煙草
その日の夕食の後。
紅茶が飲みたいと言われ、鈴花はリカルドの部屋にお茶を届けた。
盆に載っているのはティーカップひとつきり。
おや? と肩眉を上げてリカルドが笑う。
「お茶に誘ったつもりなんだけどな。ひとつしかないの?」
「あ、そうだったんですね。朔さんが用意してくれたので……」
ティーセット一式を運ぼうとした鈴花に――「馬鹿、あいつの部屋見ただろ! ポットなんか持っていったら返ってこなくなる!」と朔がカップに注いだものだけを盆に載せて渡してくれたのだ。
「世話焼きだなあ。あいつは損する性分だよ、ほんと」
くすくす笑いながらティーカップを取り上げたリカルドは張り出し窓に寄りかかった。長身のリカルドはソファに座るよりもそちらのほうが楽らしい。
レースのカーテンの向こう側からほんのりと月明かりがリカルドを照らし、立っているだけでも絵になる光景だった。
「……今日の……。見ちゃいけないものを見た気分でした」
丸い盆を抱きしめながら、鈴花はリカルドの手元にあるティーカップを見つめる。
叔母が気に入っていたカップに似ている。白磁に絵付けがされた輸入品のカップ。それなりにお値段のする代物で、リカルドは全くお金に困っていない。
――だから、鷲鼻の男もすんなり荷物を預けた。
これが鈴花が扮する見習いの少年だったら、財布の中身をスられることを警戒して渡さないだろう。金に困っていなさそうなリカルドだから渡した。商売の話をしているときは優秀で、だけどそれ以外の話の時はどこか抜けたところのある、穏やかで安全そうな人に見えるから――……
「ん? 今日の見世物小屋での話かな?」
「……はい」
「そうだねえ。見られたくなかったな。はじめて鈴花に声を掛けたときのこと、素敵な思い出として記憶に残して欲しかったのに……。おじさんにも調子良く言い寄るんだって勘違いされたくないな」
そうじゃない。
リカルドは露骨にはぐらかす。スリまがいのことをしていると鈴花に責めて欲しくなさそうな顔をする。
「本当ですよ! 奇術小屋の前でリカルドさんに声を掛けられて、あの時すごくときめいたんですからね、わたし」
違う。こんな話をしたいわけじゃないのに。
「かわいい子だって思ったのは本心だよ。夢中になって舞台を見るきみはとても純粋で眩しかった」
鈴花もだ。鈴花も、純粋にリカルドのことを素敵な男性だと思ったし、誘いに乗ってしまったのも、やっぱり見た目が格好良かったからという浮ついた気持ちがあったのは否めない。
(この人は、悪い人なんだ……)
平然と人を騙す。
朔の言う通り、深入りするべきではないのだろう。彼の事情に踏み込み過ぎないように後ずさりを始める鈴花を、果たしてリカルドは見逃してくれるだろうか。
「……リカルドさん。あなたの目的はなんですか?」
「鍵を見つけ出すことだよ。最初に言った通り」
「見つけたら……、おじいさまに返すんですか?」
多分違うだろうな、と予想は出来ていた。
そして予想通り、リカルドは微笑む。
「
思いもよらない話に鈴花は息を飲む。
「イギリスにいた頃、俺は祖父に折檻されて暮らしていたんだ。俺は母が駆け落ちした末に産んだ子どもでね。その後、俺たち
リカルドに罪はないはずなのに……。
「祖父が『宝物』をしまっていると言っていた金庫の鍵を盗んで密航した。船の中で退屈していた時に、積み荷のオルゴールの仕掛けを見つけたんだ。どうせ港で降りるときに俺は捕まる。身寄りのない子どもが、いかにもな金ぴかな鍵を大事に持っていたら怪しまれるだろうからね。……で、俺はそのまま長ヶ崎の居留地で孤児として育ったんだ」
「……長ヶ崎で朔さんに会ったんですよね?」
「あいつは居留地の外でスリをしていたんだ。手先が器用だから、奇術師を紹介して弟子にとらせた。日本人の小間使いを連れていた方が交渉相手とのやり取りもスムーズだし、奇術師なら日本全国どこにでも連れて行けるしね」
朔を物扱いするリカルドに胸が痛んだ。
彼の言った通りだ。リカルドはきっと鈴花のことも手駒としか思っていない。
「俺も、朔も、そしてきみも――少し似ているね」
「だからわたしを同行させてくれたんですか?」
「そうだよ。寂しい者同士、うまく付き合っていこう」
利用し合おう、という意味だろう。
リカルドは窓辺にティーカップを置くと、鈴花の側へと近寄り、そっと屈んだ。耳元で優しく囁かれる言葉は、もちろん愛の言葉なんかじゃなくて。
「鈴花、協力してくれる? もう一つのオルゴールの場所を見つけたんだ」
リカルドの深い闇に誘われる。
彼の服からは微かに煙草の香りがした。鈴花の前で煙草を吸っているところは見たことがない。この屋敷以外で、別の誰かと、知らない顔で過ごす、かりそめの名前の異国人。
あなたは『誰』?
捕らえようのない姿に触れるためには、闇の淵から覗いているだけではわからない。
同じ闇に身を浸さないと、彼のことなどひとつも教えてくれない気がした。
「鍵を手に入れたら、わたしにも見せてくれますか?」
「何を? 鍵を? それともイギリスにある金庫の中身?」
「鍵を、です」
なんとなく、鍵を手に入れたらリカルドがふらりと消えてしまう気がして、鈴花はそんな願いを口にした。
朝起きたらいなくなっていたなんて冗談みたいなこと、リカルドなら本当にやりそうな気がして怖い。
「……変なことを言うね。もちろん見せてあげるよ。きみが協力してくれるなら、仲間と感動を分かち合うためにね」
――いいように使われるだけだ。警告したのに。馬鹿なのか。
この場にいない朔が罵倒する幻聴が聞こえるようだ。
自分でもそう思う。自ら危険な男に協力しようとするなんて、ちょっと考え無しかもしれない。けれど鈴花は朔とは違う。「リカルドに捨てられないために役に立とう」とは思わない。彼の機嫌を取るためでも、見放されないためでも、報酬目的でもなくて。
――ただ、この人のことを知りたい。
それだけでは理由にならないだろうか。
恋と呼ぶには不確かな感情が、闇の中にいるリカルドに触れたがっている。
「……協力します。わたしは、何をしたらいいんですか?」
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