5-01 悪夢(1)

「――いち」


 誰かの呼ぶ声にまぶたを開ければ、今は亡き父の顔が薄ぼんやりした視界に入る。なぜ父が、と寝起きで回らない思考の中、辺りに異変を感じた。もの凄く暑く、焦げ臭いのだ。


「起きろ大地!」


 再び父の怒声。この部屋なんか暑くない、と口を開きかけたところで、


「火事だ、コテージが燃えてる! 早く起きろ! 逃げるぞ!」


 この異常な暑さの理由を示す早口の言葉が、耳に飛び込んできた。普段は何事にも動じない父なので、これほどに焦った様子は見たことがなかった。


「っ!?」


 大慌てて飛び起きると、深夜だというのに周りは薄橙はくとう色に覆われており、天井付近にはすでに煙が立ち込め始めている。


「父さん!」


 そこで自分ののどから、普段よりも若干高い声が発せられた事に驚き、またこの意図しない発声によって気付いた。これは夢――いわゆる明晰夢めいせきむだと。そしてよりにもよって、これが忌わしきあの日の再現であると。

 待ってくれよ、こんな悪夢冗談じゃないぞ。早くめてくれ! 

 今すぐ夢から現実に戻りたいと思うものの……意に反して身体は全く動かない。意識だけが昔の自分に重なって、感覚だけを共有しているような形だ。


「これを口に当てておけ」

「う、うん」


 父が差し出すハンカチを俺の身体が勝手に受け取ると、それを口元に当て、すでに出口へと駆けている父を慌てて追いかける。……そうか、この過去の出来事を追体験し続けるしかないようだ。

 部屋から飛び出すと、廊下からはより一層の熱が迫ってきて、自然と目をすがめてしまう。


「こっちだ」


 父はコテージの出口となる右手に向かって指差した。古い木造の建物なので火の足は速いが、幸いなことにも火の手は左手側からきているようだ。出口側の方は若干安全そうに見える。左側の奥は……いつ天井が崩れてもおかしくない程の勢いで燃え始めている。


「……ん?」


 そこで左側から、小さいながらも声が聞こえたような気がして、一瞬立ち止まる。奥に人がまだ居るのかもしれないと、ふと嫌な想像が浮かんだが、父の後を追って右へ駆けだした。きっと気のせいで、他の人達はすでに逃げ終えているはずだ……焦る気持ちがそう思わせたのだった。

 広めの構造ではあったが所詮しょせんはコテージであり、周りの炎に注意しながら走っても、ものの十秒ほどで出口にたどり着いたと思う。恐怖から数分にも感じられたのだが。

 辺りを見回せば他の宿泊客達が集まっており、無事に飛び出してきた自分達を見て安堵あんどの表情を浮かべている。


「だいじょぶだったかよ!」


 その中の一人の男子が駆け寄ってきて、声を掛けてくる。この町内キャンプに一緒に来ていたご近所さんであり、同じ中学校のクラスメイトでもあった。


「あぁ、父さんにたたき起こされたと思ったらこれだよ……」

「オレもだ。なんか二階の左奥から出火したらしいぞ。ほんと、とんでもない事になっ――」

「だれかー!」


 友人の声を遮って、背後の戸口から女性の叫び声がした。その中年女性の顔はすすで黒ずんでおり、命からがら炎の中を抜けてきたのだろう。


「娘が……娘が、崩れてきた天井に挟まれて……誰か力を貸して下さい。私の力ではどうやっても……」


 すかさず父が駆け寄り、自分も後に続く。


「場所は!」

「あっ、じゅん君っ! 一階の左側の一番奥! でも……」


 女性は気安く父の名を呼び頬を緩めるが、すぐに困り顔に変わる。


「……わかった、僕が行く、行かなければ。真紀まきさんは、ここで待っていて。必ず連れ帰る」


 わずかな逡巡しゅんじゅんの末、父は引き受けた。そう、引き受けてしまったのだ。

 左側と言えば、自分達がたった今逃げてきた方向である。あの場所へ戻るだけでなく、さらにその奥へ行くという事だ。あの熱を思い出し、身体のしんから恐怖がき上がってくるが、


「父さん、俺も」


 それを勇気で押し殺し、同行を申し出ていた。困っている人が居たら助けるんだぞ、という父の教えもあったが……さっき聞こえた声は、この母親と娘の声に違いない。それを空耳として都合よく聞かなかったことにし、自分達だけ逃げてしまった事への自責の念もあったのだと思う。


「だめだ。大地、お前はここに残れ」

「でもっ!」

「中はとても危険だ。分かるな? 今の大地では足手まといだ」


 食い下がる俺へ真剣な眼差しを向けて、諭すように語りかけてくる。


「ぐっ……」


 たしかに、子供の腕力でできる事など、たかが知れているだろう。足を引っ張る可能性の方が高いのは解るが……自分が無力だとはっきりと言われて、かなりショックだった。


「だが、その気持ちは大切にしなさい。いつかお前を必要とする人が、必ず現れるはずだ」

「……わかった。でも、必ず戻ってきて」

「もちろんだ!」


 父はそう笑って答えると、炎と煙が立ち込めるコテージ内へと駆け出していった。

 そうして父が向かってから数分が過ぎたところで、周りからも焦りの気配が漂ってくる。俺が今か今かと父が出てくるのを待っていた、その時――


 ドーン!!!


 重量物が落ちる大きな音が辺りに響き渡り、しかも父が向かったコテージ左側から聞こえたのだった。


「父さんっ!」


 俺はそう叫ぶと、周りの制止を振り切って駆け出していた。

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