◇◇◇◇◇


「どうしたんだい? こんな夜更けに。眠れないのかい?」


 めくりかけの頁に栞を差し、小さく声を紡ぐ。

 

 しとどに濡れた軒下に揺れる、小さな灯り。

 月が隠れた夜を映す、静かで、小さな灯り。


 寝巻を着た幼い女の子が不安げな表情でこちらを窺っていた。


「お庭のアジサイが怖くてねむれないの」


 婦人は訝しげな顔をして畳の上に本を置くと、幼い少女を部屋へ招いた。少女は婦人の膝の上へ収まると、開いた雨戸の外を見つめる。婦人の浴衣の端を小さな手が握りしめた。


「どうして紫陽花が怖いんだ? 綺麗だって言っていたじゃないか」

「もも色やみず色はきれいよ」

「じゃあどうして?」

「あかい色のがこわいの」


 赤い色? 不思議に思った婦人は雨戸の向こうを見た。小さな庭の一角に、紫陽花が咲いている。

 夜半になって雨脚は強くなり、滝のような激しい雨音が書物を捲る指を止めない。婦人が雨中に視線を彷徨わせていると、少女が〝あそこ〟と指をさした。


 紫陽花の群れから少し離れた池のそばに、その一株は見つかった。激しい雨に打たれ頭を垂れる、艶めかしいほどの赤に染まった紫陽花。雨に煙ってぼやけるその輪郭線が、幻影のように夜闇に浮かび上がっている。


 赤い紫陽花を見たのはいつ振りだろうか。これまでに二回、婦人は目にしたことがある。



「ユーレイの血であかくそまっているのよ」


 膝の上に収まっている小さな声がぽつりと呟いた。婦人はぎょっとして幼い少女へ視線を落とす。


「誰に言われたんだ」

「おばあちゃまよ」

 その言葉をきいて、婦人は声を出さずに笑う。母さんか、と腑に落ちたようだ。


「雨のよるはお庭にユーレイがくるって。あかいアジサイをみにくるの」

「愛らしいじゃないか、紫陽花が好きな幽霊なんて」

「そう?」

 幼い少女はまん丸の瞳で婦人を見上げると、再び庭の紫陽花を見つめた。



「紫陽花が好きならお前と一緒じゃないか。梅雨の少しの間しか咲かない花なんだ。ゆっくり見せておやりよ」


「そっか……」

 ぎこちなく笑顔を作ってみせる娘の頭を、愛おしげに撫でる母の指。


「お前のおばあちゃまは中々に茶目っ気のある人なんだ。お前はどうしてあの紫陽花だけ赤いのか、おばあちゃまに尋ねたんじゃないか?」

「どうしてわかるの?」

「私も子供の頃にきいたからだよ」



〝死体が埋まっているからだよ〟

 いたずらに笑いながら怖がる幼少の婦人を抱き寄せる、昨日のことのような遠い記憶。


「大人になったら分るようになることが沢山あるだろう。真実は一つかもしれないが、そこに辿り着くまでの答えは幾つもあっていいんだ。

お前はあまり好きじゃないかもしれないけれど、おばあちゃまが本を沢山読みなさいと言うのは、お前の心を育む為なんだよ」



 まん丸の瞳が紫陽花の赤に注がれる。浴衣の裾を握りしめていた小さな指は、いつの間にか解かれていた。


 雨の音が心地いい。



「お前もいつか自分の子供を持ったら、……雨の日にこんな話をするのかねぇ」


――大人になったら忘れてしまうだろうか、

 小さくひとりごちる婦人の声は、雨音に溶けて少女の耳には届かない。




◇◇◇◇◇


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