第69話 イチと舞子の微妙な距離
梅雨が明けた。
イチは資格の合格通知を受け取った。前回は落ちた試験だけに嬉しかった。舞子との箱根ハイキングも気分良く行ける。
イチと舞子は新宿バスターミナルから始発の高速バスで箱根に向かった。
イチは芦ノ湖をゴールとした人気のハイキングコース旧街道を舞子と歩くつもりでいた。でも舞子が選んだのは金時山だった。ハイキングというより登山だ。イチは中学の遠足で登ったぐらいだから初心者の舞子でも大丈夫だろう。
舞子が持ってきてくれたパンとコーヒーをバスの中で食べ、乙女峠で降りた。
乙女峠から長尾山を経て金時山に登るコースを歩く。
足場の悪い登山道を歩き始めて30分ほどで乙女峠に着いた。椅子とテーブルが置いてあるので座って御殿場の街を見下ろしながら休憩し、また歩き始める。
イチと舞子は木々の間から漏れる日差しの下、木の根のはる道や岩の多い道を歩いていた。時折、視界が開けた場所では芦ノ湖が見えた。
イチは歩きながら試験のことや将来やりたいことなど舞子に話をした。舞子も気負うことなくイチに会社の話、家族の話をくれるからか、舞子のことが好きなのに舞子の前では見栄を張ることもなく、素直に話せた。
「舞ちゃん、ニイを俺とレイに取られたって思ったことない?」
イチはずっと気になっていたことを聞いた。
「正直、親を独り占めできて、大阪で一人っ子気分を味わせて嬉しかった」
「ありがとう」イチのお礼の言葉に舞子は不思議そうな顔をした。本心だとしてもイチは救われた気がした。
長尾山から金時山に向かう登山道は大きな岩場の急な登坂が続いた。
「気を付けて」イチは先に登り舞子に声をかけた。イチは登りきると舞子に手を差し伸べた。
「心配性なんだから」
舞子は笑ってイチの手を握った。
登り続けると一気に視界が開け、金時山山頂の立札が見えた。
山頂からは綺麗に富士山が見えた。
「気持ちいね!」舞子は大きく深呼吸をしてイチに笑いかけた。その笑顔を見たくてきたのだとイチは実感した。
山頂の茶屋で「大粒なめこ入りみそ汁」を2つ買い、外のテーブルで富士山をバックに座った。イチはリュックからおにぎりを出し舞子に渡した。
「カズくんが握ったんだ」
「どうしてわかるの?」
「大きいから」
「中身は舞ちゃんのお母さんが漬けた梅干しと俺の愛情が入っているから」
「うふふ。いただきます」舞子は俺の愛情を気にすることなくおにぎりにかぶりついた。
帰りは夕日の滝を目指して歩くコースだ。
急な階段や鎖のある道を行くと鳥居の下を通り猪鼻砦跡に出た。疲れていはいないが正面に富士山が綺麗に見えるからベンチに座った。ここは他の登山者がいなくてイチと舞子の二人きりだった。
しばらく無言で富士山を見る。
舞子は泣いていた。
「綺麗な景色を見たら心も綺麗になれるかな?」
富士山を見たまま涙が止まらない舞子の肩をイチは抱き寄せると、舞子はイチの胸に顔を埋め号泣した。
イチは舞子の背中を優しくさすり続けた。
思い切り泣いた後、舞子は恥ずかしそうにイチの胸から顔をあげだ。
「スッキリした?」
「急に泣いたりして恥ずかしい」
舞子はイチが渡したティッシュで鼻をかんだ。
「舞ちゃん、俺の前では我慢してないで。いつでも喜んで胸を貸すから」
舞子はただの失恋ではないかったのだ。婚約破棄だ。それでも親に心配かけないように平気そうに振る舞っていたのだろう。
「恥ずかしいから、もう泣かない」
「またまた。俺の前で鼻をかめるんだから、泣くのだってできるよ」
舞子はイチを軽くたたいて笑った。
二人は夕日の滝へと歩き始めた。途中、沢を渡る時にまた手を差し伸べた。そのまま手を繋ぎたかったが、舞子の弱みに付け込むようでできなかった。
夕日の滝は意外と小さかった。「夕日に映えて美しい」からその名前が付いたが、夕日の時間にはまだ早かった。
その後、金太郎ゆかりの場所を巡った後バスで新松田駅まで出た。
駅でラーメンを食べ、コーヒーを買ってロマンスカーに乗り込む。
しばらく窓の外を眺めていた舞子がイチを見た。
「今日はありがとう。懲りずにまた登山に付き合って」
「俺は色んなことを経験して今いる舞ちゃんがすごく綺麗だと思っているよ」
舞子は黙ってイチを見つめていたが、ふと笑って呟いた。
「惚れそうになったわ」
「そのまま惚れてほしい」
イチは心の中で呟いた。
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