10.昇進
地下の収監所へ向かう。背の差か、上司の歩幅に追い付けない。外套が歩くのに合わせて舞う。蝙蝠みたいだなと後ろから思った。階段と紳士靴が出会う音が心地よかった。
「漸く来たか。最近の若いのは随分と足腰が弱いのう」
「今回のはこれ?」
母様は詰まらなそうに鼻で笑った。
「組織の商品を横流し、挙げ句、末は軍警の一員と言い張るでのう」
「だとしたら、こういう痛い目は慣れっこだろうね」
云いながら私を見た。母様の眉間に皺が刻まれた。
「けれど、こういう訓練はしなかったろうね」
「こやつを使うのか?」
「使うとも。可愛く、可憐で、物騒な、貴女の娘をね」
蛇。そう、彼は蛇。狡猾な蛇。娘に絡み付く蛇を母様は睨み付けた。蛇と猛禽類ならどちらが強いのかしら。
「こんにちは、軍警の方。随分と好運だね。ヨコハマを牛耳る巨悪組織の幹部二人が出迎えるなんて」
声は平淡だけれど、纏う雰囲気、眼は相手を射殺しそう。
「君たちの反応は何時でも同じだ。『こんな若いのが』という顔。マフィアはね、実力社会なのだよ」
太宰さんは其のままの表情で、捕虜に近づいた。
「さぞかし高尚な異能力をお持ちなのだろうね。けれど、此処では君の異能力は無意味だよ。先ずは入手経路からかな?それとも正義の味方のお話でも聞こうか?」
獲物が唾を吐き掛けた。それと同時に女の脚が砕けた。
「君は本当に過剰な反応をするね」
「だって」
太宰さんが他の女性と居るのはどんな状況でも嫌。太宰さんに刃向かう人はもっと嫌い。奥に居た母様が、悲しそうな顔をしていた。
「此処で無礼を働くとどうなるか解ったろ?」
女の顎に手をやり、甘い表情。許せない。
「却説、たっぷり搾り取ってあげようね。壊れるぐらいにさ?」
坂口さんと此の女、どちらが耐久力に優れてるのだろうか。
女の指には銀の装飾品が付いていた。其れが意味する事さえ、私を苛立たせた。
「ねえ、其の人ってこの人でしょ?」
後ろに控える部下に、別室で責問していた構成員を連れて来させる。そのまま雪崩れ込む様に、私と幹部に頭を垂れた。
「小さい頃から“こういう所”に居るとね、嗅覚が冴えるのよ」
数日前に発見した裏切者。太宰さんの派閥では無いし、下級も下級の構成員。
「首領から推定益と、実利の開きについて指摘され、ずっと調べていた。そしたら彼に辿り着いた。最近、彼と仕入に着いた構成員が、ほぼ必ず遺骸で見つかっていてね?」
太宰さんがその場に居た全員に、粗筋を説明する。
「いくら訓練されていても、こういうのは弱いでしょ?」
私は男の肩を亜脱臼させ、其の腕を後ろへ持ち上げた。絶叫が響く。
「組織の品は、彼から君を通じて、誰に流れていたんだい?」
解りきった答えを確認する上司。麻薬取締官と女は答えた。
「だろうね。訊きたかったのはそうじゃない」
太宰さんが男の掌を撃ち抜いた。
「誰が指示した?誰の命で潜り込んだ?」
男が微かな声で答えた。其れを聴くと、幹部様は男への興味を失した。
「残るは君だねえ」
静かな湖面を揺らす声。
「君たちは急き過ぎたんだよ。此の案件を取り逃したら、組織から棄てられる。顔に書いてある。潜り込む手際は褒めてあげるよ」
でもね、と前置きして、私に目で命じた。其れに従って、彼女の心臓の上に手を置いた。
「“たっぷり搾り取る”って云ったでしょ?」
手の下で心臓が一度大きく脈打った。
「きっとわざと捕まり、幹部の異能力を調べろとでも、云われたんでしょう?」
下顎呼吸を始めた。発汗し、痙攣を起こしていた。もう聞こえていようと、理解できないだろうけど、耳元で囁いた。
「すんなり漏らすほどマフィアは馬鹿じゃないよ」
其れから、女の耳から通信機を抜き取り、踏みつけて破壊した。
「止めろ、卯羅、もう止めよ」
一連を見ていた母様が、私の肩を引っ張った。女はもう事切れていた。
「姐さん、此れが本来の彼女だよ」
「お前の所為じゃ童。お前が卯羅をこうしたのじゃ」
母様に抱かれて頭を撫でられた。もう佳い、もう佳い、と何度も云われた。
「もう彼奴の所には帰るな。私の所へ戻ってこい」
私は、母様の腕から抜け出していた。
「今は、今は戻れない」
まだ息の有る男は其のままにしておくよう指示し、上司と一緒に、其の場に背を向けた。
「母は、私は何時でも待っておるぞ」
母様の声が背中に重くのし掛かった。
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