凌霄花の君

 大学から下宿までの帰り道、私は時々、遠回りな道を選んで歩く。現代的に整備された大通りは、大学と下宿を繋ぐ一番便利な道ではあるのだけれど、どこか無機質でよそよそしく、毎日通るにあたって少し気が滅入るように感じられたからである。

 ふと気が向いた時、脇道にれ、古い町並みが残る小道の奥へ入り込む。

 たまに迷ってしまうこともあったが、小さな森や田畑、年季の入った木造家屋、朝顔の蔦が絡んだフェンス―――――そういった、私の日常とは僅かにずれて切り離された、何となく懐かしい風景を見つけられるのは、無性に嬉しく、面白かった。

 大学二年の夏だった、と記憶している。

 その日、午後の講義がなかった私は、昼食を大学で済ませ、長い散歩をするつもりでいつものごとく脇道に入った。

 なるべく、見覚えのない道を選んで通っていたと思う。子供の頃、探検隊ごっこをした時と同じような心持ちだった。

 無暗に、どれだけ歩いただろう。気がつくと、私は車が一台やっと通れるかという幅の、狭い石畳の道にいて、あんまり急な景色の変化に呆然としていた。

 今までは、懐かしさを感じる程度にはありがちな、日本的景色の中にいた。それがどういうわけか。ほんの一つ角を曲がったところで、全く見慣れない異国の町並みが目に飛び込んだのだ。

 真っ直ぐに伸びる花崗みかげの石畳の両側には、石造りの家々が建ち並んでいた。その壁は皆一様に真っ白で、クリームを塗りつけた四角いケーキがずらりと陳列されているようにも見えた。

 白かった。何もかもが白かった。

 苛烈な夏の陽射しが乱反射して、眩しくて、現実感のなさも相まって、頭がくらくらしたのを覚えている。

 二、三度ゆっくり瞬きをし、目を慣らした後でようやく気づいた。白い道の半ばほどに、何やら炎のような、鮮やかな色のものがある。白一色の道にやや気圧されかけていた私は、遭難者が清水を求める心地でそれに近寄った。

 凌霄花のうぜんかずらであった。

 石畳の隙間に種が入り込み、勝手に育ったものらしい。根元の方では、石畳が少し持ち上がっていた。

 旺盛に育った蔓は、傍にある家の壁を覆っている。

 何気なくそれを見上げた。白い家の、二階の窓が目に入る。人がいた。

 私は、はっと息を呑んだ。陶磁器の肌。滑らかな黒髪。ウェヌスの鼻梁。美しい横顔の女だった。



 それからの日々は、夢のように輝いていた。

 私は毎日、あの白い家々が建ち並ぶ通りを歩き、通り過ぎざま、ちらりと窓の向こうで椅子に座っている彼女の横顔を見た。

 家の前で、ぼーっと眺めるようなことはしない。一日一度、一瞬だけの一方的な逢瀬だ。それだけでもう、充分すぎるほど幸せだった。

 こんな日々がいつまでも続けばいい。そんな風に思っていたある日のこと。

 大学三年の、やはり、夏であった。台風が近付き、大学が休校になったため、私は自室で漫然と本を読んでいた。

 外ではだんだん天気が悪くなる。風の唸りが轟々と激しくなるにつれ、私の心は次第に落ち着きをなくしていった。嵐の日の、不穏な雰囲気のせいだろうか。訳もなく不安が膨らみ、煽られ、今すぐ何かをしなければいけないような気持ちになった。

 彼女の顔が頭を過り、いてもたってもおられず、下宿を飛び出た。

 ひどく厭な予感がした。

 傘も差さず、合羽も羽織らず、身一つで雨風にぶつかりながら私は駆けた。下宿を出た当初はまだそれほどでもなかった雨が、途中からバケツをひっくり返したような豪雨になった。日中だというのに辺りが大変暗くなり、よく知っているはずの道を何度も見失いかけ、ぞっとした。

 記憶を頼りに、懸命に進む。やがて、闇の中でもなお白い、あの通りに辿り着いた時、私は情けなくも泣きそうになった。嵐の只中、自分がどこに居るかも分からずに、延々と彷徨い続ける羽目になるんじゃないかと、気が気でなかったのだ。

 深呼吸して、気持ちを落ち着け、私は彼女の家に近付いた。

 凌霄花の花が風にさらわれ、火の粉のように舞っている。窓辺には、いつもの通り、彼女がいた。

 ―――物が飛んでくるかもしれない。そこにいたら、危ないよ。

 咄嗟にそう叫ぼうとした瞬間、甲高い音が響いて、道に硝子がらすの破片が降り注いだ。本当に、何かが窓にぶつかったのだ。反射で顔を庇った手に重い、熱い、痛みが走る。

 しばしして、おそるおそる目を開いて見ると、手の平に三センチほどの硝子の欠片が刺さっていた。

 その後、どう家に帰ったのか分からない。怪我をしたのは、右の手の平だけだった。



 あの時、顔を手で覆う前の一瞬、私は確かに見た。

 彼女は窓と一緒に割れた。

 そして、窓の向こうには誰もいなかった。

 つまり彼女は、家の中ではなく、窓の中にいたのである。私は白い骨壺を買い、そこへ手の平に刺さっていた窓硝子の破片を納めた。

 窓の中にいたのなら、硝子が割れた瞬間、彼女は死んでしまったに違いないのだ。破片は彼女の骨だった。

 あの日以降、何度試みても、白い道には辿り着けない。それが、彼女のいなくなってしまった証拠に思えて哀しかった。

 硝子の入った骨壺に、線香を上げ、花を供える。オレンジの燃えるような凌霄花。

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