逢引
「鈴花、どうしたの?」
リカルドだ。
「リ、リ、リカルドさん……っ」
優しい声に力が抜けそうになる。ただごとじゃないと判断したのか、リカルドは建物の物陰に鈴花を誘導した。
「どうしたの? 何かあった?」
「い、いま、あの、男の人が」
「男?」
鷲鼻の男は追いかけてはきていないようだ。
リカルドが見世物小屋に連れて来た『社長』に声を掛けられ、今しがた尻を触られたと話すと、「ああ、なるほど」と重苦しい溜息をつかれた。
「怖い思いをさせて悪かったね。無事で良かった」
「わ、わたし、男装してるんですけど……? なんで……?」
「うん。少年だと勘違いして欲情したんだろう。男の子の格好をしていても鈴花はかわいいから」
欲情なんて生々しい単語に寒気がし、リカルドの「かわいい」に心を乱される。
さっきの男が言った「かわいい」とは全然違う。弱いものを捕食するような視線と、掴まれた腕、尻にすらあの男の体温が残っているようで気持ちが悪い。
「す、すみませんでした。取り乱して……。もう大丈夫です」
「見世物小屋に戻るのかい?」
「いえ、屋敷に一度戻って、そのあと病院に行こうと思っていたんです」
「ああ、佐々木の見舞いか。今日はもうやめておきなさい」
「でも……」
「着替えたいだろう? 屋敷まで一緒に帰ろう」
あの男がどこかから鈴花を見ているかもしれないと思うと、確かに一刻も早く男装姿を解きたかった。
「すみません……。あの、リカルドさんの予定はいいんですか?」
リカルドに気を使わせてしまって申し訳ないし居たたまれない。
訊ねるとくすっと笑われた。
「怖い目に合った女の子を一人にするほど、私は冷たくはないよ」
「あ……、ありがとう、ございます」
鈴花の頭をリカルドが優しく叩いた。
その慈愛に満ちた眼差しに見つめられると、小さな子どもになってしまったような気分になる。リカルドのジャケットの端を握ってしまった鈴花の手をリカルドがとった。
指先を絡められてきょとんとしてしまう。
手を繋いでくれるなんて思いもしなかった。
「大丈夫かい? 一応私も男だけど、触られて気持ち悪かったり、嫌だったりしない?」
大丈夫ですと答える。
リカルドからはいやらしい気持ちは感じられないし、男性全般に恐怖を抱いてしまうような出来事にはなっていない。
むしろ、心配されてむず痒いような気持ちになる。
リカルドの手は大きくて、鈴花の小さな手はすっぽりと収まってしまう。頬が熱くなってうつむいた。
オルブライト邸まで戻った鈴花が着替えに上がろうとすると、リカルドは戸棚から取り出した紙袋を鈴花に手渡した。
「はい、どうぞ。開けてみて」
言われるがままに包みを開ける。現れたのは白い襟の付いた、葡萄茶色のモダンなワンピースだ。
「鈴花さえ良ければ、気晴らしにデートでもしようか。ミルクホールにでも行かない?」
「いいんですか⁉ 行ってみたいです!」
思いがけない誘いに勢い込んで返事をする。
牛乳が普及し、軽食を出す飲食店として人気だと聞いているが、鈴花は一度も行ったことがない。新聞や官報、雑誌などが無料で閲覧できるとあって、学生や若い男性で賑わっていると聞くし、女一人では入りにくい場所なのだ。
もっとも、鈴花のお目当ては新聞ではなく、甘い菓子の方である。
「それじゃあ着替えておいで」
「はいっ!」
弾む足どりで階段を駆け上がる。
ワンピースにはリカルドがくれた桃色のリボンも合わせた。
(さっきのおじさんとすれ違ったとしても、きっと気づかれないわよね)
思いのほか、先ほど襲われかけたことが尾を引いているらしい。
佐々木の元に行っても上手く笑えなかったかもしれないと思うと、気晴らしに誘ってくれたリカルドに感謝した。
十一月も下旬に入ると、居留地では十二月二十五日の降誕祭の飾りつけで華やぐ。
近隣でも、染色した木の薄皮やアルミ箔を用いて作られた飾りで玄関先を飾っている家は多い。リカルドや朔もミサに参加したり、ごちそうを食べるのだろうか。そんな夜を想像すると心が弾む。
「日本人にも降誕祭は浸透してきたよね。門松にアルミ飾りをくっつけるのを見たときは笑っちゃったけど」
「おめでたければなんでもよし、って感覚なんだと思いますよ。松はお正月やおめでたい時に飾られますから」
ミルクホールは盛況だったが、鈴花とリカルドは向かい合わせに座ることができる席を確保できた。無言で新聞を読んでいる紳士に、テーブル席を占拠して侃々諤々議論を交わしている学生たちと様々だ。
彼らは異国人であるリカルドの容姿が気になるのか、ちらちらと視線を投げかけてくる。
「……ふふふ」
「どうしたんですか?」
「いや、私としても鼻が高いなって思ってさ。そのワンピースを着た鈴花は、どこぞのご令嬢にしか見えないから注目されているよ」
「ご令嬢⁉」
そんなまさかと思ったが、ふと目が合った男性にぱっと視線を逸らされてしまった。別の男性は新聞越しにこちらを見ているが頬が赤い。リカルドの美貌に照れている……わけではないだろう。
「リカルドさんが買ってくださった服が上等だから、そんなふうに勘違いされているんですね」
「それだけじゃないよ。ちゃんと着飾ったきみはかわいい。きみが望めばどんな男性も夢中にできそうだ」
「…………リカルドさん相手でも?」
「もちろん。光栄です、お嬢様」
おどけて笑ったリカルドを前に、鈴花はもじもじと落ち着かなくなる。
割と勇気を出して言った言葉もさらりとかわされてしまった。
(リカルドさんにとっては、やっぱりわたしって妹みたいなものなのかな……)
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