四、パンドラの箱
懐柔
つんとした消毒液の匂いを嗅ぎながら、鈴花は一人、総合病院の廊下を歩いた。今日は男装ではなく、朔から借りた袴をはいた女学生風の装いだ。リカルドから貰った桃色のリボンで髪も可愛らしく結ってある。
――佐々木貞治。五十六歳。老舗反物屋の主人だったが、肝臓を悪くして二か月前から入院中。妻は五年前に他界。跡取り息子は三十六年前に駆け落ちして出て行ったきり。週に一度、義妹が着替えを届けにやってくるだけで見舞客はほとんど来ない。
……リカルドが調べ上げたオルゴールの所有者の情報だ。
佐々木の病室は四人部屋で、その内、三つのベッドは埋まっている。
入り口側にいる佐々木のベッドの横。荷物をしまっておくための小さな箪笥の上に載っているオルゴールはよく目立つ。
目立つ場所にあり、人目もある場所で、ちょっと失礼と盗み出すことは不可能だろう。
――息を吸って、ぎゅっと目を閉じて。
そして想像を膨らませる。
頭の中に思い浮かべるのは、リカルドが教えてくれた『鈴花』のような、物おじせず、上級生にも食ってかかる女の子。おじさんに睨まれたくらいでへこたれない。ちょっとの図々しさもご愛嬌。そんな人格の皮を被る。
起きていた佐々木の元に真っ直ぐ向かった鈴花は、にっこり微笑んでオルゴールを指差した。
「おじさん。その小箱、わたしに譲ってくれませんか?」
突然病室に入ってきた、見ず知らずの娘に佐々木は怪訝な顔をした。
顔色はあまり良くないが、頑固おやじとして界隈で有名だったらしく、その太い眉毛はぴくりとも動かない。
「…………は? 誰だ、お嬢ちゃん」
「名前は明かしません。今からあなたをびっくりさせたら、その綺麗な小箱をわたしにください」
「いや、いきなり何言ってんだ、おめえ――……」
いいともダメだとも言われていないのに、鈴花は握りしめた拳の中から真っ赤なスカーフを取り出した。するする引っ張り出されるスカーフは途切れることなく出続ける。間仕切りのカーテンも開けられているので、別のベッドに寝ていたおじさん二人もなんだなんだとこちらに注目し出した。
延々出し続けていたスカーフが途切れ、鈴花は拳を開く。手の中には何の仕掛けもない。
「じゃーん! 驚きました?」
無邪気に――いや、無遠慮でお馬鹿な娘を装って振る舞う鈴花に、佐々木は依然として怪訝な顔のまま――まあ、当然だろう。鈴花だって、見ず知らずの他人からいきなり手妻を見せられたら混乱する。
佐々木が口を開かない代わりに、隣のベッドに寝ていた男が声をかけてきた。
「なんだい、このお嬢ちゃん。佐々木さんの知り合いかい?」
「知らねえよ。誰だお前。誰かと間違えちゃいねえか」
「間違ってません。そこにある小箱が綺麗で、この部屋の前を通るたび、ずーっと気になっていたんです。えー、で、ですから、『びっくり手妻』のお駄賃として、どうかわたしに譲ってくださいませんか?」
「小箱ぉ?」
佐々木は片眉を上げた。
「こいつはそんじょそこらで帰る小箱じゃねえ。舶来品のオルゴールだ」
「おるごーる?」
素知らぬふりで小首を傾げてみせると、オルゴールの中を見せるように蓋を開けて突き出された。中身はリカルドに見せられたものと同じだが驚いたふりをする。
「うわああ……! なにこれ、すごいわ!」
「ネジを巻くと音が鳴る箱だ。もっとも、壊れてるから音は鳴らないんだが。……もういいか」
「あっ、待って。もう少し見てもいいですか?」
手に取った鈴花は見惚れたようにオルゴールを眺める。
そして、おずおずとした態度で譲っていただけませんか? と申し出た。思っていた小物入れとは違ったけど、入院中の母が喜ぶようなものを探しているんです、と。
「おいおい。いきなりやってきて、そりゃ図々しすぎるんじゃねえか」
「で、ですから、覚えたての手妻を見て頂いて、駄賃代わりに譲ってもらえないかなーと」
「馬鹿言っちゃいけねえ。こいつは、駄賃代わりでやれるような安モンじゃねえんだぞ」
「……ですよね……。綺麗な箱だなって思ってたんですけど、まさかそんなに高価なものだったなんて知りませんでした……」
