貴方のためにとか、今だけとか、先っぽだけとかは詐欺の常套句なので気を付けましょう
それから数日、憩は自身に割り振られた部屋と図書室を往復するのみの生活を送り、『よいこのかいふくまじゅつきょうほん』はもちろんそのほかの魔術に関する本を読み漁った。
『よいこのかいふくまじゅつきょうほん』に記されているのは各魔術の概要のみならず詠唱や魔法陣等も含まれている。それにも関わらず発動しない魔術はどれだけ精巧に魔法陣を似せようとも詠唱を唱えようとも発動しない。
回復魔術に限らずすべての魔術が教本を真似ただけですぐに誰にでも使えるようになるのであれば苦労はない。回復魔術に至ってはその術者が重宝されることもなくなり、学ぶための派閥だのもある必要がなくなる。何しろ誰も使えるのだからわざわざ斡旋管理する必要も値崩れも何もあった物ではない。
しかし現実は使える者と使えない者が存在し、組合がありその中で慈愛派、技巧派、書物派なる派閥に分かれている。とどのつまりその原因も解明されておらず、確実にこうすれば使えると言う方法がない。
しょうがないので憩は他の回復魔術に関する本で知識を増やしたかったのだが回復魔術に関するものは『よいこのかいふくまじゅつきょうほん』しかなく、あとは他の魔術に関するものや魔術と言うもの自体に関する広く浅いもの、そしてごく少数ではあったが魔術自体に焦点を当てたものがあり、他の魔術についての本はあとにし、魔術に全般についての物から読み進めていった。
「転移者、杉田憩様ですね?」
部屋と図書室を往復する毎日。その何日目かに図書室へと向かう通路で如何にもな聖職者風の服を纏った女性に声を掛けられた。
「失礼、私ったら名乗りもせずにはしたない。…私はイシス・サイス。未熟な身ではありますが回復魔術協会、慈愛派その現筆頭を任せられております」
その声は柔らかく聞くものの緊張を解くような温かさに満ちていた。
「単刀直入に聞きます。どうでしょう、慈愛派へいらっしゃいませんか。きっとあなたがいらっしゃれば私たち慈愛派はさらに迷える人々を救えることでしょう」
説明も何もなく、ただただぶしつけにイシスは憩を誘った。
要件はすでに分かっているはずだとでも言わんばかりに、憩の後ろに控えている小さいメイドに憩が分かるようにちらりと目くばせをして。
「僕がその慈愛派に加わることであなた自身に何か得することはありますか?」
質問に質問で返されてもイシスは嫌な顔をすることはなかったが不思議そうに小首を傾げた。
そしてその柔らかい声で
「貴方の益ではなく、私の益ですか? いいえ、答えていただかなくて結構です」
そうですね、と頬に手をやりすこし考える素振りを見せる。
「…先ほども申しました通り、私は慈愛派の筆頭です。ですので、貴方様がいらっしゃることで慈愛派が更なる発展を望めるということが私の益であると言えますね。そしてそれは多くの人を癒すことにも繋がります」
「そうですか、素晴らしいですね」
初めから案としては思いついてはいた。
「ならばこのお話はお断りします」
もちろん、慈愛派に入ることでもましてやその勧誘を断ることでもない。
本を漁るばかりでなくその組合に赴き、教えを乞うのも一つの選択肢。ただどうにも単純にこの回復魔術の普及と言うよりかは権力的なしがらみの方がこの組織には強く根付いていそうで今回は見送っていた。
「理由を、尋ねても?」
だからこの誘いを断った、わけではない。
単純にこの女の言い回しが気にくわなかったからだ。
「どうにもあなたとはそりが合わなそうなので。やめておきます」
そもそもが本当に回復魔術を用いて人を救おうなんて考えているのであれば、協力できないなんてありえない。
派閥ができ、様々な方面から回復魔術と言う技術をアプローチをするのはいい。それが追究であれ普及であれはたまたその協会への勧誘でもそのどれもが人のためと胸を張って言えることだろう。
しかしそれに利益が絡むとそう単純にはいかなくなる。
理由は単純明快、人が行うことだからだ。
欲のない人間などいない。
