母の日

Lena(玲)

夕方、小雨の日

 ああ、怒りで呼吸さえままならない。吐く息だけが燃えるように熱く、弱弱しい。怒りとは、人間が持つ感情の中で一番人間らしい感情だ。なぜって、怒りを秘めたところで出したところで、自然の益にはなりえない。ただみぞおちの下が生ぬるい餡のようにべっとり固まるだけである。

 中通りの八百屋街を左に曲がると小さなテナントがたち並ぶ狭い道が見えてくる。はじめは繁盛していた店も、三か月もすれば立派な薄汚い小屋に変わる。ここはそういう路地であり、私はここが気に入っていた。

 ここには中通りの店よりもいくらか安くものが売っているが、その分質は低い。その日のうちに料理に使ってしまうものを探す者、安いものを至高だと思い込んでいる負け犬、そしてその金すら渋る貧乏人、いろんな事情をを持つ奴らがやってくる。不思議なことにそいつらは全員、自分らが利口で、分別のつく理性を持った人間と勘違いしているが、むろんそんなできた人間は一人もいない。さらに言えば、ここの地域には一人もいない。唯一、綺麗で美しい心を持った私の弟は、春先に去ってしまった。腐ったじゃがいもを押しのけて、ひとかごのバナナとソラマメを手に取った。和歌山のは小さくて嫌いだ。鳥取ならよかったのに。気取ったご婦人が入るレストランにはフランス産の小さなソラマメの塩ゆでが売っているらしいが、ほんのエンドウ豆くらいの大きさのソラマメなど、食べた気にもならないだろうに。

 特段これ以上買うものもないので、路地に沿った住宅街に入り込み、帰路につく。雨の日は日が落ちる前から風呂の沸くアラームが平屋の錆びついた換気扇の奥から響く。それを聞くだけで私は頭に血が上ってしまう。靴ひもがほどける。

 耳の遠い祖父は私が帰ってきたことに気づかず、ヘッドフォンにつながれている。感染者千人、二千人、三千人。かわいそうな人、首を前にだしてよだれを垂らしながら一点を見つめるこの高齢者はいったい何を糧に毎日を生きているのだろう。そのうち目も見えなくなって、行きつくところは詐欺まがいのテレフォンセンターとあの路地裏だけ。私はそうなる前に死んでやる。祖母はまだ口が利けるのでいくらか祖父よりはましだが、年々読解力が落ちている。いたわってやらねばと思う。犬でも猫でも、欠点はあったほうがいいが、ありすぎるのはだめだ。愛嬌に置き換えが出来なければ、そのぶちはたちまち飼い主にぶたれる。私はそれを痛ましいとは思わない。代わりにそうか、お前はその汚いぶち以外にもいやらしい部分があるのだなと思う。

 祖母の買った多すぎるひき肉を炒めて、一人分の夕食の準備をする。母が帰ってきて祖母にカーネーションを渡している。すっかり冷めたみぞおちを指で押しこみながら、私は今日が母の日だったという事に気づく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

母の日 Lena(玲) @lena_kommtaus81

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