逃走


 え、と鈴花は息を飲む。


 警官が用があるのは朔? 朔の方は動揺を押し殺し、毅然とした態度で疑問を口にする。


「……本町通りの見世物小屋の奇術師をお探しなら、確かに俺です。しかし、警察に世話になるようなことは身に覚えがありませんが?」


「市民から通報があったのだ。見世物小屋に婦女子を集め、摩訶不思議な妖術を使って誑かしているとな。卑しくも華族に取り入ろうとしているそうではないか」


「妖術などというのは誤解です。俺は西洋手妻を披露しているわけで、そのような嫌疑をかけられる謂れは――」

「――話は後で聞こう」


「……っ」


 問答無用で乱暴に肩を掴まれそうになった朔は扉を閉めた。すばやく鍵をかけ、テーブルの上の封筒と鈴花の手を取る。


 こら! 開けろ! という怒鳴り声を背に、朔に手を引かれて裏口から飛び出した。


「さ、朔さ……」

「走れ! 逃げるぞ!」


 小声で鋭く囁かれ、二人は表通りからは真逆の、狭い生活用通路を突っ切って距離を稼ぐ。こんな時ばかりは西洋風の屋敷暮らしで、靴を履いたまま外に飛び出すことが出来て助かった。


 住宅地から出来るだけ急いで離れ、街の人混みに紛れる。


 朔に手を引かれるまま早足でひたすら足を動かした。


「朔さん、どこに向かっているんですか⁉」


「どこでもない。見世物小屋の方も張られているかもしれないし、とにかく、一旦どこかに潜伏するしか……」


「というか、どうして逃げちゃったんです⁉ 悪い事をしていて見つかったから慌てて逃げたんだって、勘違いされちゃいますよ!」


「んなこと言ったって、あのまま俺が逮捕されてたらどーすんだ! あいつら、こっちの話を聞く気はなさそうだし、リカルドもいねえし、お前一人置いていけるわけねーだろうが!」


 ……朔も混乱していることがよく分かった。


 は、は、と二人分の白い吐息が風に流れる。きんと冷えた朝の空気は遠慮なく体温を奪っていった。慌てて飛び出してきたから二人とも薄着だ。


 そして屋敷から離れるにつれ、朔の足は鈍っていく。


 なぜ浅慮な行動をとってしまったのかと思っているのは明白で、しかし鈴花の方もたった一人屋敷に残されることを思うと途方に暮れていただろうと思うから朔を責められない。


「き、着替えますか? 朔さん、洋装だと目立ちます」


「……そうだな。そうする。どこかで適当に調達して……。店が開くには早すぎるか」


「わたしと服を変えますか? 女装の方が目立たないかも」


「カツラがないだろ。それに今度はお前が目立つ」


「でも、わたしは警官の方に顔が割れてませんから」


 異人街、本町通り、駐在所がある通りから遠ざかるため、あてもなく三丁目の角を曲がる。立派な屋敷の門前を掃き清めていた娘が顔を上げた。


「あれ……、すずちゃん……?」


 なんと知佳子だった。


 墨痕鮮やかに『佐藤』と書かれた表札。そういえば、三丁目に住んでいると言っていた。


 彼女は薄着姿の二人に困惑し、サッと頬を赤らめた。


「……か、駆け落ち……?」

「へっ?」


 朔と繋いだままの手に視線を向けられる。

 だが、赤面するような心のゆとりはない。鈴花は知佳子の手を両手で握った。


「知佳子ちゃん、お願い! 少しだけ匿ってくれない⁉」


「おいっ」


 止めようとする朔に向き直る。


「知佳子ちゃんは信頼できます。あてもなく街にいるより、一度落ち着いて状況を整理しましょう」


 ただならぬ気配を感じとったのか、知佳子はすぐに敷地内に入れてくれた。


「よく分からないけど入って。ええと……、込み入った話なら離れの方が良い?」

「――すまない」


 朔も肝が据わったらしい。


 離れの一室に通してもらうと、知佳子はお茶と毛布を持ってくると言って母屋に引き返していった。ストーブがなくても、冷たい風が当たらないだけでずいぶんとましだ。


 畳の上にしゃがみ込んだ朔は「悪かった」と頭を抱えて呟く。


「……やっぱり、俺一人が捕まれば良かったな」


「そんなこと言わないでください! わたしも動転してしまっていて……、なんで逃げちゃったのかとか言ってすみません」


 鈴花もしゃがんだ。壁に背を預け、状況を整理する。


「誰かが朔さんを通報したんですよね」


「ああ。……声かけてきた金持ちの娘の家の誰かだろ」


「振られた腹いせに、というやつですね」


「何が華族に取り入るだ。馬鹿馬鹿しい……」


 華族からの通報だったら警察だって無視できないし、先ほどのような警官の態度では弁明しても聞き入れてくれなかったかもしれない。そう考えると、朔が「逃げる」という判断をしたのは正しかったのだ。


 朔はしばらく頭を抱えていたが、やがて無造作に突っ込んできた封筒を差し出した。


「ともかく、俺と一緒にいるとお前も変な疑いをかけられるかもしれない。お前一人ならさっきの女の伝手でどうにか暮らしていけるだろ」


「朔さんはどうするんですか」


「ほとぼりが冷めるまでこの街を出て行く。お前とはこれでお別れだ」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 今にも出て行きそうな朔を引き留めていると知佳子が戻ってきた。


「あのう、本町の奇術小屋の人ですよね?」


「……ああ、そうだ」


「すずちゃんに手妻教えてた人?」


「うん」


「えっと……、昨日の新聞、読みました?」

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