風鈴
大学が夏期休暇に入った翌日、母から相変わらず淡々とした飾り気のない手紙が届いた。
近い内、郷里の家を取り壊します。
言外に「用があるならその前に」と語る短い文を読んだ時、頭の奥で
りぃん。
とひとつ、澄んだ風鈴の音が響いた。
父が
昔は地元で唯一の病院だったという祖母の家は大きくて、書架には面白い本や図鑑もたくさんあって、子供だった僕は祖母の家に行くことをわりあい楽しみにしていた。春休みや夏休み、冬休みなど長い休みの間は泊まりがけで世話になったりもしていたものだ。
あまりに祖母の家で過ごした時間が多すぎて、だからいつとも言えないのだが、いつか、いつだったか、
りぃん。
という風鈴の音を聞いた気がする。
まだ、小学生の頃だっただろう思う。
小さな躰で背伸びして、色んな場所へ潜り込み、泥だらけ、埃だらけになりながら、音の出所を探し回った記憶がある。あんまり儚い綺麗な音だったので、どうにかして音を出している『何か』を見たいと思ったのだ。
けれども、結局見つからなくて、服を汚したことをただ祖母に叱られただけで終わった。
以降は最初のように探し回ることこそなかったけれど、何となくあの広い家のどこかにきっと、音を出した『何か』―――音の感じからして風鈴を想わせる―――があるのだろうと気にかけていた。
家が取り壊されるなら、せめてその前にそれを見つけ出したい。
下宿から電車とバスを乗り継ぎ、三時間半ほど。
手紙を受けて、急ぎ足を運んだ祖母の家を前にして、僕は改めて決意を固めた。
高校二年の夏だったかに祖母の葬儀を済ませて以来、郷里の家はずっと空き家になっていた。
住み替えるには些か便利の悪い土地にある、無闇に古い大きな家を母も持て余していたのだろう。まともに管理などされていなかったらしい家の―――
辛うじて、飛び石の部分だけが白っぽく浮き上がって見える。
その上を辿って玄関扉の前に行き、旅行鞄から久しぶりに使う祖母の家の合鍵を取り出した。よくこの家に泊まっていた子供時代に祖母から渡され、そのまま持っていたものだ。
鍵穴に差し込んで回すと、少しの抵抗の後、かちゃりと開いた。
引き戸を開ける。
見慣れた玄関。
しかし、昔と比べると明らかに埃っぽくて、空気が微かな黴臭さを帯びていた。換気もほとんどされていないのだろう。
床に指を滑らせれば、埃や小さな虫の死骸が塊になって纏わり付いた。とてもそのまま歩けたものではない。
こんなことだろうと持ってきていたつっかけを履いて、家に上がった。
雨戸やカーテンが閉まっているせいか、室内は昼だというのに薄暗く、そして何より目眩がするほど蒸し暑かった。まずは窓を開け、採光と風の通りをどうにかしないといけない。
家の窓を開けて回る作業の途中、一つだけ開かない扉を見つけた。
ここは何だったか―――――記憶の糸を辿ってみると、すぐに祖母の言葉が思い出された。
「ここはね、昔、お父様……貴方の曾お祖父様の病院と渡り廊下で繋がってたの。でも、病院がなくなって、使わなくなってしまったから、今は鍵を掛けているのよ」
そう、随分昔、この家の裏には病院があったらしいのだ。空襲で建物と医者――祖母の父――が焼けてしまって以来、再建されなかったそうなのだが、こちらの家には所々病院と繋がっていた痕跡が残されている。
例えばこの扉とか、裏庭にある古びた小屋や焼却炉とか。
小屋と焼却炉は病院があった当時、病院のごみ処理に使われていたものらしい。
「今はもうごみは残ってないけれど、近づいてはいけませんよ」
幼い頃、祖母からそんなことを言われた気がする。
「病院の汚いものを、たくさん捨ててた場所だから」
電気も、ガスも、水道も止まっていたが、庭にある手押し式のポンプ井戸だけは今でもどうにか動いてくれた。
錆びて固くなったポンプを一所懸命押していると、まず茶色く濁った水が出て、もう何度か押していると、ようやく澄んだ色の水が出た。バケツに溜めて、汗の滴る顔を洗う。
