破棄



 翌朝、リカルドを起こしに行くのがこれほど気鬱だったことはない。


 しかし、扉を開けると既にリカルドは着替えまで済ませていた。


「おはよう、鈴花」


「おはようございます……。早いですね」


「ちょっとね。今日は帰りが遅くなりそうだから、俺の分の夕食は用意しなくていいよ。戸締りをきちんとして、先に寝ていなさい」


 一階からはお味噌汁の良い匂いがする。


 納豆と干物と佃煮という、リカルドの好みを無視した献立だ。朔が昨夜の意趣返しのつもりで食べさせたかったのかもしれないが、リカルドは朝食も取らずに出て行ってしまった。


「昨夜、リカルドと何か話したのか?」


「……振られました」


「……。……そうか」


 気まずい沈黙が落ちる。しばらく無言で食事を続けていたが、「何か食べたいものはあるか」と聞かれた。励ましてくれるらしく、その優しさにくすっと笑ってしまう。


「甘いものが食べたいです」


「甘い物?」


 ふと、リカルドと話していたことを思い出す。今日は十二月十八日。来週はクリスマスだ。


「来週、ケーキが食べたいです。カステラにクリームを挟んで、果物で飾り付けて。居留地らしくクリスマスを楽しみませんか? リカルドさんがイギリスに帰ってしまう前に、三人での楽しい思い出を作りたいです」


 朔はぱちくりと目を瞬かせたが、「わかった」と優しく笑ってくれた。


 朔は奇術小屋の準備があると言うので、鈴花が後片付けを担う。皿を洗い、ゴミ出しもしようとすると、くずカゴの中にびりびりに破かれた手紙が入っていることに気づいた。


 流暢な英語の綴り。ぐしゃっと丸められた封筒はリカルド宛に届いたもので――消印はつい最近。鈴花が受け取ったものだと気づく。


 破かれた手紙の中、ちらりと見えた「dead」の単語に手を止めてしまった。



 ◇



 鈴花がオルゴールを返しに行っても、佐々木はきっと受け取らないだろう。


 頑固な佐々木が頑なに突っぱねる様子が目に浮かぶ。そのため、病院の看護婦に預け、鈴花は病室には入らずに病院を後にした。


 それから夕食の買い出しに行き、朔と一緒に食事を作って食べた。


「朔さんは、これからどうするんですか?」


 リカルドがいないので自然と話はこれからのことになる。


 朔が洗い物を担当してくれたので、鈴花はふきんで皿を拭いて片付ける係だ。


「……まだ考えてない。けど、しばらくはこれまでの伝手を使ってショウの仕事をして……。帝都とか、それなりに大きな街で暮らす……と思う。お前は?」


「わたしは……。この街のどこかで、住み込みで働けるところを探そうと思っています」


 浩戸はいいところだ。知佳子という友人も出来たし、異人街の住人たちは皆感じが良く、すれ違えば片言で挨拶を交わしたりもする。


 この街のどこかで雇ってくれるところがあればいいな、という漠然とした展望だ。新しい街で全てを一からやり直すことより、鈴花はどこかに落ち着き、平穏な暮らしを手に入れたい。


「……鈴花」


 洗い物に目を落としたまま、朔が名前を呼ぶ。


「お前さえ良ければ一緒に暮らさないか」


 びっくりして、お皿を落っことしそうになった。


 それって、今のような同居生活のことだろうか。それとも……。


「リカルドから貰う金を元手にして。どこか別の場所で、……こんな立派な屋敷に住むのは無理だけど……、それでも俺がちゃんと幸せにするから」


 結婚しようという意味で言われているのだと分かると、鈴花の頬はじわじわと赤らむ。横を向いている朔の耳も赤い。


 ふらふらと行き場のなかった鈴花や朔がどこかの土地に根を張り、暮らしていく。そんなごく普通の幸せを、きっと朔となら築いていけるだろう。


 朔のことは好ましいと思っているし、一緒に暮らしていくうちに尊敬や友情は愛に変わっていくかもしれない。


 いいですね、と言ってしまいたい自分がいて。

 簡単に流されそうになっている自分に幻滅する。


 リカルドに振られたからあっさりと朔の手を取るなんて、朔に対しても失礼ではないか。


 何も言えない鈴花に、朔はどこまでも優しかった。


「……答えは今すぐじゃなくてもいい。考えとけ」



 ◇



 なかなか眠りにつけず、鈴花がやっと目を閉じることが出来たのは明け方だった。


 うとうととまどろんでいるうちに、起きるのがいつもより遅くなってしまった。


 階下から漂ってくる良い匂いに慌てて身支度を整える。


(リカルドさん、帰ってきたのかな)


 毎朝の習慣で階下に降りる前にリカルドの部屋を覗いたが、ベッドは空っぽだった。


「帰ってきてない……」


 朝出て行ったときに開けたままのカーテン。

 装飾窓の格子模様がリカルドの机に美しい影を落としている。普段は散乱した物のせいで、こんなに綺麗な影なんて出ないのに……。


 そこに並べられた二つの封筒が目に入り、鈴花は部屋に駆け込んだ。



『鈴花へ』『朔へ』



「っ、さ、朔さん!」


 階下に飛んで行くと、仕事の準備をしていた朔が何事かと目を丸くした。


 封筒の中身は金だ。それぞれ、まとまった額が入れられている。


 まるで手切れ金みたいだ。


「あいつ……」


 今日の夜は遅くなるから、と出て行ったリカルド。


 気軽な鞄ひとつで出て行ったくせに、部屋を片付け、こんなものを残して出て行くなんて。


「荷物は?」


「着替えとか本とかはそのままですけど……」


 必要のないものは置いていったと言わんばかりの部屋。


 もう帰ってこないつもりだろうか、と口にしかけた瞬間。


 ――どん、どん。


 玄関扉を叩く音に、鈴花は身体を強張らせる。


 こんな朝早くからからいったい誰だ。


 黙りこくった二人の耳に「オルブライトさん、御在宅でしょうか。警察です」と居丈高な声が届いた。


「け、けいさつ……⁉ まさか、リカルドさんの身に何か――」

「シッ」


 朔に手で口を塞がれた。


 再び強く扉を叩かれ、朔が仕方なしに顔を出す。


「申し訳ございませんが、主人は不在でございまして。……どのようなご用件でしょうか?」


 小間使い風に応じた朔の頭越しに、黒い詰襟の警官が三人ほどいるのが見えた。


 そのうちの一人が「彼です、間違いありません」と洋装姿の朔を見て言う。


 三人の中で一番偉いとみられる警官が令状を突き出した。


「貴殿が妖術を使って市民を惑わしているという奇術師だな。ご同行願おう」



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