◆10 

 ――――たった一つ、 

 一つだけ、

 

 後悔していることがあった――――




「……死んだらな、何も残らないって思っていた。大切にしていた物、好んで読んだ書物や、部屋、愛した人たち。

それは何一つ、自分の物には成らない。永久に寄り添うことなど、到底叶う筈もない。

人間とは何なのだろうと、日夜考えたものだよ。

この広い世界で自分だけの物に出来ること等、一つもない。手の届く狭い範囲の世界でさえ、そうだ。物質的な物は何一つ、自分の物には成れない。……私はそう思ったのだよ。


――だからこそ私は、“心”を大切にした。

様々な感情、感傷、そこから生じる色彩や情景……目には見えない物、物質化できない事、それらで心を豊かにする事こそが全てだと思ったのだ。

……心こそ、たった一つ人間に赦された、自分自身だけの物だからだよ。

陽の感情だけが善ではないように、陰の感情や感傷からも、美しい世界を知ることが出来る。芸術の世界では尚更だ。

先人等が剣や筆を奮って築き上げた、悠久の彼方から続くこの国の、なんと美しいことか。臆せず多様な感情を知ることこそ、心を作り上げる糧になるのなら。それを怠るべきではない、私はそう思うのだよ、少年」



 とても不思議な感覚だった。



「心、とは不思議な感覚体だ。

お前に逢えて、本当に良かった。気が付いてくれて、本当に良かった」


 再びゆっくりと伸ばされた指先が、髪を滑って頭を撫でる。

 刹那、身体を竦めそうになったが、目の前の切なげに揺らいだ表情がそれをさせなかった。


「死人に口無し。

物に埋もれて死んだとて、身体が葬らるれば物に等価値は無い。連れて逝けるのは心だけ。豊かな心は、豊かな“生”に直結している。心の荒みは、自他を不幸にするもの。

……私がお前に言いたいのは、後悔せぬよう精一杯生きろということだ」

「後悔、」


「心豊かに生きなさい。色彩を絶やさぬように。書物が好きなら、もっと多くの感情や感傷をそこから学ぶがいい。

そうすれば、お前の世界はもっと色とりどりに成る」



 心が、見えた気がした。


 死んでいるのか、生きているのか。

そんなことは今、重要じゃない。

 六月の雨が降りしきる、赤い花壇の小さなこの世界の中に。彼女の心は確かに在った。

 そして、僕の心も――――――……





「お別れだ、少年」

「……どうして」

「もう十分だよ。お前に逢えたからな」

「貴女は、」


 ふわりと笑むその顔が、やっぱり誰かによく似ている。この感覚は、多分知っているのだ。



「お前には、私がどう見えている?」

小さく彼女が問う。


「大正浪漫みたいな、ハイカラな女学生だよ」

そう答えると、少し驚いた顔をした。 


「あの」

「なんだ?」

「……いや、何でも無い、です」

「ふふ、はっきりしない奴だな」


 目を細めて笑うと、優雅な仕草でもう一度頭を撫でた。慈愛に溢れたその瞳は、懐かしむように僕を通り過ぎて、誰かに注がれているようにも感じられた。


「あの子は、赤い紫陽花を見てもう泣いていないかい」

 伏し目がちな表情。やがてその視線は静かに赤に注がれる。

「雨の季節になれば、何度だって。……いいや、いつも傍にいると伝えてくれるかい」


 儚い表情に、美しさと胸が締め付けられるほどの苦しさが込み上げる。僕は無意識の内に頷いていた。



「有難う。

ではな、少年。限りある時間を、大切に」




 瞬きも追いつかない刹那、


 六月の淑やかな雨の中へ、


 朧に霞ゆく熱っぽい空気の如く。



 そっと彼女は、消えた。


 僕は独りきりで図書館の花壇の前に立ち尽くしていた。

傍らには雨に濡れている、赤い紫陽花が確かに咲いている――――

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