何時間も探してみたけれど、やはりというか見つからなかった。土台無理な話なのだと思う。
構造すらまともに把握し切れていない家の中、形も大きさも分からない捜し物を見つけ出すなど―――――、
りぃん。
暑さと疲れで朦朧としかけた頭に、ふと涼やかな音が響いて、はっとした。
あの音だ。
子供の頃に聞いたあの音だ。
顔を上げて、辺りを見回す。音を出したと思われる物は見当たらなかった。
どこから聞こえてきたのだろう。目を閉じて、耳を澄ませてみると、
りぃん。
また聞こえた。
りぃん。
りぃん。
りぃん。
今まで手掛かりすら掴めなかったのが嘘のように、何度も何度も音が聞こえる。こうなればもう話は早かった。
音を辿って、音を出している何かを見つければいい。
いつの間にか日が暮れかけている。
急がなければ。暗くなると、灯りも点けられないこの家では、とても物など探せない。
夕陽に朱く染まった裏庭を、雑草を掻き分け、掻き分け歩く。
音はもうすぐそこから聞こえるのだが、どこから聞こえているものか、細かい位置が判らない。
りぃん。
また、音が聞こえた。
やはりこの辺り――――ということは、雑草の中に紛れているのかもしれない。這いつくばり、文字通り草の根を分けて必死に探す。
ふと、何をやっているのか、と自分で自分の有り様を不思議に思った。
子供の頃聞いて、感動した音に惹かれる。それだけならともかく、どうしてこんな疲れる、汚れる、みっともない真似をしてまで、音を出した『何か』を見つけ出そうとしているのだろう。
戸惑いながらも、探すことをやめられない。
頭が痛むほど響く蝉の声。
りぃん。
と澄んだ風鈴の音。
乱れた呼吸を整えつつ目を閉じると、いつか祖母と交わした会話が、閃くように記憶の片隅から甦った。
「姉様と同じことを言うのね」
風鈴の音が聞こえたと祖母に話した時だったか。彼女はぽつりとそう呟いたのだ。
「ねえさま?」
「そう、私の姉様。素敵な人だったけど、たぶれてしまって………、夜毎、小屋から持ち出したごみを椿の下に埋めていた………」
椿。
もしや。と意識して耳を澄ませてみると、確かに裏庭の寒椿が植わっている辺りから、音が聞こえているような気がする。
駆け寄って、耳を地面に当ててみた。
りぃん。
間違いない。この下だ。
女性が夜毎掘っていた程度の深さなら、手で掘り返すことも出来るだろうと、近くにあった石で土をほぐしながら掘り進めた。
夕焼けの朱が、ますます深く、目に沁みるほど鮮やかになっている。辺り一面、炎の海に沈んだようだ。
手を動かしながら、そんなことをぼんやり考えている内に、こつんと石が何か固い物に当たった。
土を除ければ、骨董品でも入っていそうな白木の箱が一つある。慎重に持ち上げ、蓋を開いた。
りぃん。
あっと思わず息を呑む。
箱の中には美しい少女の首が収まっていた。艶やかな自身の髪に埋ずもれ、眠っているようである。
初めはよくできた人形かと思った。
滑らかだが柔らかみのある肌。ほんのり色づいた頬と唇。
今にも動き出しそうだ―――と思っている間に、少女の長い睫毛が微かに震え、瞼の下から潤んだ黒い瞳が現れた。
目が合い、少女の唇がうっすら開く。
りぃん。
ああ、あの音。
あれは彼女の聲だったのか。
それを悟った瞬間、全ての労苦が報われたような気がした。僕は美しい彼女の聲に応えて、あれほど必死の思いをしたのだ。
りぃん。
彼女が優しく微笑んでいる。
僕は彼女に微笑み返して、求められるままに、瞼を閉じた。
夜が次第に近づいてくる。
やがて夕陽の残り火が消え去った時、僕の輪郭はすっかり溶けて、世界には温い闇と彼女の聲しかなくなった。
りぃん。
りぃん。
りぃん。
りぃん。
りぃん。
りぃん―――――――――………
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