第11話 ニイの機微

 この日、ニイは早くに仕事を終え、地下鉄東京駅に向かっていた。

 仕事が忙しくて最近飲みに行っていない。そう思っただけでストレスになった。ヨンを呼び出そうか、ヨンだったら家で飲んでも一緒か、と考えているうちに駅改札口まで来て、そのまま電車に乗った。

 次の大手町駅で何気なく駅のホームに目を向ける。閉まるドアの向こうに立っている女性を見て息を呑んだ。


 数年前、俺を振って福岡に転勤してていった女性。

 俺のために別れたのか、本当は都合よく捨てられたのではないか、時間が経つと心もひねくれていった。そして別れたくないと言わなかったことを後悔した。結局のところ、遠距離恋愛は俺には向かないと自分自身を納得させた。

 それなのに、ほんの一瞬見ただけなのに失恋と後悔の痛みが蘇った。いつから東京にいるのだろうか。先日共通の知人から彼女を見かけたと連絡があった時に想定すべきだった。そうしていたら、こんなに動揺しなかっただろう。

 数年ぶりに見た彼女は髪の毛が短くなり少し痩せたように見えたが、相変わらず美しかった。


 複雑な心の騒つきが治らないまま歩き、気がつくと家に着いていた。一目見たいと思っていた当時の願いは叶ったのに、いざ目にすると悲しかった。


 「おかえり」と言うレイの声で救われた気がした。こんな日に誰もいない暗い家に一人で帰ったら柄にもなく泣いていただろう。数年前の失恋の痛みにではない。彼女が恋しくて。


 「少し飲もうか」

 夕食時、レイがワインのボトルとコルク抜きを渡してきた。

 「女の人と飲みたかったなぁ」

 「こら。私は男か」

 「あっ、言葉のあやだ。この家で一番強いから、つい。でも、たまに女らしいと思う時もあるから安心しろ」

 「全然フォローになってない。そう言うのを追い打ちをかけるって言うんだよ」

 レイは文句を言いつつもニイの様子がいつもと違うことに気付いていた。ニイは相変わらず軽口をたたいているが、今日はどことなく憂いを感じる。そして何時にも増して酒を飲むピッチが早かった。

  

 ニイは少なくなったワインをレイと自分のグラスに注いだ。

 「レイ、今まで付き合った数少ない男の中で忘れられない奴はいるか?」

 「いない。忘れられない人もいないし、忘れた人もいない。なんてたって数少ないからね。常に思い出すことはないけど、記憶から消えた人もいない」

 「ちゃんとした別れ方をしたんだな」

 「ニイは意外と優しいよね。大学の友達は私に性格的な欠陥があるって。あと本当の恋愛をしたことないって言うよ」

 「性格的欠陥はそうなんだが、恋愛は別の問題だな」

 ニイは「お前はヨンが好きなのに告白してきた別の男にほだされて付き合うからだ」と言いたいのを飲み込んだ。

 「優しいって言葉は撤回して失言は大目にみるから、その人と会ってちゃんと話して」

 「その人って?」

 「忘れられな人。私は恋愛のアドバイスはできないけど、ニイのことはわかる。心に刺さった棘の痛みにずっと耐える気でいるでしょう。ドM?キャラが違う」

 ニイは一瞬寂しそうな弱々しい笑顔をみせたが、いつもの悪戯好きな表情に戻って言った。

 「隠れMだ。俺より自分のこと心配しろ。ミータを見習え」

 「ニャー」

 「鳴きまねじゃない。素直になれってことだ」

 ミータは甘え上手だ。今も名前を呼ばれたと勘違いをしてミャーと返事をしてニイの膝の上でゴロンと寝転がり伸びをした。

 「ニイに言われたくない」

 「デジャヴか。前に誰かに言われた気がする」


 ミータのお腹を撫でていたニイが急に叫んだ。

 「こいつ、女だったか?!」

 「雄だけど」ミータを譲り受けたのはニイなのに何を言っているのかレイは訳がわからずニイの言葉を待つ。

 「でも、胸が……乳首があるぞ!」

 「ニイ、バカなの?自分だってあるじゃん」レイは笑いが止まらず苦しそうだ。 

 「確かに……バカなこと言った。哺乳類には必ずあるわな」ニイも笑い出した。

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