11.一線
風呂を上がった後、居間で仕事をしながら、太宰さんの帰りを待った。きっとまた織田作たちと呑んでいる。
深夜二時を過ぎた辺り。玄関の施錠が解かれる刻み良い音がし、家の主が姿を現す。私の隣に立つと「ただいま」と小さな声で呟いた。お帰りなさい、と微笑む。彼の顔は少し思い詰めた様だった。
「ねえ、卯羅。以前、君は、私の事を好きと云ったね」
「云ったかしら」
確かに云った。ほぼ反射的に否定してしまった。彼が望まない言葉だったから。あの時は、どうしても繋ぎ留めたくて、引き寄せたくて、吐露してしまった。私の返答を聞いた太宰さんの眉間に力が入る。
「これ以上踏み込んだら駄目なの。解って」
「今更、綺麗な関係を求める、というのかい」
「そうじゃない、そうじゃないの」
困惑した。これ以上踏み込んだら、お互い泥沼に嵌まる。後ろから抱き締められ、書類を取り上げられた。お酒と煙草の匂いがした。珍しく、彼自身からお酒が香った。
「太宰さんこれ以上は駄目」
「どうして?」
「引き返せなくなるでしょう」
頚に吸い付かれる。馴れた手つきで、緩やかに身体を撫でながら、下へと進む。お臍の辺りで一旦止まり、頭の後ろで唸るような溜息が聞こえた。
一旦、離れた。それから、手が髪を掬う。髪が手から流れ落ちきったら。もう貴方は戻らないのかしら。留められないと判っていても、手を取って居て欲しかった。
「太宰さんお願い、もう……」
ならいっそ、私から離せば善いんだ。私から拒絶しよう。だって愛してしまったのは私だから。
「拒否するの?」
懇願する子供の様だった。抱き締めてしまいたい。でもそうしたら、奈落より深いところへ堕ちてしまう。
「卯羅……」
「狡い、太宰さんは、狡い。そうやって、何でも手に入れるの」
「何でもじゃないさ」
貴方はそう囁いて、欲したものを手に入れる。そして手に入れた後は、喪うことを必然と信じる。私の特別な人。太宰さんが居なければ、今ごろ、私は───。
彼の腕が私を包む。上腕に指が食い込む。
「聞かなくても善い。ただ私にこうされていて。最初はそうじゃなかったんだ。遊び半分だった。けれど、君が居ない夜は寂しくなった。欲してしまった。厭に隠れたくなった。ねえ、私と居ておくれ。何故君なのか説明は巧く出来ない。けれど、居て欲しい。愛してしまったんだよ」
もう、我慢は要らなかった。堕ちてしまおう。太宰治という底の無い闇に堕ちてしまおう。首筋に涙が伝う。太宰治は、まだ子供だ。私が大人という訳ではない。彼は、母親に泣いて手を伸ばす子供だった。甘えるのを自ら憚りながら、愛してと叫ぶ幼子。その幼子を抱き締めた。
「ごめんね、太宰さん、ごめんね」
愛しちゃった。もう仕方ないの。一線はとっくに越えていた。
「行くところまで行こうじゃあないか」
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