仮にいたとしても一人では何の意味もない、欲張りな人に喰われて終わる。生き残ることなど到底できはしない。
なら欲のない風な人が組織の上に立っているというのはどういうことか。
答えは猫を被っているだけの欲張りだ。
「そうですか、残念です。 もし…もし気が変わられたならいつでもいらっしゃってください。歓迎いたしますわ」
そうとだけ言い残すとイシスは去っていった。
さて本来の目的地へと足を進めようとした憩を、袖を後ろから些か乱雑に引く者がいた。
「どうして。どうしてイシス様直々のお誘いを断ったのですか!!」
「…さっきも言いましたけど、そりが「そんなことは聞いていません!!」
届いた声は鼻声で、振り向いた憩がみたのはメイド服の長いスカートがくしゃくしゃになるのも気にせずにきつくきつく握りしめ、目じりに涙を貯めた顔はそれでも涙を流すまいとしてくしゃくしゃにした幼いメイドだった。
「だって、だってだってイシス様はすごいんですもん。道端に捨てられているような子供にだって手を差し伸べてくれるような御人なんですもん」
我慢していた涙がぽろぽろと流れ出すのを気にも留めず、メイドは続ける。
「憩様だって悪い人にすら回復魔術を掛けるような善き御人。それが、それがなぜイシス様の…」
悪い人、それはたぶん地下牢のエルフの事だろう。
このとき、憩にとってこの幼子がどれほど眩しく思えたことか。
そうこの幼いメイドにとっては善と悪が明確に分けることができておりそれ故に善を唱えることが善を為すことができているのだ。
善と悪、それを明確分けれればどれほど楽なことだろう。
善にとっては善であっても悪にとってはそれは悪であり、そして悪にとっての善は善にとっての悪なのだ。
つまるところ善は悪であり、悪は善であるという。
しかし、今の彼女においては善は善であり悪は悪であると言う。
イシス様は良い人で憩様も良い人であるはずで、だから二人が協力できないのはおかしいと、彼女は言う。
年を取ることで見えてくることは多い。しかし彼女のように幼いことでまるで賢者が唱えるような崇高なことを当たり前のように言ってのける頭の良さは失われていく。
天才とは凡人には不可能なことを簡単なことだと言う物のことをいうらしい。
――であれば彼女はまさに天才なんでしょう。 あのイシスと言う女よりももちろん僕よりも。
「もちろん、彼女は素晴らしい御人なんでしょう。 僕にはいまいち分かりませんが」
「そんなことありえません」
「そうです、ありえません。 だから、悪いものも見て善いものをみてそれで判断します」
ずずっと鼻をすすり憩の言っていることが分からずに首を傾げる幼女に、
「今、僕がイシス様の良さを分からないのは基準が分からないからです。どれだけそのイシス様が素晴らしいものであっても今の僕では実感がわきません」
「つまり、他の二派も見てみて憩様は判断される…と?」
「その通り。 まさか他の二派にイシス様が劣るなんてこともないでしょう?」
それはもちろんと幼女は首をぶんぶんと縦に振り肯定する。
その様子に憩は笑みを浮かべ
「それなら最後には土下座してでも慈愛派に入れてもらえるように懇願しなきゃですね」
平素であれば絶対にしないような言葉を吐く憩の様子に幼女はすっかりと泣いていたのも忘れたように「そうです。今のうちに練習しておくといいです」なんて調子に乗った。
嘘を悪とは思わないが善を素直に善とも思えない憩にとって、どれだけ自分勝手であろうとも本心を素直に語れるものは素晴らしいものに思えた。
善と悪を明文化するなど綺麗事としか言えないような詭弁であるが、本気でそう思い込んで本気でそう主張する者の眩しさを憩は愛おしく思う。
とどのつまり憩は慈愛派の筆頭による誘いこそ突っぱねれたものの、その後の幼女によって回復魔術協会の見学を余儀なくされた。
――いやほんと、三派が研究成果だけをひょいと見せてくれれば楽なのですがね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます