事故
「……もしかして、与古浜の屋敷に写真が残ってました?」
「屋敷にはなかったよ。でも、一家が懇意にしていたらしい写真館に家族写真が残っていて見せてもらったんだ。それに、記憶喪失にしては異国人の居留地について詳しいなと思ってさ。ふつう、身の回りのことを覚えるのに精一杯だろうに、都木地に長ヶ崎……女学校に通っていないきみは地理に明るいようだし」
毎日顔を合わせている家族よりも、ほんの数回会っただけの相手に見破られてしまったのはちょっぴりショックだ。……いや、リカルドが与古浜の屋敷を調べたと言っていた時点で嫌な予感はしていたけれど。
「は? はあああ?」
初耳だと言わんばかりに朔が怒鳴る。
「なんだそれ! じゃあ、お前は誰なんだよ⁉」
怒鳴られて肩をすくめる。
本物の『矢代鈴花』はもうこの世にはいない。わたしは彼女の名前と人生を奪って生きている偽物だ。
◇
与古浜にある居留地付き
母は遊女、父は――わからない。
異国の地が入った子どもは居留地に何人かいたが、見た目は日本人と変わらないわたしは、色町の外にも友達が出来た。
宣教師館の仕事を手伝って小遣いをもらったり、聞きかじりの異国語で簡単な道案内くらいならできる。
しかし、一歩でも居留地から出れば、わたしはただの「娼婦の娘」でしかない。
――愛想よく、にこにこしていなさい。
お座敷の準備をするために紅を差しながら、母はいつもそう言った。
こんな仕事をしているのは食い扶持を稼ぐため。あんたのためなのよと運命に悲観したように言う母が嫌いだった。
わたしのため。だったら、わたしなんていないほうがいい。
ぶたれても、罵られても、人の顔色を窺って笑っている母の姿。きっと、数年後にはわたしも同じようになる。それはなんてつまらない未来なんだろう。
ある日、昼間から酔っ払った日本人の男に難癖をつけられ、襲われそうになった。
危険な時は急所を狙え。
同じ釜の飯を食べて育った仲間たちの助言を思い出し、股間に蹴りをお見舞いして逃げた。「色町生まれが」と怒鳴られ、燻っていた思いにぷつんと火がついたわたしは、こっそり貯めていた金を持ってそのまま住んでいた町を飛び出した。
こんなところで、燻りながら生きていく人生なんてまっぴら!
華やかな帝都に行けば何かわくわくするようなことがあるんじゃないかと、漠然とした思いで乗った列車。向かい合わせのボックス席しか空いていなかったので、気が引けながらも独り占めする。隣にいたのは幸福そうな家族だった。
見るからに裕福な両親と、彼らに愛されて育ったであろう少女。
話に耳を傾けていると、彼らが与古浜で暮らしていること。今から家族で小旅行に出かけること。女学校に通う少女の他愛のないできごとが分かる。そのどれもが遠い世界のものだった。
おやつにしましょうと母親が風呂敷包みを解く。
黒塗りの重箱から漂う甘い香りに思わず目が吸い寄せられた。中にはこぶし大の茶色っぽい焼き菓子が四つ入っている。ごつごつとした見た目に反して、齧ると柔らかいらしい。
「んんっ……おいしいっ!」
口にした少女が身悶える。
「これはどこの店だ?」「まだ店売りはしていないんですって。シュウクリームという菓子らしいわ」「シュウクリーム! これは絶対に売れるわ!」
会話の弾む家族のやりとりを、ずいぶん羨ましそうな目で見てしまっていたらしい。
視線に気づいた少女はわたしの方へ重箱の中身を差し出した。
「おひとつ、食べますか?」
高価そうな菓子を、見ず知らずの他人に気前よく分け与えるなんて。
それだけでも彼女が恵まれた子なんだと、嫌が応にも思い知らされた。
「……いいの?」
「ええ。どうぞ」
掴むと柔らかく、空気のように軽かった。
ふわふわの生地の中に詰め込まれたクリームは甘い。味わって食べたいのに、口の中ですぐに溶けてしまう。夢のようなお菓子だ。こんな美味しいものを食べてしまったら、これから先の生活に不安しか感じなくなってしまうではないか。
「……おいしい……」
ぽろっとこぼれた涙に少女は驚いた顔をしていた。
彼女は席を立つと、わたしの向かいに座った。白いレースのハンカチを差し出される。きょとんとしていると涙を拭ってくれた。
「涙は女の武器よ。ここぞという時に使うんですって。こんなところで泣いていたら勿体ないわ」
お嬢様らしからぬ発言に驚くと、「女学校の先輩の受け売りなの」とぺろっと舌を出された。そんな仕草もお茶目で可愛らしい。――彼女みたいになりたいな、なんて思った。素敵な両親と、楽しい学校生活によって育まれた、明るくて魅力的な女の子に。
彼女はえくぼを作ってにっこり笑う。
「わたしの名前は矢代鈴花。良かったら、列車が着くまでお喋りしない?」
一人ぽつんと座っていたわたしは救われたような心地になって、彼女から借りたハンカチを握りしめて頷く。
「ありがとう。わたしは――」
その時だった。
バァン! と耳をつんざくような轟音と共に、わたしの身体は宙へ投げ出された。
地面に叩きつけられた衝撃に息がつまる。何が起きたのか分からなかった。痛い、と思ったら身体のあちこちにガラスが刺さっていたし、打ちつけたあばらの辺りや足も痛くて呻き声を上げる。
周囲には同じように車外に投げ出された乗客が幾人も倒れており、横倒しになった列車が見えた。脱線事故を起こしたらしい。
「おおい、火の手が上がってるぞ!」
誰かが大声で叫んでいるのが聞こえた。
立ち上がろうともがくと、指先に紐が引っかかる。金糸が織り込まれた反物で出来た巾着だった。
(あの子の巾着)
どこにいるの、と見渡してもそれらしい女の子はいない。
その時に気づいた。わたしのように外に投げ出されたものは幸運で、潰れて歪んだ列車内に閉じ込められたまま身動きできないでいる人もいるのだと。
少女の姿も両親の姿も見当たらない。探したいのに身体が上手く動かなかった。足の骨が折れているらしい。
どうか無事で。祈るように指先に力を込める。
どこかへ飛んで行ってしまったハンカチの代わりに、この荷物は彼女に返さなきゃ――意識を失ったわたしが目覚めたときには、既に事故から丸三日が経っていた。
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