第82話 過去の清算
イチは舞子の勤める会社のエントランスで舞子を待っていた。
元婚約者からは頻繁に連絡があるようだ。東京にもきているようで、舞子は時折溜息をつく。
イチは時間が合う時は大学から直接舞子の会社まで行き、家まで送るようにしていた。
舞子は精神的に参っているのか、ただ「ありがとう」と言ってイチが送ってくれることを受け入れてくれた。
エレベーターから降りて来た舞子をイチが笑顔で出迎える。
二人で歩いて駅まで向かうと改札口正面に元婚約者が立っていた。
「出た」イチの呟きに舞子が苦笑する。
「部外者は席を外してほしいんだけど」
イチは元婚約者の言葉に「部外者はそっちだ」と言い返しそうになる。
「この人が一緒じゃないと話をしたくありません」
舞子は元婚約者の言葉を遮り言い放った。
元婚約者に促されて喫茶店に入っていくと年配の女性が座っていた。
舞子は元婚約者を睨みつけた。
「新しい恋人がいるのね。それも若い……。もしかして、これが別れた原因なのかしら?寄りを戻してほしいと思ってきたけど賛成できないわ」
その女性は元婚約者の母親だった。
舞子はその女性に軽く会釈した後、元婚約者を見た。
「私に構わないでください。呼び出されるのも苦痛です」
「他人行儀に敬語で話さなくても」
元婚約者を無視して舞子はおもむろに電話をかけた。
「あんたの彼が東京に来るたびに連絡してきて迷惑しているんだけど」
舞子はスマホをテーブルに置き、元婚約者の母親と向き合う。
「別れた理由はこの人が私たちの新居になるはずの家に、私の後輩を連れ込んでいたからです。ベッドの中いた二人の驚いた顔を忘れることができません」
元婚約者もその母親も顔色が変わった。
「詳細は当事者に聞いて下さい。もうお会いすることはないと思います。お世話になりました」
舞子は元婚約者の母親に会釈すると席を立った。
「本当に悪かった」元婚約者の声は小さかった。
「別れたことも、こいう事態になったのも、あんたの自業自得だから。悪いと思うなら連絡してこないで。今度は私と浮気をする気だった?やり直したいとか言ってきたら、その舌を引っこ抜いてやる」
舞子はイチの手を自ら握って喫茶店を出て行った。
元婚約者は今の彼女とうまくいってないのだろうか。イチは彼が舞子に連絡をしてきた理由を考えていた。
大御所の母親まで登場したのだから、これで終わるだろうと、すぐに考えることをやめた。
舞子が思案顔のイチを見ていた。
「舞ちゃん、どうしたの?」
「あいつの方が先に若い子に乗り換えたって言うの忘れた!」
「それは十分に伝わったと思うけど。でも、意外と冷静に話してたね」
「うん。この前、感情的になって言葉にできなかったから毎晩練習したの」
舞子はイチの手を握ったままだった。
そのまま舞子の家まで送り届けて帰ろうとした時、舞子の母が出てきた。
「いつも、ありがとうね。ご飯食べてって」
「お母さんの料理は美味しんだよ。腕に噛みつかないと家に入れない?」
イチは腕を摩りながら舞子の後から家に入っていた。
急に食事に誘われたのに、食卓にはご馳走が並んでいた。
「いつもこんなご馳走なの?家庭料理でタンシチューが出るって聞いたことないんだけど」
イチは舞子に小声で聞く。
「今日は特別よ。肉屋に牛タンのブロックがあったから」
舞子の母が何でもないことのように答えた。
そもそもイチは牛タンをブロックで売ってるとこを見たことがない。
ふと、舞子が元婚約者に吐いた「その舌を引っこ抜く」という捨て台詞を思い出す。
「舞ちゃんが引っこ抜いた舌かな?」
イチの言葉に舞子の母親首を傾げ、舞子はぷっと吐き出すように笑った。
舞子の母の料理はどれも美味しかった。
「ご馳走さまでした。料亭みたいに料理が一人ずつ用意してあるのも感激でした。うちは大皿に盛ったおかずを各自で取り分けるから」
「気持ちいい食べっぷりで作りがいがあったわ」
イチがご飯を食べ終わると舞子の母がお茶を入れてくれた。
舞子の母が席を立った時にイチは舞子に話しかけた。
「舞ちゃん、疲れたでしょう?」
「今日もありがとう。これで終わったと思う」
「ゆっくり休んで」
「母に話そうと思う」
「うん」
イチは舞子を元気付けるように、その手を握った。
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