◆11

 梅雨の長雨。蒸し暑い窓の外を眺めた。

 何週間降り続いているのだろう。無声映画の続きを観ているような、変わり映えのしない窓枠の外。


 だけど、こんな日が好きだと感じる。


 雨の音は、世界に一つの美しい音楽。繊細な音楽に耳を傾けて、物語の世界に意識を埋める。保たれない境界線の曖昧さが、酷く心地よく感じられた。

 雨の中にだけ溢れる色彩。心が移ろうような、断定できない美しさ。留まっていられないからこそ、一瞬、一刹那に意味が生まれるのだろう。



 液晶画面のメッセージの中に浮かぶ〝赤い紫陽花〟の文字。ささやかなこの秘密を共有できるのは、たった一人だけ。

 

 本から視線を外して、思考の森を漂っていると、ふいに電話のベルが鳴った。






             †  †  †  † 






「きっと百合の花なんて好きじゃないよ」



 独特な香り。きっとあの人は好きじゃないだろうな、なんとなくそう思った。






(――――――――少し風変わりな人だったのよ。着物や袴が好きでね。洋服を着ているところは見たことがなかったわ。


私が子供の頃、早くに病気で亡くなってしまったの。


……聡明な人だった。あなたと同じで本が大好きでね。洋書や詩歌、伝記、もちろん日本文学だって。そこら中が物語で溢れていたわ。)





「変わり者って言っていたよ。……死人口無しじゃあ、何も言い返せないね。残念」




(――――――いつだったか、雨の降る日に〝あなた〟の話をしていた。あなたがいる未来はどんなだろうって。


変よね。私もまだほんの子供だったのに、未来の私の子供の話をするなんて。

……会いたいだなんて。


それでも口癖のように言っていたわ。幸せそうな顔をしてね――――――)






 せ返るような花の香りが、風に乗って消えてゆく。小高い丘は、雨の合間の茜色に染められて、厳かに美しい景色が広がっていた。



「随分と待っていたんだね。痺れを切らせて会いに来てくれたの?」

 彼女にだけ聞こえる声で小さく呟いた。


 もう直ぐ、梅雨は明けてゆくのだろう。何処からか、夏の匂いがする。

 

 悠久の時、その一瞬に生きる僕らはそれは儚くて、おぼろな存在かもしれない。それでも願う。この一瞬を切り取って築いた小さな世界が、彼方から繋がれてきたこの命の一番端っこが、美しい悠久の小さな一コマになれればいいと。




「あの日図書館の花壇の前で僕が見た貴女は、母さんが大切に持っていた古い写真の中の女性とそっくりだった。気がつかなくってごめんね」



 雨の日に現れた、矢絣やがすり模様の着物を着た、大正浪漫みたいな女学生。












「綺麗な場所だね、おばあちゃん」










 図書館の花壇の紫陽花は、夏を前にして枯れてしまった。あの日あの場所での出来事に信憑性は何一つないけど、ひとつも疑うことはない。

 

それは穏やかで、優しい、いつかの白昼夢の続き。あの夜に出会った真実の夢の続きを、陽の当たるこの世界で、今日も紡いでいく。夏の日が高く昇る頃、強い光に目が眩んで真実が見えなくなってしまったら。



 あの夜を思い出そう。



 そうして心で世界を感じたのなら、きっと僕はこれからも確かな光と共に、この一瞬のような永遠を生きてゆける。












             †  †  †  †







或る人は言った

「それは私の色彩」


 

また或る人は言った

「それは私の悪夢」


また或る人は言う

「それは私の記憶」




――――そして彼女は言うのだ。






赤い紫陽花




それは私の鏡




私のすべてを




愛するものを映す、いとおしい真実。












               Fin.





 

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六月の白昼夢 水町 翠-sui mizumachi- @Traumereixx19

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