6-66 返却

 夕が帰るのを見送った後、俺は黙々と宿題をこなしていた。特にここ数日は勉強どころではなかったし、明日も外出ということで、今のうちにまったタスクを消化しておかなければならない。

 ただそれは義務だからもあるが、特に今日は夕の話のいたる所で知識不足を痛感しており、少しでも頑張ろうという意気込みもあってのことだ。きっとそれは、どちらを選ぶとしても必要になってくるはずで……今の俺はただの無力な子供だが、努力すればあちらの俺のようなすごいヤツに成れるはずなんだから。そう思えば、これまで漫然と事務的にこなしてきた勉強も、目的意識が芽生えてやる気もいてくるというものである。

 そうして宿題が半分ほど片付いたところで、夕食を取ることにした。買い物だけの移動は効率が悪すぎるので明日の帰りに回した結果、我が家は相変わらず食材難……ということで、ご飯に味噌汁と漬物だけの質素なものだ。美味い昼食を腹いっぱい食べ、おやつまで出してもらったこともあるし、独り飯ならこれで充分である。

 続いて風呂を済ませ、身体をいて着替えようとしたところで……


「しまったぁ……」


 替えが全く無い事を思い出す。洗剤を切らして昨日は洗濯できていなかった事を、すっかり忘れていた。それで携帯にメモまでして、部活の帰りに買って来るはずだったが……夕の一件でそれどころではなく、もちろん買えてなどいない。

 こうなれば、スーパーが閉まる前にダッシュで買いに行って……いや、せっかく風呂に入ったのに汗はかきたくないな。仕方ない、気休めに石鹸せっけんの欠片でも入れて回しておくとするか。

 そうして洗濯機を起動したものの、洗乾が終わるまでの二時間半をマッパで過ごす訳にもいかない。せめて何か代わりに履くものはないかと箪笥たんすを引くと……


「――え、なぜに?」


 なんとそこには、一着のトランクスが定位置に鎮座していた。昨日の段階では在庫ゼロだったはずだが、どういうことだろうか。全く意味が分からない。

 手に取って広げてみるが、間違いなく俺の物だ。まぁ、俺以外の物があったら恐怖でしかないが。


「オマエさん……どっから湧いてきよった?」


 あまりに不可解な状況に、物に語りかける怪しいヤツになってしまう。

 昨晩にはこの所定位置に無いことを確実に確認したので、絶対に思い違いではない。そうなると、誰かがここへ仕舞った事になり……とは言えヤスはすぐ帰ったし、夕しか……でもそんな事をする意味が全く無いし、そもそもナゼ持ってたんだ?

 そこで良く良く思い出してみると、昨晩はあると思っていた一枚が無く、今ここには一枚がある訳だから……夕は昨晩持ち帰ったこれを返したということ、なのか? それこそ一体何のために……――ハッ、まさか夕が俺のことを、その……好き、過ぎて、持って帰った……? ――いやいやいや、いくら何でも夕にそんな変態的な趣味はないだろ!? そうなると……。


 ――大君、それ以上考えちゃダメよ。


 え、お袋!? 急にどうした!?

 これは、無意識にナニカを察知した俺が、これ以上考えるなと引き止めているのだろうか。


「んなこと言っても気になるっての」


 の制止に構わず、昨晩の帰り際の夕の様子を思い返してみる。

 たしか……そう、犬にえられた後、慌てて忘れ物を取りに家へ入って……そうか、あの時に持って行った? それでしばらくして戻って来た夕は、顔を赤らめて妙にソワソワしながら何かをつぶやいて…………………………え、まさかアイツ……履いて、帰った、のか?

 それに気付いてしまった瞬間、俺は手に持ったトランクスを取り落とす。


「バ、カ、かっっっ!!!」


 お前は何てものを置いていきやがったんだ! 持って帰ったなら、せめて……せめてそのまま捨ててくれや! こんなもん律儀に返されても、俺はどうしたらいいんだよ!?


「はあぁぁぁ……」


 こんなことをされては、心労マックスでため息も出るというものだ。

 これは今度会った時に問い詰めて――っていやいや、んなこと聞けるかい!

 にしても夕はナゼこんな意味不明なことを……。


 ――大地よ、進んではならぬ。


 え、親父まで!? 今そんなシリアスな状況なの!?

 だが俺は無視して突き進む。知らん、もはやヤケクソだ。

 それで単純に考えると、夕は履くものがなくて止む無く借りていった……のか? じゃぁ自分のはどうしたんだよ……そう考えた時に、夕が犬に驚いて腰を抜かしていたことに思い至る。


「あ」


 そこで俺は、あの時夕の身に起きた全てを悟ってしまった。


「夕……お前ってヤツは……」


 そうか、そんなに犬が怖かったのか……かわいそうに。

 そうとなれば、これは夕に言えないどころか、俺が真実を知った事すらも絶対に悟られてはいけない。夕の名誉を守るため、墓まで持っていく覚悟でいなければ! ……そういう意味でも、そのまま証拠隠滅しておいて欲しかったぜ。ほんと律儀な子だよ、まったく!


「それはそうと……コレ、どうするよ?」


 独り呟きつつ、床に落ちているブツを無気力に眺める。

 履く、という選択肢だけは絶対に無い。夕の事だし洗って返してくれているはずだが、それでも落ち着いて眠れる訳がない。マッパでいる方がまだマシだ。そもそも夕はよくぞ履いて帰ったもんだよ……まぁスカートだったし、無いよりはってやつなんかな。


「ええいもう!」


 俺の目の前に今一番必要な物があり、しかもそれは俺の私物であるにも関わらず、使用できないときた! 意味が分からない! 呪いのアイテムかよ!?

 もはや残されたのは捨てるの一択である。俺の精神衛生上やむを得ない苦肉の処置だ。まだ買ったばかりなのに、何てもったいない……どうしてこうなった!

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