親指姫
先日、缶詰の縁で切った左親指がじくじく痛む。
放っておいたら、数日の内に薄い傷は赤く燃え膿み、やがて血の滴る裂け目から小さな瑞々しい若葉が芽吹いた。
植物に疎い私は、それが何の芽であるか見当もつかない。いずれにせよ、私などの都合で折角芽吹いた植物を摘むことは申し訳なく思われて、とにかく育ててみることにした。
しかし、育てると言っても、手入れの仕方など分からない。普通の植物なら日当たりのよい場所に置き、水や肥料を与えたりするところだけれど、人体に芽吹いた植物は一体どう扱えばいいのだろう。
水と肥料、つまり養分―――は私の体の中にある。特別に気を遣う必要はあるまい。後は日当たりの問題だが、これは私が窓辺で日光浴に努めればいいと考えた。
水を飲み、物を食べ、窓辺でぼんやり陽に当たる。
何気ない日常の繰り返しが、植物のためと思えば、不思議にきらきらと精彩を帯びて感じられた。
私は、ずいぶん無為な生き方をしてきた人間だ。何もせず、何も成さず、それなのに社会の荒波の中で気力ばかりが先に擦り切れ、僅かな蓄えを抱えて小さな部屋に閉じ籠もるしかなくなった。
それが、その私が。
この身を養いとして、ささやかな命を育んでいる。
それは大変、幸せなことに思われた。
腐乱した指に根を張って、植物は健やかにぐんぐん育つ。
植物が育つほど、私は衰弱していった。
少しずつ、ほんの少しずつ、体が重くなり、起きていられる時間が短くなった。
夜眠って起きたらまた夜で、「あまり眠れなかったのだな」と枕元のデジタル時計を見ると、数日経過しているということがざらだった。
植物につぼみがついた。私の血の色が溶けたのか、鮮やかな赤いつぼみであった。
子供を持って、その子の寝顔を眺めていたら、きっとこういう満たされた心地なのだろう。と、つぼみを見つめながら私は思う。
幸せだ。
幸せだ。
気づけば、窓の外が明らんでいた。
陽が昇る。
つぼみが開く。
ああ、神様。
こんな私から、お姫様のように美しい花が咲きました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます