悪魔

 ああ!

 悪魔はここにいる!



 それは醜く、美しく、惨たらしくも、優しかった。それは少女の形をしていて、僕は心からそれを愛していた。それはいつも図書室の片隅で本を読んでいて、僕は遠くからこっそりその姿を眺めていたものだ。それとの関係に変化があったのは、忘れもしない、夏祭の夜―――

 僕がそれの落とし物を拾ったのである。

 ありがとう。と微笑むそれに、僕はつい自分の心を打ち明けてしまった。それ以前、僕はそれとまともに話したことすらなかったというのに。祭の熱狂と笑い掛けられた喜びが、僕を高揚させていたのだろうか。

 それは目をぱちぱち瞬いた後、俯いて顔を真っ赤に染めた。そしてしばらく口ごもり、分からない。と消え入りそうな声でやっと答えた。

 どう返事をしたらいいか、分からない。

 だって君のこと、よく知らないもの。

 僕は必死で食い下がった。あまり一所懸命だったので、よく覚えてはいないけど、「今すぐ答えなくてもいい」「ゆっくり考えて決めてほしい」そういうことを伝えたらしい。

 突飛な行動は案外功を奏したようで、その日から、それと時々目が合うようになった。僕がそれを密かに見詰めるように、それも僕を密かに見詰めるようになったのである。視線がぶつかると、お互い慌てて目を逸らす。

 そういう時、もう一度そっと、それの方を窺ってみる―――するとそれは大抵、決まり悪そうに下を向いているのだ。その頬がほんのり色づいているのを見つけて、僕の心臓は高鳴った。

 僕を見てくれている!

 僕を意識してくれている!

 いいよ。それが答えをくれたのは、祭の夜から一月後のことだった。嬉しくて、嬉しくて。僕はその日、自分が世界で一番幸せな人間であると信じた。



 僕はそれを愛していた。愛していたのに。

 それはある日、僕を捨てた。なぜ。取り縋る僕を振り払い、それは云った。

 こわい。

 こわい?

 そう。こわい。君、このまま私と一緒に居たら、きっと化物になっちゃうよ。

 それが何を云っているのか分からなかった。こわい。こわい? 僕が? どうして? 確かに何度か不満をぶつけたことはある。でもそういう時は、大抵それに非があった。僕は怒って当然のことで怒っただけだ。それが僕を拒絶するのは、筋違いである。

 それと別れた後、夕暮れの路地に立ち尽くし、僕はぐるぐる考えた。考えるほど理性と感情が絡まり、もつれ、こんがらがって、果ては一本の糸となり―――――やがてその糸で織り出された僕の思考には、僕の心にとって最も快い絵図が描かれていた。

 僕は悪くない。

 あの子が悪い。




 いくら相手が悪いと思っていても、僕はそれが好きだった。だから、怒りを抑え、悔しさを我慢し、みっともないのを承知の上で、それに何度も和解を求めた。しかし僕が追えば追うほど、それは僕を突き放す。

 あれは悪魔だ。と僕は思った。

 こんなに僕が頭を垂れているのに。こんなに僕が道理を説いて宥めているのに。僕を許さず、受け入れない。

 身勝手で、愚かで、無情。僕のことを莫迦にしている。

 いつの間にか、僕の愛は憎悪に変貌していた。憎悪は愛と同じ、いや愛より強い熱量で僕の胸を焼き焦がし、そして、僕はいつそれが家に一人きりなのかよくよく知っていたのである。

 食肉を切るのと同じような感触かと想像していたが、実際切ってみると存外強く抵抗を感じた。

 考えてみれば当たり前だ。生き物は食肉と違って筋肉を収縮させるのだから。それは初めの内、爪を突き立て、泣き叫び、顔を歪めて、暴れていた。が、次第に声も力も弱々しくなり、やがては全く動かなくなった。

 血溜まりが床に広がっていく。

 僕は立ち上がり、最早一塊の肉となったそれを見下ろした。悪魔だ。僕は悪魔を殺したのだ………

 視界の隅で、何かが動いた。

 ぎょっとして振り向く。壁際の姿見に、自分が映り込んでいた。

「…あ……」

 その姿に愕然とする。血濡れの総身。悪鬼の形相。まるで化物ではないか。

 今更、あの子の言葉が思い出された。


 君、このまま私と一緒に居たら、きっと化物になっちゃうよ。


 急速に冷えた頭で考える。僕はなぜあの子を殺したのだろう。悪魔だから? しかし足許に転がる死体は、どう見ても非力な少女でしかない。悪魔というなら、鏡面に映る男の方がよほど――――

 震える声で僕は叫んだ。




 ああ!

 悪魔はここにいる!


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