家出

 もちろん、心配から掛けられた言葉ではない。


 彼女は鈴花が落ち込み、泣いているところが見たいのだ。鈴花は振り返って笑顔を作る。


「……少し夜風に当たってこようと思って。突然のことで、……その、驚いたものだから」


「あら。ふふ、そうよね。無理もないわ」


 桜子は慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。


「よかったじゃない。あなたが記憶喪失だろうが、身体に傷があろうが受け入れてくださるっていう懐の深い方で」


「……ええ」


「あなたは身体も丈夫だし、元気だけが取り柄だから、お父様がうまく話をつけてくださったのよ。森山子爵は若い女の子が大好きだって言うから、きっと可愛がって・・・・・くださるわ」


 ぞわっと身を震わせた鈴花に、桜子の笑みは深くなる。ほら、泣きなさいよ、と彼女の視線が言っている。


「本当に……、ありがたい話だと思っていますわ」


「そーお? ずいぶん落ち込んでいるようだけど、大丈夫? ……あの素敵な異国人やジョーに憧れてたのではなくって?」


「っ……」


 声を詰まらせた鈴花の手からひらひらと赤いものが落ちた。


 赤い薔薇の花びら。あっ、と焦ったように声を上げると桜子は笑った。変色した花びらを嬉々として拾い上げる。


「やだぁ、こんなの大事に持ってたの? もうすっかり色が変わっているじゃない」


「…………」


「馬鹿ねぇ。あんたみたいなみすぼらしい子が、あんなかっこいい人たちに相手にされるわけないでしょ。持参金がなくても若い女と結婚したがるような変態おやじがお似合いよ!」


 涙ぐんだ鈴花は逃げるように玄関を飛び出した。


 嘲りに堪えきれないと言った様子で門を出るまで走り、生垣で家から姿が見えない位置まで移動して――そこでようやく胸を撫でおろす。不自然に膨らんだ袖に気づかれないように、わざと薔薇の花びらで桜子の視線を逸らしたのだ。


朔が舞台上で目立つ動きをして見せたように。


リカルドが容姿と話術で他人の気を惹きつけるように。


――何かに視線を引き付けているうちにすばやく物を入れ替えたり隠したりしているんだ。視線誘導ミスディレクションだね。


ほんのり憧れを抱いた奇術師、あるいは素敵な異国人男性との恋は実らず、年上の男の後妻になることが決まった可哀想な子。上着も着ずに飛び出して、外でシクシクみじめに泣いてるといいわ。

桜子は今頃そう笑っているだろう。


夜の外出など禁じられているが、今日だけはしばらく鈴花が帰ってこなくても不自然に思われないに違いない。縁談の話は渡りに船だった。これを利用しない手はないと考え、そして成功した。


 本当に溢れてきた涙を拭う。


 馬鹿にされて腹が立ったし、悔しかったのは本当だ。しかし、それ以上に「してやった」という背徳感が鈴花の気持ちを高揚させる。


(もう、後戻りは出来ない)


 大通りのアーク灯を頼りに走っていると、程なくして闇の中から二人組が現れた。


リカルドと朔。


鈴花が袖口からオルゴールを取り出すと、リカルドは「すごいすごい」と無邪気に手を叩き、朔の方は「本当に盗ってくるなんて」とでも言いたげな、複雑な表情をしている。



『オルゴールと一緒に、わたしを連れて行ってくれませんか? ……あなたたちに同行させてもらえるなら、一週間以内に盗み出すと約束します』



 数日前、鈴花が朔を介してリカルドに提示した条件だ。


 その翌日、朔は再び女装姿で「リカルドが了承した」とだけ告げにやってきた。数日ぶりに会うリカルドの青い瞳をじっと見つめて問いかける。


「……約束、守ってもらえるんですよね」


「もちろん。……だけどいいの? 私たちはものすごく悪い悪党かもしれないんだよ?」


「盗みを働いてきたんだから、わたしにもじゅうぶん『悪党』の素質があると思いませんか?」


 リカルドはあははと笑った。


「そうだね。きみは悪い子だ」


 今ならまだ、夜便の列車がある。鈴花が帰ってこないことやオルゴールの紛失に気付かれる前にこの町を離れるのだ。リカルドは鈴花の手を引いた。


「きみをあの家から盗み出してあげる。一緒に悪いことをしよう」


 どう盗み出そうかと考えたこの数日間。桜子を騙した高揚感。隣を歩くリカルドの共犯者の微笑みが、宵闇を歩く足を軽くさせる。


 だが、朔の方は気を揉んでいるように見えた。


「いいのかよ」


「え……?」


「何にも知らないで俺たちについてきたいなんて、馬鹿じゃねえの? いくら記憶喪失だからって、お嬢さん育ちの女なんか連れて行ったって足手まといになるとしか思えねえんだけど」


 前半は鈴花に、後半はリカルドに対しての不満だ。


 リカルドが朔のパトロンというのはあながち間違いではないらしく、行動の決定権はリカルドが握っているようだ。


「うーん。多分、彼女は朔が思っているよりもずっとたくましいよ。少なくとも、半年間もあの一家を騙していたんだからたいしたものだ」


 リカルドの指摘に、鈴花の歩調は鈍った。


「は?」と朔の方は足を止めてしまう。


「――きみは本物の『矢代鈴花』じゃない。そうだよね?」

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