鈴花はうなだれながらスカーフを回収し、名残惜しそうにオルゴールを見やる。
(もちろん、譲ってもらえるわけがないのは想定内だけどね)
こんなことで佐々木の気が引けるとは思っていない。
しかし、佐々木と親しくしている同室の者たちならどうだろう。
彼らは退屈している。ちょっと風変わりな娘が変わった手妻を披露したとあれば面白がって食いついてくるだろう。案の定、
「なぁ、お嬢ちゃん。さっきの手妻、どういう仕掛けだい?」
と隣のベッドの男が声を掛けてきた。人懐っこそうなおじさんだ。その向かいのベッドでは大柄な男がガハハと笑う。
「いきなりやってきて何事かと思ったぜ。ぽかんとした佐々木さんの顔ったらなかったなぁ」
「……うるせえ」
「なあ、もう一度やってみちゃくれねえかい?」
「生憎ですが、あれは一回しかできないんです。でも、……そうですね、また違う手妻を練習して披露しに来ます」
いたずらっぽく笑う鈴花に、佐々木は「いや、来なくていい」と迷惑そうな顔をしたが、同室のおじさん二人は「まあまあいいじゃねえか」「若い娘さん相手にそうツンケンしなさんな」ととりなしてくれる。
佐々木個人とやり取りをするより、病室全体を巻き込んで懐柔させる作戦だ。
鈴花は天然を装い、「また遊びに来ます」と元気に返事をして病室を後にする。
◇
「へええ、考えたね」
夕食の席で鈴花の話を聞いたリカルドは素直に感嘆した。
――オルゴールを持っているのは職人気質の頑固オヤジだと調べがついた時、
佐々木には駆け落ちした息子がいる。孫娘のふりをして近づいてみたらと提案したが、奇術をネタに近寄ったか。
朔を見ると不機嫌そうな顔をしていた。
「朔が奇術を教えたんだ? どうだい、師匠。弟子は素質ありそう?」
朔はむっと顔を顰める。
「俺はこんなことに使うなんて聞いてない」
「ご、ごめんなさい、朔さん……。教えてもらった奇術を勝手に外で披露して、怒ってますよね」
「怒ってるけど、怒ってんのはそこじゃねーよ」
「あ。わたしと朔さんが知り合いかもって、ばれたらまずいですか……?」
そうじゃない。
(朔は純粋にきみのことが心配なんだよ。俺に騙されているんじゃないかってね)
リカルドの微笑ましい視線に気づいた朔は「もういい」と話を切り上げてしまった。一度へそを曲げた朔に言葉を重ねても逆効果にしかならないということが鈴花も分かってきたのか、それ以上弁明を重ねずに食事を再開した。
(面白いなあ)
朔と鈴花が恋仲になればいい。
リカルドは本気でそう思っている。面倒見のいい朔は鈴花を放っておけないだろう。
人に頼られることで自らを肯定する朔。人の顔色を窺って暮らしてきた鈴花にとっては頼れる存在のはずで、リカルドがここからいなくなった後にお互いに支え合って生きていく伴侶としてぴったりだ。
そう思う反面、勿体なさも感じる。
(鈴花には人を騙す素質がある。もっと磨けば、そこそこ小金持ちの男くらい簡単にたらしこめそうだな)
顔色を読み、相手が望むような人物を演じることが出来るのは彼女の生き抜くための処施術なのだろう。
矢代家では従順に、朔の前では庇護欲をそそり、頑固オヤジには天真爛漫な少女として切り込む。
リカルドの前では――どうだろう。慎重に距離感を計りながらも、好きにならないように努力をしている最中とでもいったところか。
手を引っ張れば容易くこちら側に落ちる。リカルドのために悪事に身を染めさせてみたいような気もするが、朔に押し付けて幸せになってもらった方が丸く収まりそうだ。
「……今日のほうれん草の余りで、明日の朝は卵焼きにしませんか?」
「……他の具材も増やしてオムレツにしてもいい。玉ねぎとじゃがいもがたくさんあっただろ」
ぎこちなく歩み寄るように会話を再開させた二人。
その様子をリカルドはどこか遠くから眺めるような冷めた気持ちで相槌をうった。
俺が言うのもなんだけど、きみたちに悪事なんて似合わないよ。
「
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