◇◇

 ◇◇◇◇◇




「雨、やまないね」



 縁側でつい今しがたまで、折り紙をしていた。小さな指は雨粒の指揮をとるように、右に左に楽しげに動いている。

 しとしとと、昼下がりの雨は静かに降り注ぐ。薄ぼんやりと明るい曇った空の下にある、ささやかで、穏やかな時間。


 夜闇の下でも艶やかなその赤は、昼間にはことさらその存在を意識させる。雨に包まれ眠っているようだ。




――自分の身体が病に蝕まれていく気配は、梅雨の湿った空気によく似ている。

 じっとりと重たく、そして静かだ。




「おかあさん」


 雨粒の拍子を刻んでいた小さな指が、私の手を掴んだ。

 温かい、生命のぬくもり。


「どうしたの、おかあさん」

「うん、赤い紫陽花のこと、考えていたんだ」


〝赤い紫陽花〟と聞いて小さな体を私に寄せた。


「どうして?」


「赤い紫陽花を嫌わないでおやり。雨の時季にしか咲いていられないからね、いつでも逢えるわけじゃあないんだよ」


 絹のようになめらかな黒髪を撫でる。

 確かな感触を頼りに、せり上がってくる脆弱な心を見ないようにして。


 幼い彼女を置いて逝く自分が、あとどれだけのことをしてやれるのだろうか。書物を読むのが苦手なこの子が、これから先の長い時間をどうやって過ごしてゆくのだろう。

 

 梅雨の雨が上がるまで、私はこの子のそばにいられるだろうか。




「いいかい、よく覚えておいで。寂しい時はこの艶やかな赤を思い出してごらん。怖がらないで。この赤は私が一番好きな色だ。この中に沢山の大事なものが詰まっている」


 じっと雨を見つめながら、小さな瞳は揺れていた。

 残酷な言葉を突きつけるより、確かな愛を遺してゆきたい。



「お前が産まれたあの日にも、こんな風に雨が降っていたよ。雨樋あまどいを伝う水の音を聴きながら、戸の隙間から見える雨糸を眺めていたんだ」





 二度目に赤い紫陽花を見たのは、この子が産まれた雨の日だ。

 気がつかない内に咲いていた一株が、私の心を満たしてゆくのを感じた。初めて命を抱いた夜、優しい雨の音と小さな寝息を感じながら、私はこのささやかな世界に感謝した。


 愛おしい命。透き通る瑞々しい生命。

 このささやかで掛け替えのない幸福を、できるだけ長く続けたい。深い愛情を注いで、この子の世界が広がってゆくのをこの目で確かに見届けたい。






 両腕に宿る確かな熱。感触。

 目に映る、まだまだ幼い私の愛おしい宝物。





 雨が降っている。





「いつかお前もお母さんになったら、雨の日には隣りで沢山話をしておやり。

どんな日も、四季は美しいのだということを決して忘れてはいけないよ。一朝一夕、同じ日など、一度として無いのだから。

心の曇りは晴らすことができるのを、その光はいつだって、お前の中に宿っている事を覚えていて」



 気がつくと、腕の中から小さな寝息が聞こえた。叱られて泣いた後の抱擁のような、真夜中の嵐が去った後のような――安らぎと安堵を浮かべた表情。小さな指。







「……死にたく無い、愛している」






 縁側からなだれ込む蒸し暑い空気。纏わりつく湿度を振り払うことはできず、腕の中にある温かさを夢中で抱きしめた。






「愛している」




 赤い紫陽花に、細かい雨は降り注ぐ。



◇◇◇◇◇

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る