失恋

 焜炉コンロの火加減を慎重に確認しながら、指示通りに調味料と魚を火にかけて。焦げ付かないように気を配りながら料理を続けていると、リカルドと朔がほぼ同時の帰宅となった。


「ただいま。良い匂いだね」


「……お、おかえりなさい」


「ただいま」


 憎らしいほどいつも通りのリカルドに、一緒に過ごすようになって「ただいま」を言ってくれるようになった朔。二人の視線が鈴花からテーブルへ移り、オルゴールを捕らえる。リカルドの青い瞳が軽く見開かれた。


「……手に入れたの? すごい、お手柄じゃないか」


 リカルドは手を叩く。

 だが、心なしか覇気がないようだった。


「開けますか?」


 鍵があるかどうかの確認を、と意を決して尋ねてみるが、


「――いや……。先に食事にしようか。せっかく鈴花がご飯を作ってくれたんだし、出来たてを食べよう」


 違和感を感じたのは鈴花だけじゃなく朔もらしい。


 もったいぶって後回しにしようと言っているわけでもなく、あまり嬉しくなさそうなリカルドの様子に、ちらりと二人で目配せしてしまう。


「あ……、朔さん。献立、ありがとうございました」

「ん。見た目はまあまあだな」


 鍋を覗いた朔から及第点を貰う。

 朔の方も少し動揺しているように見えた。


 食事の席では、リカルドは好物の茶碗蒸しに喜んでくれた。普段通りの食事の席で三人ともオルゴールの話題は避けていたが、宣言通り、食後にオルゴールを開けることになる。


 鍵は入っているのか、いないのか。


 リカルドが『クラウン』の部分に工具を差し込むのを見守る。


 オルゴールの底はなかなか外れず、隙間に工具を入れてようやく浮いた。


 これまでとは異なる「外れなさ」に、三人とも奇妙な確信があった。思った通り、中からは劣化した綿花。そして、その中から真鍮製の鍵が現れる。


(ああ、これで終わっちゃうんだ)


 リカルドが探していた鍵。

 三人暮らしの終わりを告げる鍵。


 言葉をなくす鈴花とリカルドに、意外にも最初に声を上げたのは朔だった。


「良かったな、見つかって」


 そっけない口調だ。


 我に返ったようにリカルドも微笑む。


「そうだね。良かった。鈴花のお手柄だ。よく手に入れてくれたね、ありがとう」


「いえ……」


「二人にはじゅうぶんな額の報酬を用意するよ。浩戸にいる間、貿易業の方で大口の顧客同士の契約を仲介できてね。良い収入になったから」


 喋りながらオルゴールの底を元に戻したリカルドに、鈴花は話を切り出そうとした。


 わたしたち、もう少し一緒に暮らすことはできませんか。


 そう口を開く前に、


「二人も早いところ今後のことを考えてね。必要ならどこかに紹介状を書くから、なんでも言って欲しい」


 もうこれで三人暮らしはおしまいなんだと突きつけられる。リカルドは笑顔で朔と鈴花を拒絶した。オルゴールを回収したリカルドが二階に上がっていくのを止められないまま、鈴花はうなだれてしまう。


