◇◇◇
◇◇◇◇◇
――――庭先の紫陽花の群れは、夏の日差しに焼かれるようにして大半が枯れ始めていた。
縁側から、一日中ただそれを眺めているだけ。
日差しの暑さや、湿度に汗ばむ身体を感じることはもう無い。ただここで、庭先の紫陽花が焼かれて逝くのを見ているだけだ。
頭は考えることをせず、座り込んだままの身体はどこへも行けないと気がついている。
向こうの廊下から小さな足音が聞こえてきた。
気がつけば日は落ち、遠くの山稜を染めていた橙は夜闇に飲み込まれていた。懐かしい匂いが鼻腔をかすめた気がして、不意に目線を上げる。
――――雨だ。雨が降っていた。
「おかあさん」
小さな声に呼ばれ、思わず肩が震える。
庭先の小さな声は、誰に向けたものではない。返ってこないことを知っていて、独りごちる声だ。
「おかあさん」
赤い紫陽花を小さな体が抱きしめていた。突然の雨から守るように、裸足のまま庭先に飛び出して、背伸びをして。
「おかあさん、泣かないで」
聞こえない声を押し殺し、とめどなく頬を伝っていく涙。今すぐ縁側から離れて抱きしめてやりたいけれど、名前を呼んで小さな手を繋いでやりたいけれど――――
交われない世界の見えない薄膜が、自分を包んでいく気配。涙で庭先が歪み始める。
伸ばした指先から小さな光が灯り、自分の形を飲み込んで逝く。
「あすか」
小さく呟いた声に気が付いたように、愛おしい瞳が私の視線と交わった気がした。
独りにしてしまうのを許してもらえるだろうか。生まれ変わったのなら、またすぐ傍に、そんな風に願っても良いだろうか。この世界に残して逝く、たった一つの宝物。
何も持っては逝けないからこそ、心を大切に生きてきた。掛け替えのない景色や形や温度を幾重も連ねては、心の深くまで丁寧に折り重ねて来たのに。
何故、
心が重たくて、私は何処へも行けないではないか。
この心が重たくて、大切なものを失くしてしまう痛みに耐えられそうにないではないか――――
「――――
しわがれた静かな声が、小さな彼女を番傘にかくまう。
滴る雨粒。
「おばあちゃま、つれて行ってもいいの?」
「お前がそうしたいなら構わないよ。どうするかい」
小さな手が、赤い紫陽花を包み込んでいる。雨に濡れたその手は、とうに冷えてしまっただろう。黒い瞳は祖母を見上げて、一度だけ静かに頷いた。
「明日はきっと晴れる。さあ、もう中へお上がりなさい」
もう一度頷くと、朱夏は縁側から奥へ消えた。
再び静寂が訪れ、細かい雨の音だけが耳に届いている。
指先は曖昧に輪郭を失くしていた。身体も同様に、おぼろげに揺らぐ影のように霞んでいきそうだ。
身体を抱きしめる指先には感覚が無い。私が私であることを忘れてしまえば、形は消え去ってしまうだろう。
うずくまったまま、雨の音に掻き消されるようにして――――
「帆夏」
突然名前を呼ばれ、はっとして目線を上げると、番傘を差した母さんと視線が交わっていた。
「帆夏、そこにいるね」
〝ほのか〟
母さんにもらった、初めての贈り物。その名前を呼ばれると少しだけ、自分の輪郭が明確になった気がした。
「……雨の日には、幽霊が赤い紫陽花を見にやって来る。鮮やかなこの色に、生前の記憶を映して」
困ったような優しい顔をして、雨中に言葉を紡いでいる。まるで美しい詩歌のように。
「帆夏。明日はお前も一緒においで」
もう一度こちらを見つめると、縁側の幽霊の前を通り過ぎ、彼女は玄関口の方へ消えた。
取り残された庭に面した縁側に、夏の雨が降り注いでいる。
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