすべて。私の〝いのち〟のすべて。私の〝世界〟のすべて。



 紫陽花を抱きしめる朱夏の肩に、母さんがそっと手をあてる。顔を上げ母さんと目を合わせると、一度だけ頷き合う二人。――そろそろ時間のようだ。




 気が付くと雨は上がっていた。静かでたおやかな川辺に月の光が満ちる。雨を吸い込んだ茂る緑の匂い。夜と混ざった残暑の気配。どんな季節も、この世界は本当に美しかった。景色も、言葉も、色彩も、心模様も。この世界を彩るすべてが本当に愛おしかった。いつかまた、大切な人たちに出会える日があると信じて。





 



 「帆夏ほのか。迷わずいきなさい」





 優しい所作で川面へ灯籠を送り出す母さんの手。滑らかに流れ出した灯籠の灯りを吸って、川面が柔らかく光を抱く。そのすぐ後ろを、朱夏が浮かべた赤い紫陽花が行儀よくついて行く。なんて綺麗なんだろう。赤い紫陽花にまで光が灯ったように、その鮮やかな色はこの夜に一層濃く浮かんだ。いくつもの灯りが通り過ぎてゆく。縁側に留まっていた時間は川のように流れだし、とても穏やかな気持ちが体を包み込む。


 灯籠と紫陽花が川の中腹にたどり着くと、そこへ光に包まれた大きなつぼみが生まれた。私にしか見えていない幻だろう。やがてゆっくりと蕾が開くと、中から祈るように手を組んだ麗人が現れる。

 優雅な仕草で指をほどいた麗人の手の中に、色とりどりの花が溢れるように生まれていった。彼女は花たちを夜空へ押し上げるように空へ放ち、ゆっくりとその両腕を広げる。色とりどりの花弁が舞い、後光差す彼女は羽衣を纏う天女だ。極楽浄土の入り口。黄泉への案内人だろうか。慈愛に満ちた眼差しで、大いなる愛に包まれる。なんて、温かいのだろう。

 天女は右手を差し出し、私がそこへ来るのを静かに待っている。色の溢れた光の方へ、心はゆっくりと動き出した。一歩、また一歩。彼女に近づく度、走馬灯のように記憶が溢れていく。懐かしい、愛おしい、優しい記憶だ。



 ――彼女の目の前へたどり着いたとき、最後に見た走馬灯は朱夏が産まれた雨の日だった。天女の手を取る前に一度だけ朱夏の方へ振り返る。

 灯籠を流した場所から動くことなく、朱夏はこちらを見つめていた。とても静かな瞳だ。勘違いなんかじゃない、この夜の下、今確かに朱夏と私は通じ合っている。永遠のような刹那を確かに見つめ合っている。



「ありがとう、朱夏」


 朱夏へ向けて微笑むと、気が付いたように朱夏も微笑み返してくれた。久しぶりに目にする、待ち焦がれていた愛らしい朱夏の笑顔。頬の涙は乾いていないが、どこにも無理のない、優しい表情だった。――それでいい、どんなに涙を流しても、最後にそこに光が灯るのなら。笑えるのなら。それでいいんだよ、朱夏。








 最後の笑顔を目に焼き付けて、私はゆっくりと天女かのじょの手を取った。

 瞳を閉じると、雨上がりの夏の夜の匂いがした――――。





 















 








 

 

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