「……だから言っただろ。深入りするなって」


 親しくなればなるほど、別れの時に悲しくなるのだからと言いたげな朔の顔。鈴花はそこまで達観できない。


 ――やっぱりだめだ。このままじゃ。


 鈴花は階段を駆け上がり、リカルドの部屋をノックする。


「リカルドさん、入ってもいいですか!」

「いいよ。どうぞ?」


 リカルドは部屋の片づけを始めていた。


 毎朝、起こしに行くのに苦心して歩いていた床からは物がなくなり、積み上がっていた書類は処分されている。


 リカルドの心はもうこの屋敷にないのか。そんな現実を突きつけられたかのようで息が苦しくなる。


「……ほんとに……イギリスに帰っちゃうんですね……」


「うん。そう言っていただろう?」


 勢い込んで部屋に入った気持ちがゆっくりと萎れていく。


 何か言わなくては。用事がないなら出て行ってね、と言わんばかりにリカルドはこちらを見もしない。鈴花は机の上に置かれていたオルゴールを指差した。


「あの。このオルゴール、もういらないんですよね? 佐々木さんにオルゴールを返しても構いませんか?」


「うん? もしかして貰ったんじゃなくて、借りてきただけなの?」


「いえ。譲っていただいたんですけど、奥様の形見だとおっしゃっていたので……、やっぱり返そうと思って。でも、壊れてしまっていて音が鳴らないんです」


「じゃ、音が出るやつを持っていきなよ」


 これまで手に入れた別のオルゴールを指し示されたが、鈴花は首を振った。


 傍目には同じ作りだし、借りたものと比べても見分けはつかない。


 しかし、僅かな傷や色合い、本人にしか分からない違いだってあるだろう。人の手に渡ったオルゴールが違うものにすり替わって戻ってきたら――鈴花なら嫌だ。


「このオルゴール、今、直してもらえませんか?」

「誰が?」


「リ、リカルドさんが……」

「…………」


「……わ、わたしが触ると余計に壊しそうなので」

「で? 俺に直せって?」


 朔に頼めと言われるだろうかと思ったが、リカルドはようやく片づけをする手を止めてくれた。困ったように肩をすくめられたが、呆れながらも見せた笑顔にようやく鈴花はほっとしてしまった。


「俺はオルゴールなんて直したことないから、失敗しても知らないよ」


「はい。佐々木さんはわたしにくれるとおっしゃったので、失敗したらそのままわたしが貰います」


 オルゴールの中を確認したリカルドは、渋々ながらも工具を手にしてくれた。櫛歯を止めてある小さな螺子を外しにかかる。


 鍵盤のような櫛歯、それを跳ね上げるようトゲトゲのついた円柱、基盤部分、ぜんまいの入った覆いに分けられた。


「あ。ぜんまいが欠けている。多分、これが音の鳴らない原因のようだね」


「直ります……?」


「別のオルゴールの部品と交換してみよう」


 同じ手順でもう一つオルゴールを分解したリカルドは、ぜんまいを取り換えて組み立て直した。長い指先が器用に動くところをじっと見守る。


 カチャカチャとオルゴールを組み立てている音以外は聞こえず、静謐に澄んだ空気の中で二人の身体だけがランプの明かりでぼんやりと浮かび上がっているようだ。


「……リカルドさん」


「何?」


「好きです」


 リカルドは鈴花に視線を合わせないままで微笑んだ。


「うん。ありがとう」


 ……実にあっさりとした返事だった。


 続く言葉をしばらく待ってみたが、リカルドは顔色一つ変えてくれない。


 組み立て終わったリカルドがぜんまいを巻いていく。動き出した円柱は、か細く、儚げな旋律を紡ぎ始めた。


 直ったよ、と鈴花にオルゴールを手渡したリカルドは、唇を噛む鈴花のおでこに自分のおでこをくっつけた。


 至近距離にあるリカルドの顔。青い瞳は伏せられていて、憂えた長いまつ毛がよく見える。


「幸せにおなり。きみならきっと、大丈夫。素敵な相手が見つかるよ」


 おまじないをかけるような優しさで。

 今生の別れのような言葉を紡がれる。


 ……家族でもぶつかり合う知佳子。会えないまま月日を重ねている佐々木。二人に感化され、自分の気持ちを伝えようと決心したつもりだったのに……。


(振られたってことだよね、わたし……)


 小さな子どもにするような仕草は、まるで相手にもされていないと言っているようだ。


 鳴りやんだオルゴールと共に回れ右をするように背中を押される。


「リカルドさんも」


 扉の前で振り返った鈴花は泣きそうな笑顔で振り返った。


「……リカルドさんも、幸せになってくださいね」


 リカルドも微笑んだ。その表情の裏に何を隠しているのか、鈴花にはわからなかった。

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