◇◇◇◇

◇◇◇◇◇



 夕刻に差し掛かって、縁側には茜色の斜陽が満ちていた。

 

 今しがたまで降り続いていた弱い雨は止み、草木を濡らした露が、つかの間の光をうけて煌めいている。すぐそこへ、夜が迫っていた。


 いつからここにいるのだろう。 

幾度も夜が明け、そして暮れていった気がする。眠ることもしないのに、記憶は途切れ、切れ切れになった欠片は見つからない。



 私は、いつまでここに? 何の為に――、




「朱夏、いくよ」



 玄関口に人影が見える――母さんと朱夏だ。


 黒衣に身を包んだ朱夏の向こうにゆうるりと、花冷えの溜息のような白い煙が立ちのぼっている。

 小さな彼女の手の中には、赤い紫陽花が咲いていた。


 はっとして庭先の池の方へ視線を移す。宵待ちの草花、その中に、赤い紫陽花の姿は無くなっていた。




〝一緒においで〟母さんの言葉が頭をよぎった。




――――――――――――


――――――――


――――――


――――田園にうす暗い影が差し、夜の帳が降りてくる。

 

 隣家が離ればなれに並ぶ一本道。時々あぜ道の向こうを眺めながら、母さんと朱夏は歩いてゆく。言葉は交わしていない。


 私の体は心許なく、歩いているのかさえ不確かなほどの倦怠感にまとわりつかれていた。

 前を行く母さんと朱夏の着物の裾がたなびいている。風が吹いているのだろう。

顔を下げ、無意識に指先で前髪をおさえる。

 

 横髪を耳へと流した時、すぐ真横を浴衣を着た小さな女の子が走り過ぎて行った。

藍色に映える真っ赤な椿の柄。金魚の尾ひれのように柔らかくくゆる兵児帯へこおびの赤色。



「…………」


 また重さを増した心が痛んでいる。鈍い痛みが続いている。

 夜の気配がすぐそこまで迫っていた。

 また、夜が来てしまう。

 抜け出せない、独りきりの同じ夜が。



 浴衣の女の子は神社へ続く竹林の小道へと消えて行った。母さんと朱夏は気に留めるそぶりも無く、同じ小道へと進んでゆく。

 後を追って小道に差し掛かると、わずかな日入りの名残と竹林の暗がりとが混ざり合い、辺りに青みがかった夜がおとずれていた。

 両脇には紫陽花の群れ。藤紫、薄群青、真珠色。

 夜に見る夢のような色をしていた。


 時折、朱夏が抱えている赤い紫陽花の花弁が見える。前を行く二人の黒い着物と、夢幻の夜に咲く穏やかな紫陽花の色を見つめていると、言葉の見つからないまま物哀しい気持ちに押し潰されてしまいそうだ。

 竹林の葉がこすれる音が聞こえる。ここにも風は吹いているのだろう。


 やがて小道の果てに鳥居が現れた。奥に続くひっそりとした参道。

鳥居の前で姿勢を正すと、母さんは朱夏へ目線を落とした。朱夏は頷くと、母さんと一緒に小さく一礼をする。

――そのすぐ横を、再びあの浴衣の女の子が走り抜けていった。




 鳥居をくぐり、参道を行く母さんと朱夏の後ろをとぼとぼとついて行く。二人の足取りは決して早くないのに、次第にその距離は開いていく。気がついた頃には〝歩いている〟という感覚さえとうに消え失せていた。

 守るように茂る杜が茜を遮り、薄暗い参道を石灯籠の灯りが照らす。まるで黄泉の国への入り口みたいだ。ゆっくりと剥奪されていく、感覚が塞がる音が聞こえるような気すらした。


 横髪を押さえて下を向いたまま、立ち尽くす私の足元に影は無い。このまま闇にのまれてしまったら、またあの縁側で干からびてゆく紫陽花に留まってしまうのだろうか――――――、



 不意に、下を向く私の真横を誰かが駆け抜けていった。視界の端を泳いでいく金魚のような赤い兵児帯。導かれるように振り向くと、そこには、煌びやかな景色が広がっていた――――。

 参道の両脇には赤提灯が渡り、賑やかな祭囃子の中を浴衣を着た人々が歩いて行く。様々な屋台に彩られた夜に、色めき立つ人々の活気が漂うこの景色は〝夏祭り〟だ。いよいよ黄泉に近づいているらしい、記憶が魅せる幻影だろうか。

 行きかう人の真ん中を、浴衣を着た小さな女の子が走り抜けていく。











『――――朱夏あすか!!』




 突然背後から聞こえた大きな声に、感覚がほとんど残っていない体が強張るのを感じた。振り返ることを躊躇ためらっている間に声の主は私の横をゆっくりと過ぎてゆく。顔を見ずとも明白なこの声は、紛れもない

 に呼ばれ、狐のお面をつけた小さな女の子が振り返る。お面の下から覗いた顔は、幼い頃の朱夏だ。



『こら、朱夏。勝手に居なくなる奴があるか』

『おかあさん! キツネさんをつけてるのになんでわかったの?』


 お面を外した朱夏の前にしゃがみ込み、小さくて可愛らしい鼻をつまむ。照れたようにの指先を包む、朱夏の柔らかい小さな手。



『朱夏のことは後ろ姿でだって分かるさ。当たり前だろう』

『そうなんだ! あかあさんすごいね』


 頭を撫でるの手。身をよじって愛くるしい笑みを浮かべた顔で、を見つめ返す瞳。


『さ、行こう。まだりんご飴食べてないだろう? 買いに行くぞ』

『うん!』


 立ち上がったは朱夏の手を握り、立ち尽くす私の横をまた通り過ぎてゆく。二人仲良く手を繋いで、祭囃子の中へと消えてゆく。

 すれ違いざまに朱夏がを見上げ、嬉しそうな声で呟いた。






〝おかあさん、あかあさんが迷子になっちゃったら、どこにいてもあすかが、かならず見つけてあげるからね〟





 その言葉にハッとして2人を振り返ると、煌びやかな喧騒は消え失せて、ぼんやりと石灯籠が照らす参道だけが残っていた。――これは私の記憶だ。大切な、私の記憶。


 気が付くと参道には誰もおらず、前を歩いていた母さんと朱夏の姿が遠くの方に見えていた。






 


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